ドン・ジョヴァンニ初日間近

三澤洋史

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徳仁天皇について
 元号が変わったこと自体に特に関心がないことは前回の更新で書いたが、徳仁(なるひと)天皇に変わったことに関しては、いろいろ思うところがある。天皇は1960年生まれで僕より5歳若い。
 僕が小さい頃、母はよく、
「お生まれになった浩宮はね、お前と同じヒロだよ」
と言っていた。 
 浩宮は、美智子様がご自分の手で育てると言ったり、学習院のオーケストラでビオラを弾いていたり、イギリスに留学したりと、いろんな意味でこれまでの皇室のあり方をくつがえすような行動をサラリととっていた。

 実は、僕は一度彼に会っている。ある時、新国立劇場のオペラ公演に雅子さまと共に来席され、公演後、合唱指揮者にも感心を持たれているということで、僕も貴賓室に呼ばれた。
「新国立劇場合唱団は、本当に素晴らしいですね。いろいろご苦労もおありでしょう」
というような言葉をかけていただいた。なんともいえない自然体で柔らかい雰囲気。
 その時、僕がどう答えたかは、よく覚えていないけれど、通常は通り一遍の社交辞令で終わるところ、いろいろ具体的な突っ込みをされたことで、驚くほど会話が進んで・・・まあ、勿論敬語では話しているものの・・・ちょっと待てよ・・・皇太子だよね・・・こんな風に普通に話しちゃっていいの?と自分の方がとまどったことを思い出す。

 日曜日の朝7時半からフジテレビのThe Primeという報道番組を好んで観ている。5月5日は、10時から愛知祝祭管弦楽団の練習があったので、刈谷のホテルでこの番組を観ていた。そこに出演していた櫻井よしこさんのコメントに、目からウロコが出る思いがした。彼女の話は、こんな内容であった。
「みなさん、象徴天皇という言葉が絶対的価値観を持っているように思われていますが、そんなものは、日本が戦争に負けてアメリカから押しつけられた価値観にすぎません。それは、天皇の戦争責任を問うのと表裏一体になって、天皇の政治介入と宗教性を排除することが目的であったのですが、日本国民がその考えに染まる必要はないのです。天皇というものは、本来そんな存在ではないのです。天皇と皇室は、日本国民のしあわせと安寧を日々祈り続けるのがお仕事なのです」

 祈り続けること・・・なあるほど・・・そうか!憲法がどう決めようが、皇室というものは、その存在そのものによって、「美しい国日本」のスピリチュアルな意味での“象徴”であるべきなのだろう。
 だとすれば、我々は、その象徴という言葉に対して、
「象徴なんだ。象徴に過ぎないんだ。それ以外に存在価値はないんだ。天皇なんていらないんだ」
などと卑下して考える必要はないのだ。
 先の戦争では、天皇を神であるとあがめ奉り、沢山の兵士達が「天皇陛下万歳!」と言いながら死んでいった。それは事実であり、過ちであるというのは分かる。それを受けて昭和天皇は人間宣言をした。だから天皇は神ではない、ただの人間だという。
 見れば分かる。ひとりの人間である。さらに、人間といっても、少なくともキリストや仏陀などのような、自ら積極的に宗教的な道を説いて歩く存在でもない。しかしながら、こう考えることは出来ないだろうか?
 すなわち、天皇とは、やまと民族の本来持っているスピリチュアルなアイデンティティーのひとつのシンボル的存在であり、神官や司祭などのような役割を担っている。その方は、我々やまと民族のために、日々祈り続けている。
 一般参賀に集まった人達の皇室に対する視線を見ると、まさに日本国民が求めている皇室というのは、そのような存在なのではないかと思われてならない。だとすれば、天皇が宗教的な要素を帯びた存在であって何が悪い!そう信じる人がいたとして、誰がそれを取り締まり、逮捕できるというのだ?
 我々日本人が、戦争に負けたからといって必要以上に一億総無神論者になることはなかったのだ。宗教性を捨ててエコノミック・アニマルになることもなかったのだ。正月になれば、門松を立ててごく自然に神社に初詣に行き、受験が近くなれば合格祈願をし、死ねばお葬式をすることは、すでに立派に宗教的行為をしているというのに、それを意識の上で否定すること自体が自己欺瞞であるのだ。

 櫻井よしこさんは上皇后についてこう語る。
「美智子様は、本当に世界中の人達に愛されています。いろんなことにシビアに反応する外国の皇族の方達ですら、美智子様には手放しの賛辞を捧げます。彼女の持って生まれた品性というか人格というか、わたしたちもそれを誇りに思うべきなのです」

