指揮者冥利に尽きる一週間

三澤洋史

指揮者冥利に尽きる一週間
 愛知祝祭管弦楽団の「ワルキューレ」公演の興奮も冷めやらぬまま関西にやってきて、月曜日からスクール・コンサートを始めたことは、先週書いた。

 月曜日は海南市まで行き、海南市立東海南(ひがしかいなん)中学校、火曜日は和歌山城近くの、今年の4月から小中一貫校になったばかりという和歌山市立伏虎(ふっこ)義務教育学校、その後堺東(さかいひがし)のホテルまでバス移動して、水曜日は堺市立登美丘(とみおか)西小学校、木曜日は大阪市立春日出(かすがで)小学校、そして最後の金曜日は、八尾市立八尾(やお)小学校と回った。

 どこでも、子ども達の心の根っこは純粋で飾り気がないが、特にこの地区の子ども達は、反応がとても良く、笑って欲しいところでは気持ちが良いくらい笑うし、反対に、じっくり聴いて欲しいところでは、きちんとおとなしく聴いている。みんな素朴で素直。
 僕は、スクール・コンサートが大好き。というより、新国立劇場の中でクォリティの高いオペラを上演するのと同じ価値を見いだすし、子ども達と生で接していると、むしろこっちの方が自分には合っているのでは、と思うくらいだ。
 なにより、子ども達が、口をあんぐりと開けてびっくりした表情を見せたり、目をキラキラと輝かしてのめり込むようにして聴いているのを見ると、音楽というものの“生きた力”をまざまざと感じて、こちらの胸が熱くなることもしばしばだ。

 滞在中はなんといっても朝の散歩が楽しみ。その土地の気に触れるのは朝が一番。和歌山城へは前回のワークショップの時に行ったので、今回は和歌山城を左に見た後、JR和歌山駅ではなく南海本線の和歌山市駅(まぎらわしい)まで行き、そのまま紀ノ川に出た。
 紀ノ川は、もう河口付近なので、広く雄大な流れに圧倒された。そういえば、和歌山市の雰囲気も、この流れのようにゆったりしていて、高い建物があまりないから空も広く、僕はこの街がとても好きになった。


紀ノ川

 堺東では、仁徳天皇陵の南側の大仙公園の南西に健康福祉センターがある。ここに2度ほど泳ぎに行った。そのそばには、仁徳天皇陵よりひとまわり小さい履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)がある。仁徳天皇陵は、とにかく大きすぎて、何がなんだか分からないが、この履中天皇陵くらいだと、やっと把握できる。このくらいでもう充分だよな。なんであんなでかいもの作ったか!
 朝の散歩では、ランダムにいろんなところを歩き回ったが、この地では、どこに行っても古墳に突き当たる。すごいな、この地は。


履中天皇陵

 土曜日と日曜日には浜松で浜松バッハ研究会の練習と演奏会をこなさなければならないので、本当は、東京に帰らずに、浜松で途中下車すればいいところだったが、あえて一度東京に帰った。家に着いた時にはすでに夜になっており、次の日は午前中に出てきたから、まさにとんぼ返りという感じだが、帰った時には孫の杏樹はまだ起きていて、とっても喜んでくれたから、それだけでエネルギーをもらった。また、わずかな滞在とはいえ、東京でないと出来ないこともあったので、帰った甲斐はあったのだ。

 先週の日曜日「ワルキューレ」本番。月曜日から金曜日までずっと本番。そして次の日曜日は浜松で本番。なんとも忙しい毎日だが、僕は指揮者になりたくてなったんだから。こんな日々を送れることこそ本望だ。
まさに指揮者冥利に尽きる日々!
ありがとう、神様!

モツレクを指揮できるしあわせ
 次女の杏奈が今の杏樹くらいの頃。ステレオから鳴っている音楽を聴きながらこう言った。
「目をつむると杏奈がいなくなって、音楽だけになるよ」
子どもなのに凄いことを言うなと思った。いや、子どもだからこその感性なのだろう。僕はずっとその言葉を覚えていて、それに似た体験をするごとに杏奈の言葉を思い出した。

