アッシャー・フィッシュの「タンホイザー」

三澤洋史

舞踏としての音楽、スキー、人生
 僕の合唱指揮者としてのデスクは、これまで新国立劇場5階の制作部の一画にあった。それが、制作部オフィスのレイアウトを一新するということに伴って、僕のデスクは地下2階の音楽スタッフ室に移った。
 その引っ越しをするので、僕だけでなく、制作部の職員達は年明けから大騒ぎであった。床から張り替えるため、全ての物を一度ダンボール箱に詰めて、台車で別の部屋に運ぶ。その際、当然のごとく、長年の間にたまった不要な書類や、持ち込んでいた様々な私物が余り物として出るので、事務所の出口に大きなゴミ入れが置かれ、みんながいろんな物をそこに放り込んでいた。

 ある日、自分の不要な書類を捨てようとそのゴミ入れに行ったら、いくつかの本が置いてあった。
「え?これって、捨てる物だから、僕が欲しかったらもらってもいいんだよね」
 見ると、ピノキオの絵本とか、手塚治虫の漫画とかあったので、別に泥棒でもないのに恐る恐るもらってきて、ピノキオの絵本は、孫の杏樹が寝る時にお布団の中で読んであげたら、凄く喜んでくれた。

 その本の中に(恐らくバレエ部門の誰かから出たものであろう)、笠井叡(かさいあきら)さんの著書「未来の舞踏」(ダンスワーク)があった。この本は2004年に出版されたものであるが、実はそれよりも20年も前の1983年12月に書かれた原稿だという。


未来の舞踏


 笠井叡さんは、当初舞踏家として1971年に天使館という根拠地を設立し、そこに集合した舞踏家達と様々な活動を行っていたが、1979年に突然、神秘家ルドルフ・シュタイナーの創作した新しい舞踏であるオイリュトミーを学ぶため、ドイツのシュトゥットガルトにあるオイリュトミー学校「オイリュトメイム」に4年間の留学をしてしまう。ある天使館生が「わたしたちは捨てられたのよ」と語ったように、求心力を失った天使館は、その結果解体の憂き目に遭う。
 笠井さんは、留学の後、さらにプロのオイリュトミストとしてビューネと呼ばれるグループに所属し、結局帰国したのは1985年。それから今度は、天使館を新たにオイリュトミーの学校として設立し直す。その生徒の中に、 妻共々僕も教えを受けた谷合ひろみさんがいたのである。

 さて、話を著書「未来の舞踏」に戻す。この原稿が書かれた1983年は、まさに笠井さんがドイツでオイリュトミーにどっぷり浸かっていた頃。本人は、まえがきで、いろいろ言い訳している。
「ダンスから最も離れていた時期で」
とか、
「そもそも20年前に『ハキダシタ』ものを『自分が書いたもの』としては今とても読めない」
とか・・・。
 しかしながら、この本を僕はメチャメチャ興味深く読んだ。何故なら、笠井さんの講演を始めて聴いた時とか、天使館で彼の公演の作曲者として関わった時、漠然と感じていたもの・・・それはすなわち、
「この人は、決してオイリュトミストという枠にハマるような器ではない。もっと舞踏の根源に触れる天才的な舞踏家だ」
ということが、いみじくも文章全体に溢れているからだ。