 カトリックのミサの後半で、信徒達が自分たちを導く聖職者達のことを祈るくだりがある。

地上を旅するあなたの教会、わたしたちの教父フランシスコ、
わたしたちの司教○○○○(教区ごとに違う)、
司教団とすべての教役者、
あなたの民となったすべての人の信仰と愛を強めてください。(第三奉献文)
 このように我々も、我々のために日々祈ってくれている天皇、皇后、そして上皇をはじめとする皇室のために、逆に、祈ろうではないか!
何?相手はクリスチャンでないから祈る必要ないって?何を狭いこと言ってる?イエス・キリストは、見棄てられた娼婦や酒税任達がクリスチャンじゃないといって彼らのために祈ることを拒否したか?マザー・テレサは、ヒンズー教の人が死んでいくときに、カトリックの祈りを強要したか?祈りにはボーダーがあってはいけないのだよ。
 僕たちは、どんな罪人に対しても祈ることが出来るのだ。だとしたら、ましてや僕たちの愛すべき祖国の精神的シンボルの存在に祈りを捧げていけないというきまりはあるまい。
 安倍さんに祈らなくても(いや、祈ってもいいんですよ)、天皇には祈ろうよ。変な話だけど、その功徳は僕たち自身にも降り注ぐかも知れないと思わないかい?そして、我が国が、最も美しく品性のある国として他国から称賛を集めるような国になることを、この令和の時代に、今こそ祈り願いながら、目指そうではないか!

真生会館での講座が楽しみ
 真生会館で5月23日木曜日10時30分~12時から始まり、6月27日木曜日、7月25日木曜日と3回シリーズの講座が楽しみで仕方ない。

 この講座のタイトルは、先方で「音楽と聖書」と付けたのだが、後で僕の方から「音楽と祈り」として欲しいと要望を出した。でも、いろいろが間に合わなかったようで、いくつかのところには相変わらず「音楽と聖書」と出ている。でもまあ、タイトルはどうでもいい。
 これまで、いろんな講演会を手がけてきた僕だが、純粋に信仰者の立場から音楽について語るのは初めてなので、想いばかりいっぱいに詰まっている。ちょうど「おにころ」を創った時に、それまでの自分の人生観、宗教観、哲学などを一気に吐き出したように、あれもこれも込めたいと思って、下手すると収拾が付かなくなってしまう。
 そうじゃなくても、僕の場合、しゃべることがなくて困る、というようなこと一生のうちに一度も経験がない。このホームページだって、だいたい長すぎて、読者は食傷気味だろうなと思いながら、書き出すと止まらないのだから。
 今、まだ具体的にそれらのアイデアを絞り込むところまでいっていないが、頭の中でいろいろ整理を始めている。

 講座の時にレジメを配ると思うが、第1回目のテーマは「音楽と聖霊」。ここで僕は、まず自分の考える音楽の本質を語ろうと思っている。「音楽は聖霊に近い」ということだ。それは、とりもなおさず天地を創造した神というものは“霊としての究極的存在”であり、それを最も身近に体験する媒体として音楽があるということである。これ以上の内容については講座で語るが、僕のひとつの体験を語ろう。

 中学校の頃からクラシック音楽は聴いていた。でも、ベートーヴェンの「運命」などを聴いても、それは自分の心にはあまり響いてこなかった。ただ、素晴らしい作品なのだから、聴いているときっとそれだけで自分が高まってくるに違いない、と思って「我慢して」聴いていた。
 それが高校になって、音楽の道を志して、ある日何気なく聴いたら、それは全く違った姿で自分の前に立ちはだかってきた。心が沸き立ち居ても立ってもいられなくなったのだ。ベートーヴェンが「心から心へ」と言った意味が一瞬にして分かった。ベートーベンの音楽は、僕の心の内部に入り、魂を揺さぶっているのだ!

 そして今でも、様々な音楽が僕の魂をゆさぶり続けている。音楽はそういうものであり、そういう状態にならなければ、本当に音楽に出遭ったことにはならないのだ。同じ音楽を聴いても、なんにも感じない者もいれば、それを聴いたことで人生がガラリと変わる者もいる。聴覚的には、同じ物理的な音を聴いているのに・・・。
 音楽は愛に似ているとも思う。この人を愛したいと思っても、どうしても愛せないという場合がある。その一方で、我が子を守るために無心で自分の命さえ犠牲にする母もいる。では愛はどこからやってくるのだろう?正解は・・・愛は神から来る。愛は神からの絶対的恩寵である。そして愛は聖霊に乗って来る。同じように音楽の感動も、聖霊に乗ってやって来て、他者は絶対に入れない我々ひとりひとりの心の中に入り、内側から火を灯すのだ。
では、どうやったら音楽の感動が得られる?中学生の僕のように「我慢する」ことが必要?