 6月18日日曜日、浜松アクトシティ中ホール。モーツァルトのレクィエムを指揮しながら、久し振りにそんな体験をした。それは、ゲネプロから感じていたので、レクィエムの通し稽古が終わった直後、浜松バッハ研究会のみんなに言った。
「この曲を指揮していて、僕は何も考えていない自分をそこに見いだしました。この曲はもう何回も指揮しているので、スコアは完全に頭に入っているし、自分の解釈にもブレがないので、次どうやろうかな、などと考える必要もないのだけれど、それでも、こんなに自然に演奏できるのは初めてなので、本番になるとどうなるのか自分でも予想がつきません。でも、良い本番になる確信だけはあります」
聞いているみんなは、はあ?何いってんの?という感じだったろう。でも、そうとしか言いようがなかったのだ。

 そして演奏会本番。昨年の中央大学混声合唱団演奏会のプログラムを参考にしながら作ったプログラム構成。バッハのモテット第1番「新しい歌を主に歌え」とハイドン作曲「マリア・テレジアのためのテ・デウムハ長調」を第1部にして、第2部はモーツァルトのレクィエム。わずか3人の通奏低音奏者という編成のモテットから、シンフォニックな大編成の「テ・デウム」への転換に要する時間を利用してスピーチするところも、中央大学と一緒。違うのは、メインプログラムがハ短調ミサ曲ではなくてレクィエムであること。

 演奏会の曲は全て暗譜で指揮した。バッハを指揮する時には、構造が複雑で意識的に作られている音楽なので、知性が眠ることはまずない。バッハ特有の大きな光に包まれている体験はいつもの通りだが、あらためてバッハの音楽はKunstなのだと再認識した。この場合のKunstというドイツ語は、「芸術」という意味よりもむしろNatur「自然」の反対語としての「人工のもの」という意味である。
 ハイドンも似ている。「テ・デウム」は、1798年から1800年にかけて書かれたといわれているので、モーツァルトがレクィエムを未完成で残して亡くなった1791年よりもずっと後の作品。それに1732年に生まれたハイドンとしては60代後半の巨匠の筆。すでに二つの大作であるオラトリオ「天地創造」も「四季」も完成している。
 古典派のシンフォニックな構成の中に見事にはめ込まれたフーガを見ても、一分の隙もない名工の技が冴える。この曲を指揮する時は、バッハよりもずっと自分の意識が覚醒しているのを感じる。古典派音楽が、啓蒙主義という“理性を重んじるイズム”とリンクしているのも、さもありなんと思った。その意味では、ハイドンこそ古典派音楽の代表者だ。

 さて、メインプログラムのレクィエム(以下モツレクと略して言う)であるが、僕は曲の開始から最後の音が消えるまで、本当に「なんにも考えていなかった!」のである。いや、もちろん、僕がテンポを決めてアインザッツを出さなければ、オケも合唱も誰も出ないし、Kyrieのフーガの各主題のアインザッツは全部出しましたよ。でも、通常だと、スコアが頭の中にあって、「次はアルトが主題だな」とか思うのだが、あまりにこの曲が体に入っているので、頭の中にはスコアも特に提示しないし、アインザッツを上げるための運動も、ほとんど無意識。それ以前に、ビートを刻み、テンポを紡いでいく右手がそもそも無意識。まるで人ごとのように、音楽だけが滔々と流れている。

 でも、モーツァルトの音楽って、なんて優しく、味わい深くて、まるで山の頂きから次の山の頂きへ愛の響きがこだましていくようなんだろう。特にBenedictusでは、4人のソリスト(Sop.飯田みち代、Alt森季子、Ten.大久保亮、Bs.能勢健司)の響きが一体となって本当に美しいハーモニーを作り上げ、最後のin nomine Dominiのフレーズでは、会場が天国的な光に包まれた感じがした。
 オケも合唱も、暖かく柔らかい響きで演奏し、この曲が「死者を弔う」などという一般常識をはるかに越えた高い精神的な境地によって作曲されていることを再確認することが出来た・・・・ほらほら・・・なんにも考えていなかったわけじゃないじゃない。まあ、そうだね。
 でも不思議なんだ。一方ではすごく冷静な自分がいて、中で起こっていることを全て把握しているんだ。誰の音程が悪いとか、誰がどこで間違えたとか、いちいち言えと言われれば全部指摘できる。
 同時にもう一人の自分がいて、天上界に流れている音楽の流れに従って音楽を奏でているのだ。そんな僕が聴いている音楽は、現実の音楽とは違う。角皆優人君とかアスリートが素晴らしいプレイをした時によく言うように、“自分のまわりが沈黙に包まれる”感覚があるのだ。音楽が鳴っているのに沈黙とは変な話だが、究極的な静けさの中から“染み出す”音楽に身を任せるのだ・・・・うーん、やっぱりうまく言えない。

