エキサイティングな「紫苑物語」の稽古

三澤洋史

エキサイティングな「紫苑物語」の稽古
 「タンホイザー」公演が進む中、大野和士芸術監督渾身のプロデュースである「紫苑物語」の稽古場での立ち稽古が昨日の2月3日日曜日に終わり、明日2月5日火曜日は、東京文化会館内にある東京都交響楽団練習所に出掛けて行ってオケ合わせ。次いで「タンホイザー」公演の間を縫っての舞台稽古になっていく。
 舞台スタッフ達は大変だ。「紫苑物語」の舞台を飾ったかと思うと、それを撤収して「タンホイザー」の舞台を設置する。それで上演するとまた「紫苑物語」に作り直し。しかしながら考えてみると、このようなことは欧米の歌劇場だったら日常茶飯事でやっているのだ。
 僕がミラノ・スカラ座に研修に行って一番驚いたことは、同じ舞台で夜8時から公演中の演目の本番があるにもかかわらず、朝からその日の午後4時まで新制作の舞台稽古を行っていたことだ。つまり、本番まで4時間しかないことから、ざっくり考えただけでも、2時間で撤収し2時間で飾り直さないと出来ないというわけだ。
 劇場は、全ての演出家にその条件で舞台美術の案を出してもらう。それは裏を返すと、それ以上の大規模な舞台美術は投入できないということで、それがプロジェクターを多用する簡素な舞台になり、僕自身はやや欲求不満になったものであった。
 劇場側としては、公演数を減らさないで同時に稽古も充実して行えるために、多大な経済効果をもたらしたわけであるが、両方掛け持ちで出演する合唱団たちは、昼間に舞台稽古をやり、その同じ晩に本番をこなすという「しわ寄せ」が集まってしまい、みんなの不平不満のタネになっていた。

 我が新国立劇場では、そこまで大変ではないが、なにせ重なっている演目が「タンホイザー」に加えて、合唱全体の分量がとても多い現代作品の「紫苑物語」なので、みんなの体調管理は大変だったろうと思う。
 加えて、今年の冬は例年になくインフルエンザが猛威をふるっている。さいわい、合唱団員の中に「タンホイザー」本番での欠員は出ていないものの、これまでの「タンホイザー」及び「紫苑物語」稽古中に、何人かは発症し、数日間の欠席を余儀なくされていた。実は、オケのメンバーや舞台スタッフ達も、ボチボチ発症していて、公演が滞りなく進行している陰で、人知れず代役に代わったりしているのである。

 さて、肝心の「紫苑物語」であるが、作曲家西村朗氏の音楽は、コンテンポラリーなものであるが、細川俊夫氏の「松風」とかのようにたゆたうような作風ではなく、むしろ細かいモチーフを際限なく繰り返していく「ミニマル・ミュージック」のようなものであり、現代音楽には珍しくリズミックで規則的な音楽だ。聴衆とすると、とても親しみやすいのではないだろうか。

 また、演出家笈田ヨシさんの稽古はとても楽しい。稽古初日に僕は彼の所に行って、
「合唱指揮の三澤です。マーティン・スコセッシ監督の映画『沈黙』に笈田さんが出演されているのにびっくりしました」
と言った。
 そうなのだ。笈田さんは、パリ在住の国際的な役者であり、演出家でも映画監督でもある有名人なのに、映画「沈黙」のオーディションに自ら出向いていったそうだ。スコセッシ監督はびっくりして、
「あなたほどの人が、なんでわざわざ?」
と言ったら、笈田さんは、
「あなたの作品に出たいのです」
と答えたのだという。
 そんな笈田さんの人柄は天衣無縫のひとことに尽きる。それでいて、主人公の宗頼が弓矢を扱うシーンなどで、助演や合唱団に弓を持たせて舞台全体を飾る全体の色彩感や舞台感覚はさすがだ。その他、ちょっとしたところでの演技へのサジェスチョンにも光るものを感じさせる。やはりタダモノではない。

