モーツァルト200演奏会無事終了

三澤洋史

山下紅美さんのメッセージ
 8月に、宮澤賢治の対談をするために、安曇野に妻と二人で向かった日、実は松本在住の画家、山下康一君の家に立ち寄ってから絵本美術館・森のおうちに行った。何故かというと、妻が山下君の奥さんの山下紅美(やました くみ)さんからヒーリングを受けるためであった。
 紅美さんと妻がふたりでいる間、僕と山下君は近くの公園に散歩に行き、そこのカフェでいろんな話をしてとても楽しかった。山下君との付き合いは、角皆君を通してごく最近始まったばかりだが、不思議と気が合って、もう随分昔からの友人のような気がする。

 山下紅美さんは不思議な雰囲気を持っている女性だ。まず、あまりしゃべらない。でも、無口というのとも違う。なにか、ものごとを言葉にしてしまうのを恐れているような気がする。言葉というものは、ものごとを限定する。限定するということは、もう一方を否定することを意味する。紅美さんは、そうではなくて、なにかと常につながろうとしている。つながろうとする者にとって、分ける、限定する、否定するという行為は望ましくない。だから紅美さんは、つながるためにあえて言葉にしない。でも、紅美さんのこころの中には、たくさんのものがある、時にそれを表現するために限りなく饒舌になることもある。

 その紅美さんが、最近自分のFacebookにある文章を投稿した。それは、彼女とは思えないほど饒舌なのだ。しかも、その内容は衝撃に満ちている。それは、僕が何かを予感し、「ノアの方舟」の中に表現しようとしたものととても共通性がある。何かを感じる者には、共通の魂の通路があるのかも知れない。あまり信じたくないことなのだけれど。

(紅美さんのメッセージの引用)

モーツァルト200演奏会無事終了
感謝、しあわせ、喜び、これがモーツァルトの神髄
 演奏会冒頭のRegina coeli KV127は、演奏していて本当にしあわせになる曲だ。
 Regina coeli laetare, alleluja. 天の女王、よろこび給え、アレルヤ
復活したイエスを讃えるのだが、それが、母マリアに対して「あなたが宿された方が蘇られたのだから」という形で唱えられる。曲の途中で何度も「アレルヤ」が出てくるが、その度に、なんだか言いようのない嬉しさが込み上げてくる。
 最近の僕は、祈ろうとするとそれだけで感謝が自然に溢れてくる。自分は愛されている、という気持ちが心にほわーっと広がってくる。だから僕の祈りは感謝に始まり感謝に終わる。途中で何かをお願いしたりもするが、今はこれが足らないからとか、こうなってくれないと困る、という気持ちは全くない。今のままですべて満たされている。足りないものは何もないから、感謝しかないわけだ。
 今の自分が、必ずしも好ましくない状態にあっても、それは次のステップのために与えられたシチュエーションであり、すべてが好機(チャンス)であると思っている。そして、こんな風にノーテンキになればなるほど、こうしたRegina coeliのような喜びに満ちた曲に自分の波長をピタッと合わせることが出来る。
 とにかく、こんなしあわせな曲でコンサートを始めることが出来るなんて、嬉しくて仕方がない。それなのに、ゲネプロで合唱団のみんなが、フツーの顔して歌っていたから、「みんな、なんでこんなハッピーな曲なのに、そんなつまらなそうな顔しているの?お客さんにとってはねえ、みんなが完璧に歌おうが、そんなことはどうでもいいの。この曲を通してどんな気持ちになるのかが大事なんだから、もっと嬉しそうな顔して歌ってね」
と言ったら、本番ではとってもいい顔をして歌ってくれたね。みんな、ありがとう!
 ソプラノの飯田みち代さんの輝かしく明るい声、特に終曲のアレルヤのソロには、天上の天使たちも共に声を合わせていた。やっぱりモーツァルトは天才。神の世界とツーカーだ。