 演奏している最中の僕は、自我が完全にゼロとなっている。これは最近の演奏会ではみんなそう。まあ、指揮台に立って、演奏会を指揮している最中に、俗的なことをあれこれ考えても仕方ないだろうがね。
 もしかしたら、先日の愛知祝祭管弦楽団の「ワルキューレ」を指揮していた時には、ニュアンス的にちょっと違うかも知れない。それは“描く音楽”だから。ドラマの流れに沿って、ひとつひとつの情景や情感を丁寧に描き出していこうという“意識的なもの”を捨てるわけにはいかないのだ。
 でも、その際にだって、多分、禅僧が座禅の最中に到達しているくらいの自我の滅却状態にはなっていると思うよ。エゴイスティックな自意識は勿論のこと、日常的な次元からは魂が完全に離れているから。

 ワーグナーは、オペラ作曲家の中では、精神的にも高い境地にあるものの、それでも、やっぱり宗教曲そのものを指揮している時には、またひとつ違うのだ。自我の滅却状態によって出来た魂の空白を埋めるべく、天上界からの光がいっぱいに入ってくるのが感じられるのだ。これを知ってしまうと宗教曲はやめられない。
 しかしね、これまでは、バッハの音楽を指揮している時こそが究極の状態だと思っていたけれど、モーツァルトもやっぱり天才なんだな。モーツァルトは、あまりに自然に流れるので、自我ゼロだけでなくて知性もゼロにすることが出来るのだ。まあ、そのためには、僕自身がその曲そのものに成り切るくらいまで精通しないと、見えてこないというのもあるんだけれどね。

 自分は指揮者だから、譜面を見ながらだったら、その日のうちに譜面を渡されて本番を指揮することだって出来なくはない。このレクィエムをこれまで知らなくて、そうやって演奏したって、振れることは振れる。もしかしたら、見かけはあんまり変わらないかも知れない。
 まわりを見回してみると、結構それに近い状態で演奏会を指揮している指揮者もいるよね。指揮を生業にしていたら、そのくらい出来て当然かも知れない。でもね、それじゃダメなんだ。そんな次元から、今自分がモツレクを指揮している状態までは、一体どのくらいの意識の距離があるのだろう?
 始めてこの曲を指揮した時(恐らく1986年群馬県合唱連盟演奏会、オケは群馬交響楽団)、僕はすでにこの曲を暗譜して指揮している。さらに何度も指揮している内に、まさにスコアのひとつひとつの音まで把握するようになっている。
 「モツレクを暗譜で指揮出来る」という30年前の次元から、そこに留まることなく、どんどん自分のハードルを上げていって、僕はやっとここまで辿り着いてきたのだ。そして今後も、無限に僕のハードルは上がっていく。
 その背景には、自分が何故音楽家になったのか?何故芸術家がこの世にいる必然性があるのか?という真剣な問いがある。さらに、何故自分は生きているのか?という究極的な問いに行き着くのだろう。
 ふうっ!人生いくつになっても果てがないですなあ。って、ゆーか、ここまでしなくてもいいだろう、という声が聞こえてくるだろうが、僕は、ここまでしなくては満足出来ない人間なんだ!分かったあ?

 とにかく浜松バッハ研究会のみなさん。ありがとう!よく、終わってから、
「三澤先生、講評をお願いします!」
って言われるんだけど、僕も当事者で、しかも、こんな風に自分自身の問題に取り組んでいるわけだから、みなさんを偉そうに批評するほど傲慢ではない。つまり、もう感謝しかないわけ。

ああ、しあわせだなあ!
僕の人生で、あと何回モツレクが指揮できるんだろう?
そして、死ぬ前の最期のモツレク演奏では、僕の魂はどの境地にまで到達出来るんだろう?