目の覚めるような前田清実さんの振り付け
 振り付けは前田清実さん。僕は彼女を昔から知っている。とはいえ、具体的にどの演目で一緒に仕事したか、はっきりとは思い出せないんだ。少なくとも80年代の終わりから90年代初めにかけて、僕が作曲家甲斐正人さんと組んでミュージカルの仕事を盛んにしていた頃に間違いはないんだが・・・。

 僕がベルリンの留学から帰って来た時に、ベルリン生まれの長女志保はすでに1歳になっていた。二期会を中心にオペラの分野で活動を開始したが、僕はこの家族を食わせていかなければと必死であった。
 そんな時、二期会にミュージカルの指揮者の依頼が入ってきたが、アカデミックな仕事を志向する人達はみんな敬遠していた。でも僕は、仕事を選んでいる立場ではなかったので、食えるためならなんだってやるさという気持ちで引き受けた。つまり当初はお金のためにミュージカルの世界に入っていった。
 ところがそれが僕の運命を変えたんだな。ミュージカルというものの持つ“枠に囚われない新鮮な発想”や、劇場表現としての可能性に魅せられた。それでたちまちのめり込んだのだ。それに僕はミュージカルの指揮者にとっても向いていると思った。だって元々ジャズやポップスが大好きなんだからね。
 だが、ミュージカルのためにオペラの仕事を断るか否かという風になってくると本末転倒だ。これ以上この分野に深入りすると、肝心のオペラが出来なくなる危険を感じたので、さりげなく離れた。その代わり、その学んだノウハウを自分の中で熟成させ、今度は自分で作品を作ってみようと思うようになったのだ。だから、僕がもしオペラだけやっていたら、「おにころ」をはじめとする僕のミュージカル作品は生まれていないし、今日自分が持っている劇場人間としての職人的感覚も生まれようがなかった。

 そのミュージカルで最も僕の興味を引いたのがダンスであった。オペラが総合芸術であることに疑いはないが、オペラではいろいろな分業が進んでいて、歌いながら演技まではするが、踊るのはもっぱらバレエ・ダンサーという常識がある。
 一方、ミュージカルではSong&Danceをひとりの人が同時に行うのは当たり前で、セリフをしゃべっていたかと思うとそのままつぶやくように歌い始め、同時に体がリズムに合わせて揺れ始めていつの間にかダンスになっている、というボーダーレスな表現がとても新鮮に感じられた。というより、こうでないと真にクリエイティヴな舞台芸術は作れないとも思った。
 そのミュージカルの現場に前田清実さんはいた。彼女は今より若く輝いていた。でも、何十年も経って今回「紫苑物語」で再会したら、清実さんのバイタリティには変化がなく、それどころか、なおいっそう輝いている。

 先ほども書いたように、「紫苑物語」の音楽はリズミックである。でも、最初笈田さんがつけた演出では、冒頭の結婚式の場面でも、合唱団は曲のリズムとは無関係に酔った客たちのにぶい動きになっていた。当の笈田さん自身も、
「これじゃあ、どのシーンも同じようで飽きちゃうなあ・・・・」
とつぶやいていた。実は、立ち稽古の最初の週、清実さんはインフルエンザでダウンしていたので、振り付けはおあずけを食っていて、次の週に持ち越されていたのだ。

 そして週が明け、やっと清実さんが戻ってきた。僕は久し振りの再会に心が躍った。
「ああっ、お久しぶりいいいいい!」
とお互い手を取り合ったが、
「で、どこで一緒だったんだっけ?」
と聞いても、向こうも覚えていない。
「まいっか、そんなことどうでも。とにかくまたご一緒できて嬉しいです!」

