マザー・テレサの言葉

三澤洋史

マザー・テレサの言葉

人は不合理、非論理、利己的です。気にすることなく、人を愛しなさい。
あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。気にすることなく、善を行いなさい。
目的を達しようとするとき、邪魔立てする人に出会うでしょう。気にすることなく、やり遂げなさい。
善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。気にすることなく、善を行い続けなさい。
あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。気にすることなく正直で誠実であり続けないさい。
助けた相手から恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。気にすることなく助け続けなさい。
あなたの中の最良のものを世に与え続けなさい。気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。
マザー・テレサ
 妻が、iPhoneを眺めながら、
「たまたま開けた名古屋教区の早川努(はやかわ つとむ)神父様のFacebookに、こんな言葉が載っているよ」
と僕の前で読み上げた。僕は、この言葉に深く感動した。

「気にすることなく」
とさりげなく言い切ることの出来るマザー・テレサは、恐らく自分の行動に対する誤解や不当な扱いを数限りなく受けて、最初は気にしていたに違いない。
 そして、同じような人達に対して、
「きっとあなたもそんな時、気にしてしまうでしょう。時にはそれでひるんだりためらったりしてしまうでしょう。あなたがいいひとほど、深く傷ついてしまうでしょう」
という愛といたわりの心を持って、この言葉を贈っているのだと思う。だって、悪口を言われたり、不条理な扱いを受けて気にしない人なんていないでしょう。

 また、人はなにかをすると、常に自分に跳ね返ってくる自己の弱さや至らなさに出会ってしまう。完璧な人間なんていないから。それに、「自分は素晴らしい慈善事業をやっているんだ」という自己満足に陥りやすいので、それを戒めるための神さまのはからいかも知れない。でも、それを指摘されると、結構へこんでしまうことがある。やり方がまずかったのかな?とか、言い方に問題があって、あんな風に不機嫌にさせてしまったかな?とか、反省点なんて次から次へと泉のように出てくるけれど、その声にばかり耳を傾けていると、どんどんモチベーションが落ちてきて、しまいには、
「自分はその器ではないのかも知れない。やめよっかなー」
ともなり兼ねない。

 でも、だからこそマザー・テレサは、あえて、
「人は不合理、非論理、利己的です。気にすることなく、人を愛しなさい」
と言い切るのだ。
 凄いなあ!強い愛だなあ!ここまで徹底的に言われると、かえってすっきりするよ。
「人はみんな正直で愛に溢れています」
ではなくて、ほとんど、
「人はみんな悪人です」
と言っているようなものだからね。軟弱なロマンチストだったら、「人は不合理、非論理、利己的」に反発を覚えて、
「マザー・テレサは、どうしてこんなに人間不信なの?」
って思ってしまうかも知れない。

 しかしながら、強い意志を持って人が成し得なかったような善を行っていこうと努力している人ほど、このメッセージはよーく理解出来るのだ。それどころか、この言葉の陰に隠れたマザー・テレサの後進に対する激励の想いの強さに、胸を熱くするのではないか。
 本当は、誰も根っから悪い人や悪意のある人はいない。でも、人間は、自分より一歩先んじている人は理解出来るけれど、三歩先を歩いている人はもう理解出来ないのだ。それで、何か裏があるのではないかとか勘ぐりながら、相手を自分と同じ次元に引きずり下ろして安心しようとするのだ。そのこと自体には大きな罪はないのだが、それに嫉妬ややっかみの気持ちが混じると、もうそれは悪意に限りなく近くなってくるのだけれどね・・・。

 でも、僕たちが、自分に対して反発する声にひるんだからといって、そのことで善そのものを行うことを断念してしまったら元も子もない。だから、悩んでも、苦しんでも、傷ついても、とにかくやり始めたら前進していく他はないのである。
 やり方が稚拙だったとしても、やりながら学んでいけばいい。最初の人には「ごめんなさい」になってしまうけれど、だって仕方ないじゃない。誰だって、最初から巨匠になれるわけもなし。図々しくて開き直っているようだけれど、マザー・テレサのように、「気にすることなく」進んでいくしかないんだよなあ。でもそれが正解なのだ!

