「トゥーランドット」と声楽アンサンブル

三澤洋史

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Missa pro Paceの音源をアップしました
 今さらもったいぶっても仕方ないと思い、8月11日日曜日に全曲世界初演するMissa pro Pace(平和のためのミサ曲)の音源を、ホームページ上にアップしました。これは約1時間の全曲から約20分ほどの部分を抜粋したものである。
ちなみに全曲の構成は以下の通りで、太字の部分が今回アップした音源。
1 Kyrie eleison 
2-1 Gloria in excelsis Deo 
2-2 Qui tollis peccata mundi 
2-3 Quoniam tu solus sanctus
 
3-1 Credo in unum Deum 
3-2 Crucifixus 
3-3 Et resurrexit tertia die 
3-4 Et in Spiritum sanctum Dominum 
3-5 Festa di Credo 
 
4-1 Sanctus 
4-2 Benedictus
 
5 Pater noster
 
6-1 Agnus Dei 
6-2 Dona nobis pacem
 1 Kyrie eleisonのモチーフは、実は一番始めに頭に浮かんでいた。ラテンロック・グループのサンタナのライブ・コンサートに行った後、なんとなく新しいミサ曲はラテン音楽タッチで作りたいなという気持ちが生まれていて、同時にこのキューバ音楽っぽい冒頭のモチーフが勝手に頭の中で鳴り響いていたが、
「いやいや、こんなふざけた音楽でミサを書いたらいけませんよね」
と自分で否定していたのだ。
 それが終曲のDona nobis pacemが出来た後に、あらためてこのメロディーを弾いてみたら、あれっ?案外いけるかも知れないと思った。気が付いてみたら、終曲のソドファミーレドソーのメロディーに対して、ラドファミラとモチーフに関連性があるのだ。え?これって、すでに仕組まれていたってこと?とびっくりして、あたりを見回した思い出がある。何も見えるはずないのに・・・。
 2-1 Gloria in excelsis Deoは、立教大学の応援歌セントポールからヒントを得て作ったゴスペル調の音楽。でも出来上がってみたら、そんなにセントポールには似ていませんなあ。男声合唱の特性を生かした楽曲。
 2-2 Qui tollis peccata mundiは、いつも練習の時にアカデミカ・コールのみなさんに、
「これは東京ロマンチカなんだから、もっとムード歌謡のように歌ってよ!」
と言って笑われている曲。後半のアルトサックスのアドリブ(ホントはアドリブではなく書かれているけれど)がイカしているでしょう。
 2-3 Quoniam tu solus sanctusは、2-1と同じ曲想で始まるが、コンガのリズムが倍テンポになっていて、激しいアフロキューバン。最高潮に盛り上がった後、フーガに突入し、最後はディキシーランド・ジャズのお決まりのエンディング。
 6-1 Agnus Deiよりも終曲の6-2 Dona nobis pacemが先に出来た。この音楽のインスピレーションを受けた経緯は、次の真生会館の講座の項に書いてあるので、ここでは割愛するが、そのDona nobis pacemが、当初予定していたよりも静かな曲になったので、その前のAgnus Deiは、常識的な曲想をはずれて結構激しい曲となった。その背景には、ベートーヴェンの作ったミサ曲ハ長調のAgnus Deiが僕の背中を押してくれたというのがある。
 Agnus Deiは、ミサの後半、いよいよ聖体拝領が行われる前の曲だ。ミサが進んでくる間に、会衆の中では、御言葉を読んだり、信仰宣言をしたり、聖変化を体験したりしながら、だんだん「平和と一致」に向かってくるが、それは、行為としての「平和の挨拶」においてひとつの「平和の実現」に至る。その直後、司祭はホスチアをこの「平和の賛歌」と共に割くのだ。
 だから通常は穏やかで平和に満ちた曲となるのであるが、ベートーヴェンのミサ曲ハ長調のAgnus Dei では、宗教曲なのに、こんなロマンチックでいいの?というほど息詰まる情熱に満ちた曲なのだ。それがDona nobis pacemになるときに劇的な変化を遂げる。
 そのドラマチックな展開のアイデアをパクった。勿論、曲想そのものはべートヴェンとは似ても似つかないので、いわゆる真似ではない。考え方をパクっただけ。さらにオーケストレーションする時に、ピアノのパートに細かいパッセージをちりばめ、まるでショパン・エチュードのようなパッションに満ちた曲となった。