勝つための音楽と表現する音楽
 さて、いよいよブラームスのヴァイオリン協奏曲だ。親友の角皆優人(つのかい まさひと)君は、先々週の「ジークフリート」に続いて、またまた白馬から駆けつけてくれた。実は、ブラームスには人一倍うるさい彼に聴かれるのは、とっても緊張していたが、ゲネプロ後、彼のところに恐る恐る行ったら、
「三澤君、すごくいいよ!僕は第一楽章で泣いてしまったよ!」
と言ってくれた。
 ソロを弾いた牧野葵(まきの あおい)ちゃんは、愛知県立芸術大学の大学院に在籍中で、まだ23歳。最初に合わせをした時に感じたことは、
「すごくテクニックがしっかりしていて、音楽もあるけれど、このままではブラームスにはならないな」
ということ。同時に僕は「勝つための音楽」と「表現する音楽」との違いをまざまざと見せつけられた。この演奏会は、モーツァルト200合唱団演奏会であると同時に、刈谷国際音楽コンクール受賞者記念演奏会でもある。葵ちゃんは、コンクールに勝利して、この演奏会に参加しているわけである。
 これがもしアスリートであれば、勝利すればそれでいい。しかし、彼女が弾いたブラームスの協奏曲という曲は、とっても奥深い曲。どんなに技巧に優れても、どんなに音楽性があっても、20代前半の若者においそれと表現できるしろものではない。

 そこで僕はちょっとした賭けにでた。彼女に僕のブラームスを出来るだけ吹き込んでみよう、と。いや勿論、無理矢理僕の解釈を押しつけようとかいうのではない。でも、僕のブラームス観を彼女に提示し、それを葵ちゃんがどのように吸収し、どのように自分のものとして彼女なりの表現に生かすことができるか、見届けてみようと思ったのだ。
 いやあ、若いって素晴らしいね。彼女の感性はとっても柔軟だった。僕が予測したよりもはるかに素直に反応し、フレキシブルに対応し、自分なりのものとして仕上げてきた。そこで僕もなんだか楽しくなってきた。「今日この頃」にも書いたけれど、彼女にフレーズとは何たるかを教え込み、このフレーズをこう仕上げたならば次はこう、前のフレーズを「受けて発展させる」時もあれば、あえて断絶を作ってコントラストを作る時もある、という風に、フレーズ間の様々な発展方法を教えた。でも、こうしなさい、ではなく、
「そういう風に弾き終わったなら、次のフレーズはたとえばこんな風に始めてみたら?」
というインターラクティブなやり取りを行った。それが彼女に考える力を与え、時には僕が予想もしなかったアプローチをしてきて、かえって僕が40歳も下の彼女から教えられることも多かった。

 そんなめちゃめちゃエキサイティングな時を彼女と過ごした末の演奏会。葵ちゃんの演奏はもうコンクール受賞者のそれではなかった。勝つための音楽は、もう彼女の中からは感じられなかった。不思議なことに、20代の若い子が一生懸命背伸びして、ブラームスの秘められた恋心や諦念の中から溢れ出る想いに近づこうとあがいている、という風にも映らなかった。ごくごく自然に、ブラームスのロマンチシズムを彼女はひとりの表現者として映し出していたのである。

角皆君はこう言う。
「人間って想像力があるだろう。たとえば上手いスキーヤーと一緒に滑ると自然にうまくなるように、無意識の中により良いものに感応する能力があるんだ。でも、それが出来るためには、その人にも実力がないと駄目なんだよ。あまりにレベルが違いすぎると、得ることも出来ないんだ」
 だとすると、もしかすると、彼女は63歳の僕を通して、僕の苦悩や挫折や諦念やロマンチシズムに感応し、それを自らの感性に取り込んで租借し、自分の感性と混じり合い、今度は牧野葵というひとりのヴァイオリニストの表現として自然に流れ出たのかも知れない。なんといっても、本番中もすぐ側で僕は指揮していたのだからね。
 そういえば、僕は指揮をしながら、
「そら、今度は難しいパッセージだぞ。頑張れ。冷静にやるんだ・・・そうだ・・・いいぞ。次はロマンチックな場所だ。きれいに弾いてね・・・よし・・・なんてしなやかなんだ。ブラームスはクララのことをこんなにまで想って、しかもそれを内に内に沈潜させていったから、こんな秘めたロマンチシズムが生まれたんだなあ・・・・」
と、ずっと彼女を応援するオーラを送り続けていながら、自分でも彼女の演奏を聴きながら感動し、いろんなことを感じていたのだ。

 葵ちゃんは、Regina coeliの途中で舞台袖にやって来て、
「この曲、あとどれくらいかかりますか?」
と聞いたので、舞台アナウンスで控えていた練習ピアニストのOさんが、
「あと5分くらいかかりますよ」
と言ったら、再び帰って行ったという。
曲が終わっても戻ってこないので、心配になったOさんが楽屋に迎えに行ったら、ゴリゴリとヴァイオリンを練習していて、Oさんは、
「こ、こんなギリギリになってまだ練習している!」
と驚いたそうな。それで、出番ですよと呼び出したら、
「あたし・・・死にそう・・・」
とか細い声で言っていたのだけれど、舞台に出ていったら、なんと堂々と弾くのだろうとOさんは驚いていた。

新しいアーティストに乾杯!
君はもう、ひとりの立派な表現者だ。これからは自分で考え、自分で表現するのだ。
でも、君とのコラボは、僕にとっても本当に楽しかった。
僕の方からも言わせてください。心からありがとう!