 我々はキリストにならって生きていかなければならない。それは、こんな弱い自分にとって大それたことだと思いたくなるが、謙虚になり過ぎると人間はかえって卑屈になり、巡り巡って傲慢とも成り得る。
 悪に、悪を持って報わず、自分を十字架につけた者達に対してさえ、
「主よ、彼らを赦してください。彼らは自分で何をしているのか分からないのです」
という祈りを捧げる無私なるキリスト。そこに、
「気にすることなく、最良のものを与え続けなさい」
というマザー・テレサの言葉の“模範的な体現者”を見る。

 僕は、そんなキリストを師と仰ぐ。師と仰ぐ資格があるかどうか分からない。でも、親は、自分の子どもがどんな無知で愚かでも、決して見棄てたりはしないだろう。僕はそれを信じる。厚かましくキリストの絶対愛を信じる。そして、親としてそれに頼り切る。
 だから、今度は親であるキリストの望んでいることに、全身全霊を傾けて精一杯チャレンジしたいのだ。キリストが望むように、愛に満ち、善を作り出す人でありたいと望み、いろんなことに対して「とっても気にしても」、マザー・テレサの言うように「気にすることなく」進んで行こうと思う。

マザー・テレサよ、これでいい?

「蝶々夫人」の週の本番以外の過ごし方
 7月10日月曜日から15日土曜日までの、高校生のための鑑賞教室「蝶々夫人」公演が無事終わった。途中で具合が悪くなったりしたら大変だったので、体調管理にはとても気をつけたが、結果的には絶好調の内に終わることが出来た。
 妻は、毎日車で僕を新国立劇場まで送り届け、楽屋の世話をして、公演を観て感想を言ってくれた。招待券が出た日もあったが、出ない日は自分でチケットを購入した。行きの車では、決まって僕はサンタナのCDをかけた。
「なんでバタフライなのにサンタナを聴くの?」
「ようし!やってやろうじゃないの、って元気が出るでしょう」
「そうかなあ・・・・」
と言っていたが、3日目くらいから、
「このパーカッションが体に響いて、内面から元気にするわね」
「でしょ、でしょ!」
という感じで、洗脳はなかなかうまくいった。

 2日目公演の11日火曜日は、公演の後、妻をひとりで帰して、「おにころ」の妖精メタモルフォーゼ役の國光ともこさんに練習をつけた後、幡ヶ谷にある渋谷区スポーツセンターに行って泳いだ。本番後なので、軽く固まった腕の筋肉をほぐすだけのつもりで泳ぎ始めたが、気がつくと1000メートル泳いでいた。いけない、無理しないようにしなければ・・・とあせったが、次の朝起きてみたら、逆にすこぶる体調が良い。あら不思議。

 12日水曜日、3日目公演の後は、一度家に帰ってきて、自転車に乗って国立駅駐輪場まで行く。18時から国立駅前のスタジオで「おにころ」の立ち稽古。おにころ役の萩原潤さんを中心に、母親代わりのうめ役の黒澤明子さんと、桃花役の前川依子さんとで熱い立ち稽古が繰り広げられた。細かい心理描写が様々に議論され、とても有意義な稽古となった。
 その晩の家の食事はパエリアだったので、国立駅近辺のワインバーであるイオンリカーに行ってワインを物色する。ここには、日本モーツァルト協会理事であるMさんがいて、いろいろアドバイスをしてくれた。彼のお奨め、2000円程度のスペインの赤を買って帰る。さすがMさん。パエリアとのマリアージュはぴったりだった。