 おっとっと、喋りすぎた。しかし、こんなことをとりとめもなく喋っていたら、とっても1時間半には収まりそうにないので、よーく考えて能率良く話したいと思います。これから講座で使用する曲を選んで、音楽も聴きながら、肩の凝らない楽しい会にしたいと思いながら準備を進めるので、興味のある方は是非申し込んで下さい。
 平日の午前中なので、働いている方には難しいですが、出来れば3回シリーズで受講した方がベターです。

ドン・ジョヴァンニ初日間近
 農民達が集まっているところにドン・ジョヴァンニがやって来る。そこで可愛い村娘のツェルリーナを見初める。ツェルリーナにはマゼットという許嫁がいるが、そんなことにはお構いなしにドン・ジョヴァンニはツェルリーナを口説き落とそうとする。もう一歩というところで、かつてドン・ジョヴァンニに瞞されて彼を追いかけているドンナ・エルヴィラが来て、その蛮行を邪魔する。
 マゼットは、許嫁のツェルリーナが、あんなにあっけなく自分を裏切ろうとしたことに腹を立てている。でも、ツェルリーナが甘えながら許しを請うと、「かなわないな」と言いながら許してしまう。そこへ向かうから「盛大な祭りの準備をしろ!」とドン・ジョヴァンニの声。あわてるツェルリーナを見て、またもやマゼットは嫉妬の感情を燃え上がらせる。

 この歳になるとね、こういうのはもう沢山、と思う。刹那の快楽の予感に心ときめき我を忘れて恋人を裏切りそうになるツェルリーナ。ドン・ジョヴァンニによって、まるで色情狂のようになってしまったドンナ・エルヴィラ。嫉妬の嵐の吹き荒れるマゼット。そうした情感に振り回される生活は、もう64歳の僕にはほとんどないし、また、ファウストのように、魔法の力で若者に帰って、またそうした情念の渦の中に生きたいとは決して思わない。
 もう年寄りなんだから穏やかに静かに生きたい。女性を見ていても、妹や娘を見るような視線になってきて、みんな愛すべき存在だとは思うが、そこに立ち入って口説こうとかなんていう気持ちはないなあ。私生活においてはもう冒険はいらない。落ち着いた生活の中で、むしろ精神をどんどん研ぎ澄ませていって、残りの人生は魂の覚醒に向かって歩み続けたいのだ。

 でもね、考えてみると、35歳で亡くなったモーツァルトが、オペラ「ドン・ジョヴァンニ」をプラハで初演したのが31歳の時。そんな男盛りの彼にとっては、可愛い女の子に心をときめかしたり、反対にコンタンツェが浮気をしているのでは?という思いに悩まされたり、というのが日常的だったわけだから、「フィガロの結婚」も「コシ・ファン・トゥッテ」も含めて、これこそが等身大のモーツァルトなんだよね。
 その若さ故の、立ち向かってくる人生に対する全力投球というのがまぶしく感じられる一面もある。その意味では、モーツァルトは、人間としてある種の悟りを得る前にその人生を終えたといえる。

 今、自分はこうして、痴情のもつれのようなことから離れて、さも達観しているようなことを言っているけれど、それは自分がより悟ったからとか、優れたものになったからというよりは、ただ単にホルモンの分泌が少なくなっただけという気がする。
 誰だって枯れてくれば、自然と諦念や達観に至るのだよ・・・ええと・・・そうでもないな。音楽家だったら、結構身近に、何歳になっても“懲りない”で女の尻ばかり追い掛けたり、問題ばかり起こしている人も少なくない。ま、人は人。
 ただ、そうした若い作曲家の作品とは距離を置いているから、つまらないかといえば、決してそんなことはない。たとえば僕はこの歳になってから、17歳で急逝した山田かまちの詩にハマったりしている。自分の中のリアルな感情は過ぎ去っているけれど、ああ、あの頃こんなことを感じていたな、という自分の青春時代の様々な心の情景がとってもなつかしく感じられる。
 青春時代とは、暗闇にあてどなく出航する船人のようなものである。誰しもしあわせに生きたいと願っているくせに、こうした様々な欲望や誘惑の中にあって、逆行したり惑いながら、それでもなお、より良い明日を夢見ている。
 そうした試行錯誤を繰り返していくうちに、人はしだいに学習することを余儀なくされ、どうしたら過ちの罠にハマらないですむか分かってくるが、そうなったらそうなったで、あの無我夢中であがいていた頃の、
「それでも俺は生きているんだ!全力投球で生きているぜ!」
と世界の中心で叫びまくっていた自分が妙にいとおしいものだ。