 彼の最初の舞踏の師である江口隆哉氏は、稽古のたびに次のように述べていたという。
「モダン・ダンスの身体訓練の基本は、肉体を一度、溶鉱炉の中に入れて溶かしてしまい、それによって後に、どんな表現にも対応できる身体に新たに再創造することです」
このことを笠井さんほど体現した人はいない。舞踏家だけでなく、音楽家や役者、そして画家でさえ、自らの創造を成し遂げるためには肉体を必要とする。しかし、とりわけ舞踏家は、肉体そのものの動きの中にすべてを表現しようとする点において、徹頭徹尾肉体的であると言える。と同時に、その肉体的な動きが飛翔して、精神の高みにまで登っていくことを笠井さんは求めておられる。
  舞踏が真に秘儀として再生し得るために、舞踏は一度、物質の闇の中へ落下しなければならぬ。
そして、人間がこの闇の中で物質を克服する時、舞踏は再び、「愛の神殿」として再生するであろう。
 以前も述べたことがあるが、僕の指揮にはオイリュトミーのアイデアが取り入れられている。僕が指揮者を目指した頃は、世界に羽ばたく小澤征爾さんを筆頭に、秋山和慶さん、尾髙忠明さん、井上道義さんなど桐朋学園の精鋭が指揮法の拠り所とする斎藤メソードが一世を風靡していた時代で、斎藤メソードにあらずば指揮にあらず、という雰囲気であった。
 チェロ奏者で指揮者でもあった斎藤秀雄さんが開発した斎藤メソードは、確かに完璧ともいえる指揮メソードではあったが、僕にはどうも指揮をするための処世術に過ぎないように感じられた。それに、まるで振り付けのように決められた動きを強要されるため、誰が振っても同じような形になってしまうのが嫌だった。
 そこで僕は、あえてその頃の風潮に背を向けて、斎藤メソードとは関係ない山田一雄先生の門を叩いたし、自分の音楽の表現に最もマッチするフォームを自分で探し続けた。その際の大きなヒントとして、オイリュトミーがあったのである。

 この本の中で、笠井さんがかなりのページを割いているのは、モダンダンスの祖といわれるイサドラ・ダンカンである。彼女のダンスを、あらためてYoutubeで観てみた。


これは、僕には音楽オイリュトミーそのもののように感じられる。イサドラ・ダンカンは、従来のバレエが、音楽のリズムのみを使いながら、実は音楽とは直接には関係ない“踊りの技術”を披露したり、音楽が鳴り響いているのにポーズを取ったりするのに反抗して、音楽そのものの“命”に迫ろうとした。つまり音楽と離れたところでの“表現のための表現”でなく、音楽の持つ様々な表情の体現としての舞踏を目指していた。
 一方、オイリュトミーとは、神秘家シュタイナーが、言葉をしゃべっている人や音楽を演奏している人に、躍動するオーラを観ることが出来ることから、そのオーラの視覚化をめざして作り上げた新しい舞踏である。ということは、とどのつまりは、イサドラ・ダンカンは彼女の研ぎ澄まされた感性を通して、シュタイナーはスピリチュアルなアプローチを通して、同じ富士山の頂きを箱根側と山梨側から登っているようなものだ。めざすところは一緒なのだ。

 この本を読みながら、僕は自分の指揮法へのアプローチが間違っていなかったことを確信した。それどころか、自分の指揮法というのは“舞踏”であると言い切ってしまっていいのだという確信ももらった。
 また、それにとどまらず、自分の行うスキーという行為も、自分の音楽活動と分かち難く結びついているパフォーマンスであり、これも自分にとっては一種の舞踏なのだと思った。さらに見解を広げていったら、自分の人生における全ての行為も、“自分という個”の、この世において「自分はここにいるぞ!」という自己表現であり、それは舞踏なのだと信じられるようになった。

そう、人生は舞踏なのだ!

「舞踏-それは再び生きるために死ぬ、すべてのリズムである」(イサドラ・ダンカン)

アッシャー・フィッシュの「タンホイザー」
 新国立劇場では、昨日の1月27日日曜日に、ワーグナー作曲「タンホイザー」初日の幕が開いた。指揮者のアッシャー・フィッシュ氏は良い指揮者だが、やや性格的に問題がある。といっても、はっきり言って、僕自身も含めて、性格的に問題のない指揮者なんていませんね。指揮者になるような人は、もともとお山の大将になりたいからなるんであって、でなければ、総理大臣と同じでみんなから悪口を言われるようなこんな職業に誰が好き好んでなりますか!