ブラザー佐藤との再会
 僕は、高崎高校2年生の時に、思うところあってキリスト教会に行ってみようと思い立ち、いくつかの教会をお試しで回った。あるプロテスタント教会の外国人の牧師さんは、まず僕に旧約聖書の創世記を見せて、
「はじめに神は天と地を創造されたとあります。あなたはこれを信じますか?」
と言った。僕は、
「いや、まだ信じていません。でも信じたくてここに来たのです」
と言ったが、牧師は、
「いえ、あなたはまずこれを信じなくてはなりません。でないと、何も始まりません」
だからあ・・・何とか信じさせてよ、と思ったけど、あえて反論はしなかった。その代わり、ここは駄目だと思った。そんな風に盲目的になってしまっては、僕が僕でなくなってしまう。僕は、きちんと理性でも、「これは信じるに足るものだ」と納得しないと嫌だったのである。それからいくつかの教会を巡ったが、どこも似たようなものだった。

 それで失望しかけてもうやめようかなあと思ったが、ふと、僕が小学校、中学校と通っていた通学路の途中にカトリック教会があったなあと思い出した。でも、カトリック教会は、それまで行った全てのプロテスタント教会の牧師が目の敵にしていて、
「カトリック教会にだけは行ってはなりません!」
と言っていた。
「あそこは偶像礼拝の巣窟です!いろんな像を作って、それを拝んでいます。恥ずべき事です」
ということであった。
 そうでなくても歴史の授業などで、中世における魔女狩りや免罪符の発行など、堕落の象徴のように扱われていたので、カトリック教会は分が悪かった。僕も入るのに躊躇していたが、ここにいってダメなら教会巡りは終わりにしようと思いながら入ってみた。

 驚いたことに女の人が出てきた。この人はカテキスタと呼ばれる修道女で、教会を訪れた人にキリスト教の教義を教える係なのだという。そこで僕は、また「天と地を創造した」を信じ込まされるのかなと身構えたのだが、その小柄なおばさんは、なんにも僕のことを訊ねないで、なんか世間話のようなことを話している。
僕はじれったくなって、
「あのうキリスト教のことを信じたくてきたのです」
と言うと、
「そんな、今信じて下さいってあたしが言ったって、あなたはすぐには信じられないでしょう」
「では、どうしたらいいのでしょうか?」
「まず、一緒にちょっと勉強してみませんか?それから、それが信じられるかどうかは、あなたが決めればいいじゃないですか」
おおっ!他の教会とは大違いだなあ。なんか、いいなあ。このユルさ。
「ああ、そうそう今度の日曜日空いてます?」
「ええと・・・はい、空いてますけど・・・」
「実は、今度の主日のミサにオルガンを弾く人がいないんです。あなた、音楽をやっているんでしょう?弾いて下さらない?」
「ええっ?僕、だって今日来たばかりですよ。なんにも知らないし・・・第一、信者でもないどこの馬の骨か分からない人に、そんな大事なミサで弾かせちゃっていいんですか?」
「いつも弾いてくれている女の子が、みんなでみかぼ山に遊びに行くというので、弾く人が誰もいないんですよ」
「タイミングとか全然分からないですよ」
「あたしが教えます」
大丈夫かなあ・・・この教会・・・でも、なんか面白そう。
ということで2階の聖堂に案内され、オルガンを見る。ゲッ、足踏みオルガンやんけ!
「あのう、これから練習していいですか?」
「どうぞどうぞ、いくらでも」
ミサで歌う聖歌を教わって、とりあえず練習し始めた。ペダルは、曲のリズムとは全く無関係に、空気を絶やさないように、ゆっくりと、しかしながら確実に踏み込んでいかないといけない。いつも弾き慣れているピアノとは全然違うのでとまどったが、慣れてきたら楽しくなってきた。

 日曜日になった。カトリック新町教会は司祭が常駐していない。司祭は隣の藤岡市から来るのでミサは午後6時から。僕はミサの前に一生懸命オルガンの練習をしていた。すると、階段を駆け上がってくる音がして、ひとりの女の子が聖堂に入ってきた。僕の方をじっと見て、この人誰?って怪訝そうな顔をしている。
 それが、今の妻との出遭いである。彼女は、みかぼ山に遊びに行くので向坂(さきさか)先生(それがカテキスタの名前である)にはミサに出席できないと言ったものの、気になってみんなと別れてミサのオルガンを弾きに戻ってきたという。しかし、2階からオルガンの音がするので、不思議に思って聖堂に来てみたら、見たこともない人が弾いていたということだ。