 13日木曜日。4回目の公演の後、本当はプールに行きたいと思ったが、夜、志保は仕事でいないし、妻は用があって忙しかったので、僕が孫の杏樹を寝かしつけた。しかし、僕がいるので杏樹は逆に興奮し、なかなか寝ない。
 立川の柴崎体育館の温水プールは11時までやっていて、10時半まで泳げるのだが、杏樹が完全に寝付いたのはほとんど10時だったので、柴崎体育館はあきらめて、その代わりに、近所にある湯楽の里(ゆらのさと)というスパに行った。
 露天風呂やゲルマニウム温泉に交互に浸かり、熱くなったら水風呂に入って、次は泡風呂などとしっかり体をほぐしたら、次の朝の体調がまたすこぶる良い。

次の朝の散歩での妻との会話。
「でもなあ・・・」
「なあに?」
「お風呂だとさあ、プールと違って達成感がないじゃない」
「なくったっていいじゃない。良い体調で『蝶々夫人』が振れるのなら」
「いやあ、やっぱり、同じ体をほぐすなら、やっぱお風呂よりも水泳だよな。なんかお風呂だと負けた気がする」
「何言ってんのよう!普通の人から見れば、『蝶々夫人』を指揮するだけだって大仕事でしょう。そのためにマッサージに行ったりしている人だっているじゃない」
「そういうところ行ったことないよな。腰だって痛くなったことほとんどないし・・・」
「贅沢言ってんじゃないわよ!」

 でもやっぱり14日金曜日の公演後はプールに行きたくて、夕方杏樹と遊ぶのはあきらめて、柴崎体育館に行く。これは指揮者でないと分からないけれど、長いオペラのような曲を指揮して汗を掻いた後、プールに入ってプカーッと浮いて、ゆったりと泳ぎ始める爽快感を何にたとえよう。
 ただ、最初は腕もゆっくり動かし、力が過度に入らないように気をつけていたけれど、次第に明日も公演があることを忘れて楽しくなってきて、
「もう一往復!もう一往復!」
と、ガチになっていた。900メートル泳いだ時ハッと気がついて、このへんでやめておこうと思ったのだが、まあ、ここまできたんだから、あと100メートルくらい行きましょう、という感じで、1000メートルでやめて帰ってきた。

 15日土曜日。朝起きたら、どこへも行かなかった次の日の朝よりは、肩や腕がスムーズではあるが、明らかに水泳による筋肉痛が残っていた。あははは、バカみたい。でもこの筋肉痛は、指揮の運動には抵触しない。その証拠に、この千穐楽の公演が一番楽に指揮できた。節目節目に脱力が出来たから、カーテンコールが終わって楽屋に戻ってきた時、もう一回最初からやってもいいぜ、というくらい体が軽かった。

 その日は、家に帰ってきた後、6回公演を無事終わって、合計31回公演を達成した自分へのご褒美もかねて、孫の杏樹を自転車に乗せて、再び湯楽の里に行った。杏樹は、露天風呂の開放感が気に入り、ジャグジー風呂の泡をくすぐったがってキャッキャと叫び、のぼせてくると、今度は水風呂に入り、
「キャッ!冷たい!」
とまた大喜び。
 それから、ゲルマニウム温泉や炭酸水風呂と水風呂との間を、行ったり来たり。しまいには2人でほとんどフラフラになりながら出てきて、杏樹は牛乳、僕はコーヒー牛乳を飲む。
 柴崎体育館に泳ぎに行く時には、絶対にコーヒー牛乳なんか飲まないのに、お風呂屋さんに入った後、何故僕はコーヒー牛乳ばっかり飲むのだろう?でも、この定番は、カレー・ライスと福神漬け、あるいはドイツ・ソーセージとザウアークラウト同様、決して崩せないんだ。
 勿論、その後、家に帰ってきて、当たり前のようにビールを飲むんだけど、ああっ!ドイツ・ビールよりも、日本の高温多湿な気候には、アサヒ・スーパードライこそ最高!

こうして、僕の「蝶々夫人」の一週間が終わった。
さあ、次はいよいよ「おにころ」だ!