13歳のミサ曲
 休憩後のメイン・プログラムは、モーツァルト作曲ドミニクス・ミサKV66ハ長調だ。ケッヘル番号を見ても分かるとおり、とても若い時の作品。モーツァルト家の家主の息子カイエターン・ハーゲナウアーは、モーツァルトより随分年上ではあったが、幼なじみとしてとっても仲良く一緒に遊んでいた。ところがカイエターンは、司祭になるべくザルツブルグを離れて行った。その時、モーツァルトはとっても淋しい思いをしたという。
 それからしばらく経って、モーツァルトが13歳の時、彼は叙階してベネディクト派の聖ペテロ教会の新任司祭としてザルツブルクに戻ってきた。その初めてのミサのためにモーツァルトが書いたのがこのミサ曲だ。司祭になったカイエターンは、洗礼名ドミニクスの名で呼ばれていたので、この曲もドミニクス・ミサ曲と呼ばれた。

 幼なじみとの再会を喜ぶモーツァルトの顔が目に浮かぶような明るい曲である。それにしても、13歳の子どもがこんな曲を書いたのだから、ザルツブルグの人達は、さぞやびっくりしたことだろう。GloriaやCredoの集結部のフーガなど、稚拙な部分などみじんにも感じさせない。

みんな、ありがとう!
 モーツァルト200合唱団は、僕が日頃発声法のことをうるさく言うので、かなりモーツァルトの発声様式を身につけてきた。特にテノールの声の出し方に格段の進歩が見られた。力んだりがなったりすることなく、それでいてきちんと声と表現の押し出しがあり、オーケストラの響きと共に充実感のある演奏を聴かせてくれた。
 今回は、ソプラノ独唱の分量が圧倒的に多かった。でも、僕のお気に入りの歌手、飯田みち代さんは、その揺るぎないテクニックと美しい響きで、モーツァルトの神髄を表現してくれた。世に清楚に歌うモーツァルト歌いは少なくないが、飯田さんの歌を聴いていると、清楚だけなら、きっとモーツァルトは物足りないのだと思った。かといって表現過多だと食傷気味になってしまう。ちょうどふさわしいだけの情感と叙情性及び節度が必要で、その一番難しいバランスを飯田さんの歌は常に保っている。
 京大を卒業したインテリながら、飯田さんは歌も生き方も、知的というよりはむしろ本能的なのだが(失礼)、こうして彼女のバランス感覚に触れると、やっぱり賢い人なのかと思う。

 アルトの三輪陽子さんは、愛知祝祭管弦楽団の「ジークフリート」でエルダを歌ったばかり。名古屋で三輪さんは決してハズさない歌手。派手ではないが、オペラでどの役を演じても、コンサートでどの曲を歌っても、その本質をつかみ、常に的確な表現をしてくれる。僕が最も信頼しているアルトである。
 テノールの大久保亮さんは、最近知り合ったが、天性の美声でしかも様式感がある若手。僕はこれまでモーツァルトでしか共演していないが、様々なレパートリーを今後持ちうるであろう。僕が密かに注目している逸材。
 そしてバスの初鹿野剛さんは、昔からの付き合い。でも今回は久々の共演。重唱がほとんどで、独唱を披露する場面がなかったのは残念だった。でも、揺るぎない歌唱に僕は常に信頼を置いているよ。

 先日「ジークフリート」全曲を指揮したばかりなので、演奏会がとっても短く感じた。終わっても、もう一回最初から出来そうな気がする。でも、普通の演奏会って、こんなもんなんだよね。「ジークフリート」がフツーじゃないんだ。