 オケ付き舞台稽古の日、第3幕「巡礼の男声合唱」を一度通してから、マエストロ・フィッシュ氏はオケを止めてこう言った。
「合唱団、素晴らしい!文句の言うことない演奏だ。でもね、この曲では私は鳥肌が立ちたいのだ。でも、今の演奏では残念ながら鳥肌は立たなかった。そこで提案する。オーケストラが入ってくるまでの何小節間、もっとクレッシェンドしてみよう」
 これまで何度となく立ち稽古で繰り返してきたのに、そんなこと一言も言わなかった。このアカペラ(無伴奏)で半音階的な箇所は、テノールにとっては頭声を使ったとてもデリケートな箇所。ちょっとでも発声を変えると音程が下がってしまう。それなのに、まるで思いつきのように、ここにきて突然の大きな路線変更。
「もっとクレッシェンドだ。もっともっと!そう、フォルテまでいっちゃえ!」
ちょっと待った。それでは、これまで築き上げてきた男声合唱の響きが根底からブレてしまう。現にクレッシェンドの途中で胸声に変える団員とまだ頭声で歌っている団員とが混じり合って、響きの統一性がいちじるしく失われてしまった。しかし、そのことにマエストロ・フィッシュ氏は気付いていない。
 フィッシュ氏は満足してすぐに休憩に入った。一方、団員たちは混乱して、僕の所に寄ってくる。
「これでいいんですか?せっかく作ってきた響きがだいなしですよね」
「まあ、待って!今、マエストロと相談してくるから」
僕はマエストロの楽屋のドアをノックする。
「マエストロ、さっきのクレッシェンドのことですが・・・・」
「なんだね?」
「納得出来ません。そもそもスコアにはクレッシェンドとは書いていません。ただ演技のト書きとして『だんだん近づいてくる』とあるだけです。それにその後入ってきた第2ヴァイオリンはPで、今のように合唱団がfで歌い終わったら全く聞こえなくなりますし、本来は、そこからオケと一緒にクレッシェンドしていってクライマックスとなります。その大きな音楽のラインが、あの中途半端なクレッシェンドで失われてしまったら、ワーグナーの意図と大きく外れてしまいます」
「そうか・・・分かった、でも少しはクレッシェンドしたい。少しならいいだろう」
「分かりました。みんなにそう伝えます」

 それから最終総練習。オペラ全体を通した後で、彼は突然怒り出した。
「合唱指揮者を呼べ!全然クレッシェンドしてないじゃないか!何やってんだ!」
僕は舞台上から、オーケストラ・ピット内にいるフィッシュ氏に向かって言う。
「これ以上は無理です。それにスコアにはそもそもクレッシェンドと書いてないし、第2ヴァイオリンは今だったら聞こえてますが、これ以上合唱が大きく歌ったら、全体のクライマックスへのラインが壊れてしまうでしょう」
「クレッシェンドは書いてないが、『だんだん近づいてくる』とあるじゃないか!」
彼の声が興奮してくる。僕の声もいつの間にか大きくなっている。
「見て下さいよ!この演出では、もう全員舞台上に到着しているのです。Sie sind schon da!本来演出上クレッシェンドは要らないのです。でも少しはしているんですよ」
「いや、全然足りない!」
「ワーグナーはそんなこと望んでいないです!」
「もういい!」
彼は怒りを爆発させてゲネプロは突然終了。

 日本人だったら、こんな風になったらもう永久に決裂でしょう。でも、ヨーロッパ人は偉い。ディスカッションする文化だから、意見の対立は起こって当然という常識があるし、それを修復しようというすべを心得ている。

 1月27日日曜日の初日。彼は僕を呼んで、
「落ち着いて話そう。あのままでいるのはいずれにしても良くないものね」
と言うので、僕はにっこり笑って、
「ありがとう。あなたの音楽は良く分かるし、他の所はみんな納得出来るので、あなたの想いを合唱団で実現出来るように最大限の努力はしています。ただ、あの箇所は声楽的にとても難しいのです。響きがバラつき易いので、音楽稽古の時に何度も何度も繰り返して練習しました。だから楽器と違って単にそのまま大きくすればいいというものでもないのです」
「分かった。私もカッとして強い口調で言いすぎた。もうクレッシェンドのことは考えなくて良いから、仲良くやろうね」
「もちろん、そのつもりです。良かったです。こちらもあなたの意図に沿って全力でやります。クレッシェンドも、もうちょっとはやります」
「ありがとう、ありがとう!お互い頑張ろう!」
硬い握手をして楽屋を出た。

お互いに、
「ごめんなさい」
とは言わない。ドイツ語で話していたけれども、出たのは、
Es tut mir leid.(誠に遺憾に存じます)
という言葉だけ。
 それでいいのだ。どちらがどちらに一方的に悪いことをして謝る状況ではない。双方、間違っているというものではないけれど、残念ながら意見が対立しているので、このままではらちがあかないから妥協しましょう、という対話なのだ。
 妥協は「負け」でも「恥」でもない。むしろ妥協まで辿り着いたことは、双方の勝利なのである。