 これらの曲を聴いて、
「なあんだ、これでだいたい分かったから、演奏会にはもう行かなくていいや」
とは思わないでくださいね。ここで演奏されなかった部分がまたスゴいんですからね(笑)。
 
 特にCredoでは、これらの曲では聴けない、もっともっと表現の振れ幅の広い様々な曲想が聴かれます。
Credoはラップっぽい音楽で始まる。最初は本当のラップにしようかとも思ったけれど、そうするとダラダラと安っぽい音楽になってしまうので、音を付け、さらに対位法的にフレーズを重ねていったら、その結果どの曲よりも難しい音楽になってしまった。その他、やや現代音楽っぽい部分もあり、ピュアーな賛美歌風の箇所もありで、大きなパレットに自由なイマジネーションを広げた。
 全曲初演の演奏会で、一番聴いて欲しいのは4 Pater noster(主の祈り)である。僕の作品には、もうひとつ「主の祈り」がある。「イタリア語の3つの祈り」の冒頭の曲である。面白いもので、使っている言語が違うと、同じ歌詞内容でもマッチする音楽が全然違うんだよね。イタリア語はラテン語から派生した言語なので、よく似てはいるが、全然違う世界観を持っているので、曲想は随分違うものになった。
 このPater nosterに関してはひとつの逸話がある。最初全然違う曲想で曲を作り始めた。途中までサクサクとは進んでいったのだが、どうも違和感がある。悪い曲ではないけれど、何かひとつ足りない・・・というか・・・これだ!というのがない。試行錯誤している内に、突然頭の中に別の音楽が閃いたのだ。
 それで・・・あっさりと放り出して振り出しに戻り、全然別の曲を作り始めた。結果的に、あの激しいAgnus Deiの前にピッタシはまった癒やし系の安らぎに満ちた曲となった。父なる神に対して全面信頼を表明するこの曲は、Dona nobis pacemのようにマジカルではないけれど、僕は個人的には一番好きかな。

 これらの音楽は、8月でないと絶対に聴けないから、どうかみなさん世界初演に足を運んでくださいね。

「トゥーランドット」と声楽アンサンブル
 先週の「今日この頃」で書いた通り、5月20日月曜日と21日火曜日はびわ湖声楽アンサンブルの「トゥーランドット」の稽古をつけに行った。ところが昨年「トスカ」で共演したメンバーの大半が辞めてしまい。今回のプロジェクト参加の11名のメンバーの内7人が全くの新人。しかも20代半ばの、音楽大学卒業したての若者ばかり。

 実は、僕はびわ湖ホールが開場した時に専任指揮者として若杉宏芸術監督の下で働いていたので、その事情はよく知っている。つまり、びわ湖ホール声楽アンサンブルのような音楽集団を日本の法律にあてはめようとすると問題があり、協議の結果、嘱託職員の扱いにしようとなったのだ。
 問題とは、給料を払って何年間か雇用してしまうと、技術が衰えたからといって簡単にクビに出来ないので、こうした特殊技能の世界ではレベルの維持が難しいとか、税金や保険や年金の問題など、いろいろ細かいことが、音楽家を雇用することにマッチしないのである。
 それは新国立劇場でも同じだが、新国立劇場はむしろ毎年試聴会を行って、次の年の一年間だけの契約を結ぶことで、「雇用していない」ことになっているのである。

 さて、先ほども言ったように、びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーは嘱託職員の扱いである。嘱託職員は基本3年間の雇用であるが、その後1年ごとの更新を行い、最長で5年間だけいられる。僕が専任指揮者をしていた時は、5年経ったら、メンバーは一度辞めたことになる。だがその後、新人に混じってオーディションを受け、新規に入ったことにして3年、さらに1年ごとの更新で、合計10年で嫌が応にでも追い出されるシステムになっているのである。
「これでは10年経ったら同じ声楽アンサンブルでも別の団体になってしまうじゃないの!」
と当初僕は反対したが、僕ひとりが反対してもなんの効果もなかった。
 