 別に彼女がいたからというわけでもないけれど、運命に導かれるようにして、僕は新町教会に通うようになった。それからさらにいろんな出遭いがあり、僕は桐生にある聖フランシスコ修道会の修道士達と仲良くなった。その中には、「アーメン・ハレルヤ」や「神様といつも一緒など」という名曲を作曲した末吉良次(すえよし よしつぐ)さんもいたが、今回再会した佐藤達郎さんもいたのだ。
 僕は、浪人中に一週間ほど聖フランシスコ修道院に行って、修道士達と一緒に生活してみた。ここは黙想会の施設になっていて、泊まりの黙想会が頻繁に開かれていた。僕は、修道士達に習ってベッドメイキングをしたりしながら、朝早く起きて、ミサから始まる修道生活を経験した。
 その時は、修道士になるのもアリだなあと本気で思った。末吉さんをそばで見てもいたので、修道士になっても音楽は出来るのだなと思ったが、やはり今はもっと突っ込んでトコトン音楽をやってみたいので、とりあえず音大に行こうと思った。

 あの頃、新町教会には若者達が結構通っていて活気があったので、佐藤さんも末吉さんもよく新町教会に来てくれて、僕もギターを弾いて、みんなでフォーク・ミサをやった。末吉さんは出来たての曲を持ってきて、まだ誰も知らない新曲が、全世界に先駆けて新町教会に響き渡ったりもした。

 僕はブラザー佐藤を特に尊敬していた。彼はまさに情熱の人で、福音宣教にももの凄く情熱を燃やしていた。桐生の修道院に泊まりに行った時も、ベッドメイキングが終わると、よく彼と一緒に、付近の未信者の人達の家を訪問した。やくざさんだった人や、いろいろ問題があって信仰の道にすがりたい人達を訪れては、神様の話を熱心に説くブラザー佐藤を横からまぶしく見ていた。
 当時、まだ生意気で反抗的で、納得出来ないと簡単に洗礼なんかしないぞ、と思っていた僕を上手に導いてくれたのはブラザー佐藤その人である。彼がいなかったら、僕は受洗までにこぎ着けていなかったのではと思う。まさに信仰生活の恩人である。

 ブラザー佐藤は、その後、アフリカ及び宣教活動が禁止されている中国に渡り、精力的に福音宣教活動を行っていく。現在は、大阪の生野教会にある修道院に住んでいる。それで、今回、新国立劇場合唱団のスクール・コンサートで僕が大阪に滞在している間に連絡を取り、もう何十年ぶりに大阪で再会したというわけである。

 ブラザー佐藤は、今度の誕生日が来ると満80歳になるという。いやあ、元気でかくしゃくとしていて、とてもそんな風には見えない。アフリカではスラム街に住んでいたという。衛生状態が悪かったので、いつも病気になるのではと心配していたというし、一方で、生活は貧しかったけれど、みんな明るく楽しかったと言っていた。本当は、勿論楽しいと簡単に言えるほどではなかったのは間違いない。
 中国では、反対に、生活的には優遇されていて、その点では住みやすかったというが、その代わり、常に当局に見張られていたという。とはいえ、具体的に捕まったり痛い目や危ない目に遭ったりはしなかったけれど、最後には、いよいよこれは危ないというので、半ば強制的に帰国させられたという。
「まだ、向こうで必要としている人がいるのに・・・」
と言う。
「今からでも事情が許せば、福音宣教にどこでも出掛けて行きたい」
と言うから、
「佐藤さん、もう80歳なんだから、下手すれば人から介護を受けるような歳ですよ。無理しないで下さいな」
と言ったが、いまだに少年のように目をキラキラさせて、アフリカや中国のことを語るブラザーを見ていて、つくづく信仰って素晴らしいなあと思った。あの時代に僕の周りに、こんな素晴らしい人がいたのも、神様の恵みでなくて一体何であろうか。

 ブラザー佐藤は、僕のスクール・コンサートの最終日の、16日金曜日の八尾小学校のコンサートに生野教会の信者さんを連れて観に来てくれた。僕がスピーチしながら指揮する姿を見たり、小学生達が演奏に惹き付けられたり、笑ったり喜んだりするのを見て、
「三澤君、素晴らしい音楽家になったね。それと、とっても大切なことをやっているね。僕も本当に嬉しいよ!」
と言ってくれた。
僕たちは、また再開することを堅く約束して別れた。彼は僕の信仰の宝。


ブラザー佐藤と


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