この対話する文化が、日本人の間でももっともっと広まってくればいいと思う。

 初日はブラボーの嵐で大成功であった。僕は、カーテンコールに出るために終幕を舞台袖から聴いているが、天使のような女声合唱に男声合唱が加わり、女声合唱のHallelujaがこだまするのを聴きながら、涙が溢れそうになっているのを必死でこらえた。
 ワーグナー初期の作品であるけれど、ローマ人への手紙に表現された“霊肉の相克”を表現した渾身の作品。若き日に、僕もこの作品に傾倒し、毎日繰り返し聴いていたことを思い出し、またいっそう感動が全身を包んだ。

ガーラ湯沢で新雪とコブ三昧
 1月26日土曜日。夜に新町歌劇団の練習があるが、新国立劇場はオフなので、昼間はガーラ湯沢で過ごす。しかし、その日は一日吹雪のような状態。なあに、構やしない。僕は北エリアのコブ斜面スーパースワンをマイゲレンデにして、果てしなく滑るのだ。

 いわゆるモーグル・コースのような規則的なコブが出来ているかと思ったら、ここのところ連日降り続く豪雪のために、それまでに作られたコブは全て新雪で覆われている。要するに「コブの隠れた新雪」という最も難しいシチュエーション。

 一体何回リフトに乗り、この斜面を滑ったことだろう?やっている内に分かってきたことがある。それは、深い新雪だかコブの隠れた新雪だか分からない時には、ブーツの内側の足を、つま先をやや上げるようにして、スキー板の先端から雪に着地しないように注意しながらスキー面全体で雪に触れるのだ。
 それで、もし深雪であったらそのままスキー板全体で体を沈め込んでいけばいいし、コブが隠れていることに気づいたら、後傾になって板に置いて行かれないように素早く上体を前に倒すのだ。
 今まで、それがよく分からなかったから、深雪にハマってつんのめってしまうか、反対に板が暴走してしまうかだったのだ。

 一度下山コースを猛スピードで降りてお昼を食べてまた戻ってきてみたら、その間にまたかなりの降雪があって、スーパースワンはまた別のゲレンデのようになっている。いやあ、面白い。その後、雪がゆるくなってくると、何人かのフリースタイラーが作っていくシュプールがだんだんコブらしくなってきたので、そのトレースをなぞる。
 このくらいの緩いコブはストレスなく練習用に最適。その内、物足りなくなってきた。いっそのこと、転ぶの覚悟でスピードを上げて滑っちゃえ!ということで、身をひるがえして浅いコブに入っていく。
 深いコブを注意深くスピードコントロールしながら滑るのもいいけど、これは真逆!時々、わざと吸収動作をしないで、コブの出口でジャンプしてみる。それから次は吸収動作をして、スピード値が高くてもジャンプしないようにする。なるほど・・・自由自在ですな。

でも、どんな時でも大原則は、徹底した外向傾と外足加重。
これだけはハズしてはいけない。

 3時過ぎに再び下山コースを降りて、スキーセンターのカワバンガに戻り、「ガーラの湯」に浸かって、
「ああ、極楽極楽!」
と温まる。
 それから自由に休息できるIRORIラウンジで横になってぐっすり眠り、体力を回復して、夜は新町歌劇団に向かった。新町歌劇団は、今年の夏にラスクで有名な「ガトーフェスタ・ハラダ」本社(新町にある)のホワイエでコンサートを行うが、そのプログラムの多くは、僕が新国立劇場合唱団の文化庁スクール・コンサートのために編曲した各地方のご当地ソングを、新町歌劇団のために再編曲したもの。

 ゴスペル調の「箱根馬子唄」の音取りが難しくて四苦八苦していたようだが、僕が行って先ほどのコブを滑るノリで指導したら、
「難しく考えないで、ノリと勢いで攻めれば、この曲は案外簡単に出来るな」
ということがみんな分かって、後半はとても楽しい雰囲気になってきた。

 ふうっ!長い一日。9時過ぎに姉のいる実家に帰って夕食を食べながらビールの缶をプシュッと開けたら、たちまち眠くなって、もう11時にはお布団に入ってました。

  


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© HIROFUMI MISAWA