ふたたび指揮のテクニックの話
 オペラを指揮するのは、ある意味「ゲーム感覚」にならないといけない。交響曲を指揮するような意味で、全て自分が主導権を握ろうとしたり、細かいところまでの完璧性を求めてもうまくいかない。
 なにせ、舞台上の歌手達は暗譜で、しかもあらゆる方向を向きながら動き回って指揮者なんかロクに見えないのだから、何が起きても不思議はない。

 歌手の喉が調子よくて、大見得を切るフェルマータで伸ばした音がなかなか降りてこなかったり、逆に。伸ばすだろうと思って待っていると、ブレスが続かなくてたちまち次の音に行ってしまったり、こっちが出したテンポと全く違うテンポで歌い出したり、早く歌い始めてしまったり、1小節勘違いして入って来なかったり、いつも続くフレーズが2つに切れてしまい、たっぷりブレスを取るので、まんまとオケとズレてしまったり・・・数え上げればキリがない。だから、極端に潔癖な人はオペラには向かない。

 また、気弱な人もオペラ指揮者には向かない。特にイタリア・オペラの場合、歌手達の中には、場合によっては指揮者に逆らってでも自分の歌いたいように歌ってもいいと思っている人が少なくない。
 実際、歌手がメロディーを歌っていて、オケが伴奏に徹している場合、その歌手がしっかりメロディーの輪郭を打ち出してくれないと音楽が成立しないのだが、中には、声だけ立派だが、フレージング感覚があまりなく、音楽的説得力を持たない人がいる。しかも、そういう人に限って、なかなかいうことを聞いてくれない。こちらの言うことが全く伝わらない宇宙人のような人もいる。
 そういう人には、時には毅然とした態度で臨まなければならない。
「俺はこういうテンポで、こういう音楽をやりたいんだ!従え!」
というボス的態度も、オペラ指揮者には必要な要素だ。
 ネッロ・サンティなど、イタリアの典型的なマエストロには、そういった有無を言わせぬキャラクターがあるが、その一方で、ユーモアに溢れ、人間的魅力で人を惹き付け、自然にまわりが従ってしまう人徳を持つマエストロが多い。

 厳密に言ったら、全くノーミスでアクシデントの起きないオペラの公演なんて存在しない。先ほどゲーム感覚と言ったが、同時に、こんな時にこそ頼りになるのは、先週も書いた指揮のテクニックである。繰り返しになるが、この世の自然運動である放物運動を見失わなければ、かなりのミスや見込み違いもリカバリー可能である。
 それよりも、多くの優秀なアスリートがそうであるように、アクシデントが起こった時ほど、まず自分自身が冷静になり、普段のフォームになるべく早く立ち戻り、リカバリーに専念し、元に戻るための最短距離を模索すべし。決して短気を起こしてはいけない。淡々とテクニックを見失わないで処理する。

 よく、自分に酔い痴れたように情緒的に大袈裟に指揮する人がいる。あるいは、オーケストラに向かうより先に、聴衆にどう自分の指揮の姿が見えるのか気にする人がいる。僕は、それら全ての行為を無駄だと考える。特にオーケストラ・ピットに入ったオペラ指揮者にとっては・・・・。
 今の僕の目標は、そういう贅肉をなるべくそぎ落とし、無駄を切り詰めて、本当に必要な動きにだけ集約すること。
「僕ちゃんの動き、カッコいいかな?」
なんて考えるのは煩悩中の煩悩。奏者に自分の音楽を伝えることのみ考えるべし。
 水泳でもスキーでも、素晴らしい選手のフォームは無駄がなく美しい。すなわち“機能美”である。指揮する姿を美しくしたいならば、この機能美のみを追求すべし!すると、分かる人には分かる。それでいい。これぞ真にカッコいい指揮者。