 アンコールのAve Verum Corpus KV618を、カーテンコールの最後の最後までとっておいて、演奏した後、すぐオケと合唱をバラして、ちょっと聴衆を煙に巻いた。プログラムには、逆にアンコールでやるよ、と宣告しておいたので、ちょっとジラしたわけだ。
でも、この曲、短いけれど本当に内容が深くて、レクィエムやハ短調ミサ曲にも優るとも劣らない大傑作だと思う。
 僕は、この曲を演奏している時、ゲーテの、
Verweile doch, du bist so schön !
時よ止まれ、君はそれほど美しい!
という言葉を思い出していた。まさにそれほどまでに立ち去りがたいひとときであった。

アムロの引退という社会現象
 長女の志保は、中学生の頃、安室奈美恵の大ファンであった。そのアムロが一年後に引退すると聞いた時、彼女はとっても嘆いて、
「ぜったい、杏樹を連れてライブに行くんだ!」
と興奮して言っていたが、とてもチケットが取れる状況ではなかった。

 それで先日、引退ライブのDVDを買ってきた、すると杏樹がそれを毎日繰り返し見ながら踊っている。一緒にターンしたりして、動きがめっちゃシャープ。
その杏樹が、
「じーじ、杏樹と一緒に最初から観ようよ!」
と強く言うので、こんな忙しいのに、
「そんじゃ、今夜は覚悟して観るか」
と思って観た。
 僕は座って観たが、隣で杏樹はひっきりなしに踊っている。英語も交えるアムロの歌詞はよく分からないのだが、杏樹は、まるで「空耳」のように、似ているような似ていないような、何語だか分からないような言葉で、DVDに合わせてそれらしく真似して歌っている。

 いやあ、面白い。歌がどう、踊りがどう、というよりも、アムロのショーそのもののトータルな質の高さに舌を巻いた。まず、彼女は、自分の顔の小ささや、その抜群のプロポーションを自分で把握していて、それらをすべて武器に使っている。
 彼女の登場シーンの演出も見事だが、登場した途端、観客はすでに涙ぐんでいる。その瞬間、アムロは、自分が今どう観られ、どう思われ、どうあることを期待されているか、全て知っていて、観客の望む通りの“女神”を演じている・・・いや女神に成り切っている・・・いや彼女はその瞬間、まさに女神そのものなのである!スターというのは、そういうものなんだな。凄い!
 群舞の真ん中で、一流のダンサー達と踊っていながら、その中でひときわ光っているのは、ダンスの実力もさることながら、彼女の全身から発するオーラが違うこと。それに、ほんの少しだけれど動きに差がある。それは腰のくねりだったり、ちょっとした腕の角度だったりする。そこに群舞のダンサー達にない独特の味わいがある。


安室奈美恵(三澤杏樹)


 ただ僕は思った。これを言うと熱烈なアムラー達に殺されるかも知れないけれど・・・もし、安室奈美恵が、もう少し説得力のあるバラードを歌えたとしたら・・・彼女は引退する必要がなかったかも知れない。
 いや、もちろん、それでも引退したかも知れないけれど。要するに僕が何を言いたかったかというと、どんなにショーが素晴らしくても、どんなにサイド・ダンサー達が素晴らしくても、どんなに何度も変わる衣装が素晴らしかったとしても、照明やステージングが素晴らしかったとしても、観客が求めるのは、やはり安室奈美恵その人なのだ。
 その安室奈美恵というパーソナリティの中で、一番弱いのは・・・・彼女の歌なのである。ああ、言っちゃった。いや、彼女は決してヘタではない。けれども、彼女は歌で女神になったのではない。歌は彼女の全てのパフォーマンスの中でのひとつの要素。

 DVDの中で、僕はCan you celebrate?を待っていた。昔、志保につられて観ていたテレビのトレンディ・ドラマの主題歌だった曲。もっと感動できるかと思った。しかし、意外と通り一遍でつまらなかった。

 だからこそ、彼女にはダンスやステージングが必要なのだ。それと、あの並外れたプロポーションやフェイスが不可欠なのだ。そうするとアスリートと一緒で、肉体的に、彼女もこの先50歳や60歳になっても同じ路線でパフォーマンスを繰り広げていくことは困難なのだろう。
 極端な話、太って動きの鈍くなったアムロや、頬の肉がたるんでおばあさんになったアムロを追いかけますか?それはもう、あの女神のアムロではないのだ。

 ということは、このタイミングで、みんなの愛するアムロが終了するのが運命なんだろう。ともあれ、これほどまでに彼女の引退が社会現象になるとは思わなかった。やはり、なんだかんだいっても、大スターなんだな。アムロ、お疲れ様!

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© HIROFUMI MISAWA