 さて、今回の新国立劇場「ドン・ジョヴァンニ」公演の指揮者カーステン・ヤヌシュケは38歳の好青年。モーツァルトよりは長く生きているが、まだまだこの悪魔的オペラ・ブッファの様々な情感がリアルに感じられる年頃であろう。
 彼とは、ドイツ語で会話できるということもあって、会ってすぐに打ち解けた。
「今シーズン開幕の『魔笛』を指揮したローラント・ベーアを知ってる?」
「勿論。僕はフランクフルト歌劇場の音楽監督をしたけれど、ローラントは僕のすぐ前の音楽監督だった。それにいろいろ面倒を見てもらったんだ」
「僕はね、ローラントと一緒にバイロイトで働いていたんだ。『マイスタージンガー』の歌合戦の場面では、赤いペンライトで合唱をフォローする僕の隣で、ローラントが緑のペンライトで舞台上のトランペットのファンファーレを振っていたんだよ」
「そうかあ。バイロイトでは僕もアシスタントをしたよ。ティーレマンの下とかで・・・」
「へえっ・・・あのさあ・・・ティーレマンの下って、やりにくくなかった?」
彼の目がキラッと光る。
「ヒロ・・・ティーレマンってどんな奴か知ってる?」
「勿論。かなりヘンな奴だよね。作る音楽は素晴らしいけどね」
それから、果てしなくティーレマンの話になって、ふたりで超盛り上がってしまった。彼は言う。
「副指揮者(稽古ピアニストも兼ねる)イジメみたいなことをやるんで、ホントにヤだよ。それでもね、ティーレマンは僕のことを気に入ってくれて、バイロイト以外のところでアシスタントをしてくれって頼まれたんだけど、断ってやった。誰がやるもんか!」
「あはははは!」
その間に演出の説明と合唱団につける立ち稽古の段取りが終わっていて、
「マエストロ!」
と呼ばれていたのに、僕たちは話に夢中になっていて気が付かなかった。
「マエストロ!お願いしまーす!」
「おっと・・・はい!ええと・・・どこからですか?」
ヤベエ。立ち稽古を中断させてしまった。これもティーレマンのせいだ、なんちゃって・・・。

 ウィーン国立歌劇場で長い間子どもオペラを指揮しており、僕の編曲した「ジークフリートの冒険」も何度も手がけているらしい。そのことを彼に言ったら、
「マジか?あれは、これまで知っている子どもオペラの中でベストのものだよ。君が編曲したの?凄いな」
と言ってくれた。
「この新国立劇場で初演して、それから演出をしてくれたマティアス・フォン・シュテークマンがウィーンに持って行ったんだ」
「ふうん・・・リングの他にまだ子どもオペラってあったりするの?」
「トゥーランドットを題材にした『スペース・トゥーランドット』や『パルジファルと不思議な聖杯』というのもあるよ」
「ちょっと待って!今からウィーンにメールを送る。いいかい、書くからね。『ミニ・リングを書いた三澤氏にはパルジファルを題材にした子どもオペラもあります』」
 これが即どうにか発展するとも思わないけれど、喜んでもらえているようで嬉しい。ミニ・リングと言われる「ジークフリートの冒険」は、公演する毎に、僕の口座に少しばかりだけれど入金される。最近も入金があったので、
「へえ、いまだにやってるんだ」
と思っていたのだ。
「普通、1シーズンだけやって、二度とやらないんだけれど、『ミニ・リング』だけは、何度も上演されているからね。人気商品だよ」

 おかしいのは、あれだけティーレマンを嫌っているくせに、カーステンの指揮にはティーレマンからの影響が色濃く見られる。打点直後の動きが速く上でやや止まる指揮法。ドイツの昔の巨匠達がやっていたやり方だ。音楽作りは軽快で、モーツァルトのエスプリが利いている。

 新国立劇場「ドン・ジョヴァンニ」公演は、5月17日金曜日から26日日曜日まで5回公演だが、26日は貸し切り公演なので、一般的には25日土曜日まで。
序曲冒頭のニ短調から聴く者をデモーニッシュな響きが包む、モーツァルトの全オペラの中で最も彼の才能が全開した傑作中の傑作。

  


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© HIROFUMI MISAWA