 指揮において、どんな運動でもその中に放物運動を含まなければならないことはすでに何度も述べた。しかしもっと大事なことは、放物運動だけだと、無味乾燥にオケを揃えるだけのアクションになってしまう。そうではなくて、テンポを刻む放物運動に、自分の表現のための様々な運動を練り込ませないといけない。そのふたつを調和させ、あるいは時に拮抗させないといけない。

 たとえばクレッシェンドは、具体的な運動としては指揮の図形を拡大させていくが、拡大していく図形も放物運動を伴っている。それぞれのテンポやクレッシェンドの割合や範囲から来る最終的な運動性は完全に計算可能である。
 しかし、演奏中に考えている暇はないだろうから、事前に何度も反復練習して、あらゆるケース~たとえばクレッシェンドしながらリタルダンドする場合とか、フェルマータの中でクレッシェンド&ディミヌエンドする場合とか~に対応できるようにしておかなければならない。つまり、指揮者は全てのことを“体感できるまでに落とし込んでおかないといけない”。
 こういうことは、本当は、どんな巨匠になっても怠ってはいけないと思うのだが、周りを見ていると、ある程度の地位を持った指揮者で、その点で自分を磨き続けている人はほとんどいないなあ。
 アスリートだったら、偉そうなこと言っていても、衰えたら即負けてしまうシビアな世界なのに、芸術家って甘い!まあ、ピアニストなどの楽器奏者は違うけれど。なんといっても指揮者が一番甘い!

 バロック音楽はコブだ・・・とは、普段からよく言っている。それは音符の運動性に関しての発言だ。でも、オペラもコブだ。別の意味で。
「アクシデントを迎え撃ちながら、フレーズに傷を見せないようにきれいに仕上げていく」という意味では、オペラの指揮こそモーグルと一緒だね。コブをターンの中に取り込み、仮にバランスを崩したりミスしたりしても、そのターンを辻褄が合うように見せつつ、フレーズを仕上げる感覚と一緒だ。タイムではなく点数による勝負というのも似ている。
つまりは美観だ。ほころびが見えないように仕上げてこそプロなのだ。
「今、リカバリーやってます!」
とばれてしまっては、元も子もないのである。

 どうです?オペラの指揮って厳しいでしょう。でもね、だからこそやり甲斐のある仕事なのだ。交響曲を振っていては決して出遭うことのない、窪みや出っ張りや罠やしかけに溢れている魑魅魍魎の世界。オフロード指向。これに対応するためには、どこまでも自分に厳しく、アスリート的に精進して極めていかないといけないのである。

小林さんの蝶々夫人
 小林厚子さんの演ずる蝶々夫人には、いつも指揮しながら泣けてしまう。自らの美学を貫くために自害しようとする蝶々さん。しかしその時、向こうから子どもが走ってくる。その瞬間、彼女はひとりの女からおかあさんになる。子どもにとってかけがえのないおかあちゃん!母親にとってかけがえのない息子!くー、死ねない、と思う。葛藤!
 それから、心を鬼にして彼女は子どもを送り出す。
「向こうに行って、遊んでいてね!」
そうして子どもが離れていった時の、小林さんの顔は、まさにこんな時にはこんな顔しか出来ないだろうという表情。

 子どもに逢わないで死んでいったら、どんなに誇り高く自らの生を全うできたであろうか。しかし今はズタズタに引き裂かれた惨めな母親・・・全てを失い・・・死ぬことにも救いを見いだすことの出来ないボロ雑巾のような心がそこに表現されていた。彼女は、卓越した芸術家だと思った。

 「蝶々夫人」ってひどいよ!もうこれでもかこれでもかというほど、涙腺を刺激する。そして極めつけの子どもの登場。僕はどうしていると思う?号泣しながら指揮するのもカッコ悪いだろう。だからその瞬間、なにか別の楽しいことを考えようとするんだ。これって、変!

何?のめり込んでいない?
いやいや、すでにのめり込み過ぎているの!


小林厚子さんの蝶々夫人


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