 彼女が振り付けし始めた。当然のごとくミュージカルのノリでどんどん振りをつけていくので、最初はちょっとびっくりして、
「え?現代音楽なのに、こんな軽いノリでいいのかな?笈田さんは、これでいいって言うんかいな?」
と思った。
 その危惧は、たちまち消えた。彼女の作り出すダンスは、曲のリズムと相まって、ただちにある種のエネルギーをシーンに与え始める。西村さんの音楽も、こうした動きと共に味わうと別の表情を見せ始める。合唱団は群舞となり、コンテンポラリーな音楽に重力が生まれ、その抽象性を保持したまま地に足が着く。
 歌と踊りとで醸し出すステージ上のインパクトは凄い。考えてみると、新曲というものは、何も前例がないわけだから、何でもアリのノリで作れるし、つまりは表現として成立しさえすればいいのだから、タブーはないのだ。

 清実さんは、すべてインプロヴィゼーションのように、新しい動きをその場で編み出してゆく。何も考えていない。ひたすら降りてくるものを受けとめ、肉体の律動に変換してみんなに伝えていく。すると、それらがどんどん説得力を持った表現となっていく。

 面白いな、こういうクリエイティヴな現場って!
既製品のオペラでは絶対味わえない!

人生にムダなものは何もない
 清実さんに再会したら、同時に自分の80年代後半から90年代前半の頃の思い出がどんどん蘇ってきた。実はあの頃、自分の仕事は決してすべてが報われていたとは言い難かった。二期会での副指揮者としての仕事はコンスタンスにこなし、変動のない評価を受けていたが、むしろ現在の自分のユニークな活動につながる分野においては、すべてが裏目に出ていた時期と言っていい。思い返してみると、ヘコむ日も少なくなかった。

 急逝したカリスマ指揮者濱田徳昭(はまだ のりてる)氏の後を継いで日本オラトリオ連盟の指揮者になったけれど、神格化された濱田さんと違うことをやるとことごとく反対されて嫌気がさし、やがて辞任した。今から考えると、「ロクに経験もないのに人のふんどしで相撲を取ろう」とした自分が甘かったのだろうけど・・・。
 僕と一緒にオラトリオ連盟を辞めた若者たちと一緒に初代TBS(東京バロック・スコーリア)を作ったが、まだ納得のいく音楽を作れるほど自分が熟成していないことを感じ、ある日突然決心して無理矢理解散。メンバーから随分恨まれた。そりゃあ、そうだ。みんな僕のためにオラトリオ連盟を辞めてくれたんだからね。
 でも、そんな中でも収穫はあった。日本オラトリオ連盟再生公演「メサイア」のために招聘したクリストファー・ホグウッド氏のアシスタントをさせてもらったことで、今日のバロック演奏に対する自分の見識が養われ、自分のスタンスの形成に役立ったし、北九州聖楽研究会「マタイ受難曲」では、エルンスト・ヘフリガー氏に福音史家を歌ってもらった。
 その後僕は、浜松バッハ研究会や名古屋バッハ・アンサンブル・コールに呼ばれ、長い間、自分自身のグループは持たなかったけれど、それらの経験が全て今日のTBS(東京バロック・スコラーズ)に生きている。

 ミュージカルの分野では、ふたつの大きな公演で途中降板を余儀なくされた。つまりはクビである。
ひとつは1987年くらいだったと思う。東宝が「ラ・ミゼラブル」を初めてロングランの興行する時のことであった。
 公演の指揮者に何日かNGがあるということで、
「私とルーティーンを組んで本番を回していこう」
と指揮者に言われた。僕はすっかりその気になって稽古に参加した。
 作曲家のクロード=ミッシェル・シェーンベルクも来日して、ソリストたちの音楽稽古も行ったが、驚いたことに彼は譜面が全く読めなかった。ただピアノはとても上手で、彼が作曲して自分で弾き歌いしたものを他の人が採譜し、アレンジャーが編曲して曲に仕立てていたのだ。
 演出家のローレンス・コナーも来日して稽古を付けていた。もう時効だろうから言ってもいいかと思うが、主役がいわゆる有名タレントだったでしょう。演出家が演技を一目見て、
「代役の○○の方が全然うまい。この主役の人を降ろすわけにはいかないのか?」
と言い出して、プロデューサーたちがあわてて飛んできて、
「いやあ、それは興行する立場からは困りますので、是非とも我慢してこの人を使ってください」
と必死で説得していたのが印象的であった。ああ、まだまだ日本のミュージカル界は貧困なんだな、と思った。
 稽古はほとんど見させていただいたのだが、いっこうに僕に振らせてくれない。その内、指揮者は僕を呼んでこう言った。
「主催者がスケジュールを全部空けないとやらせてくれないって言うんだ。だから仕方なく他の仕事を全部断った。そういうことで大変申し訳ないんだが、君と組んで仕事をするのは無理になった」

それで僕は、あっけなくクビになった。

 1988年には、青山劇場で「12ヶ月のニーナ~森は生きている」というミュージカルを初演するというので僕が呼ばれた。作曲は、ロシアではプロコフィエフなどと同等の評価を受けているロディオン・コンスタンティノヴィチ・シチェドリン。彼がスコアを持って来日すると、僕はすぐにそれを受け取って集中的に読み込んだ。
 大変な力作である。しかしながら、ミュージカルにしてはかっちりと書かれすぎていて重すぎる。とはいえオペラにするには軽すぎる。要するに中途半端なところが多い。しかしながら、音楽は魅力満載である。全体を整理しさえすれば、絶対に売れる作品に仕上がるという確信を持った。
 そこで僕はシチェドリン氏に単刀直入に言った。
「素晴らしい作品です。しかし、こことここは長すぎます。これはもっと簡素にして、ここを生かせば絶対に効果的です」
すると彼は目をキラキラと輝かせて、
「なあるほど・・・君の言う通りだ。ここは確かに冗長だ。書き直そう。それから、ここについてはどう思うかね?」
「書き直さなくて良いです。ただしカットしましょう。ここからここに飛んでしまいませんか?そうすれば双方の音楽が生きます」
「君は本当に僕の音楽を良く読んでくれている。君の言う通りに直してみるよ」
僕たちは意気投合した。彼は僕のことを全面的に信頼してくれた。
「これから初演まで、いつも僕の側にいて意見を言ってくれるね」
「勿論です」

 ところが、ここに横やりが入った。演出家が、自分をさておいて僕が曲のカットなど勝手に事を進めているのが気に入らないと言うのだ。確かに僕は通訳を置かずに英語で直接会話した。他の人達が蚊帳の外に置かれたように思っても仕方なかったのかも知れない。それで、
「明日からもう来なくていいよ」
とあっさりクビになってしまった。

 その後、例のスコアはそのまま放置され、一週間もの間作曲家を放ったまま、日本人の間でだけ話が進められたので、シチェドリン氏は怒り出してしまったという。演出家が僕とのやり取りなど全く無視して、勝手に非音楽的なカットを要求したりしたので、シチェドリンはどんどん頑なになってしまって、しまいには、
「音楽も分からないくせに、俺の音楽に口出しするな!俺のスコアはもう一音たりとも変えさせない。このままで上演するのだ!」
それで本番は完全ノーカット上演。

 その後、どうなったかというと、やっぱり冗長な故に人気が出ず。大ヒットを狙った興行は短期打ち切りに終わってしまった。行った人に聞いてみると、みんな口を揃えたように、
「長い!重たい!」
と嘆いていた。
 今でも僕は、あの時自分がシチェドリン氏に言った意見は全て正しかったと思っているし、あのまま僕がプロダクションの中にいたら、公演は絶対に大成功になっただろうなと確信している。残念!

ただね、若い時というのはそんな目に遭うものなんだね。
それどころか、この歳になると、むしろ思うんだ。
「それらの経験は全て生きている、人生にムダなものは何もないんだ」
ってね。

「ねえ、またクビになっちゃった」
と言うと、妻は、
「ふうん・・・また頑張ればいいじゃない」
と言った。明日からどうやって生きていこう、と思う日もなくはなかったんだよ。
そのことだけでも、この妻と結婚してよかったな、と思う。
最後はノロケで終わりました。
こんなハッピーな人生です。




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© HIROFUMI MISAWA