 その後、さらに行政が厳しくなった。5年経った後、新規のフリをしてもみんなが残っているので、本当に新規の受験者が入れない事実が問題視され、びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーは、どんなに優秀でも5年しか居られなくなってしまったのである。
 さらに問題がある。開場した時は全員同じ時期に団員となっているので、途中で自分の都合で退団したメンバーを抜かすと、みんな同じ時期に辞めることになってしまうのだ。こうしたことが重なって、11人中7人の新人を抱える「新声楽アンサンブル」のメンバーを僕は指導しなければならないハメになった。

 団員達の声のレベルは決して低くない。けれども、みんな音大を卒業したばかりなので、声楽は勉強していても、オペラチックな表現は僕から見たらまだ幼児レベル。
「君たち、そもそもこういう場合はね・・・」
という風に、完全に入門講座となっている。しかしながら、若いって素晴らしいね。砂漠が水を吸っていくように、僕の指導を一言も聞き漏らすまいとする集中力が素晴らしいし、実際にそれを返してくる能力はある。
 彼らが、我々新国立劇場合唱団と藤原歌劇団という、いわゆる東京組と合流するのは、音楽稽古の最後からだが、彼らにとってはめくるめく体験だろう。しかしながら、東京組と合流したときに、
「まったく、何も知らないんだから」
と言われないようにしなければ、と思って、僕はとってもとっても丁寧に指導したよ。

 最近この声楽アンサンブルの専任指揮者となった大川修司さんは、20日14時から21時と21日10時から17時までの全ての練習時間に全て立ち会ってくれた。僕が初代専任指揮者であることはすでに述べたが、その後2001年に僕が新国立劇場合唱指揮者に就任したので、本山秀毅さんがそれを受け継いで2代目専任指揮者となった。
 本山さんとは、朝日新聞の合唱コンクール全国大会の審査員などでご一緒しているが、とても素晴らしい合唱指揮者だと思う。彼は最近大阪音楽大学の学長に就任した。もっともっと現場で活躍して欲しい人材であるが、彼のことだから、だからって現場を引退するような人間ではないだろう。
 さて、われらが大川さんは、そんなわけで3代目専任指揮者である。彼は、かつて尼崎で僕が「蝶々夫人」を指揮した時などに僕のアシスタントをしてくれたり、新国立劇場にも出入りしていた。アシスタントとしての仕事はきちんとしていたが、指揮者なのにどちらかというと寡黙な人で、これまでそんなに密な交流をしていたとはいえない。
 でも、長女の志保は、稽古ピアニストとしてオペラの現場で一緒に仕事していて、彼のことをとても買っていたし、びわ湖ホールも彼をあえて本山さんの後任として指揮者に選んだくらいだから、それなりのものはあるんだろうなあと思っていた。

 初日の晩の練習後、僕は大川さんを誘って、びわ湖ホールに行くと必ずといっていいほど行くドイツレストランのヴュルツブルクに行った。ふたりでバイロイトのヴァイツェン・ビール(小麦ビール)であるマイゼルス・ヴァイセで乾杯し、ブレッツェルをかじりながらソーセージを頬張る。


大川さんとヴュルツブルク

 その間に、音楽的な話は勿論、いろんな世間話もした。たしかに、上司に媚びていくようなタイプではないが、いろいろ考えているし、なかなかしっかりしている。それに一度心を許すと、それなりにしゃべり、何の苦もなくコミュニケーションを取れる。かえって、調子ばかり良い人間よりもずっと信頼できると思った。
びわ湖ホール声楽アンサンブルも、彼に任せておけば大丈夫だ。

 さて、東京では、今晩から「トゥーランドット」の合唱音楽稽古が始まる。心を引き締めていくぞう!

真生会館の講座無事終了
 楽しかった!生まれて初めて宗教的なテーマだけで講演をしたが、話していながら、このような話をすることが自分にとって実に自然で、口からどんどん言葉が出てくるのを感じていた。僕は前世、神父だったか?とにかく運命的なものを感じた。

 そういえば昔、ある友人が僕のことを知りたくて勝手に霊能者の処に行き、いろいろ聞き出して帰って来て、こう言ったことがある。
「あのねえ、三澤さんのことを聞いてきたよ。この人は(僕のこと)、とても宗教的な人間なんだって!だからといって今音楽から離れてはいけません。音楽をまず極め、その中から宗教的なことにアプローチしていくべきだと思います、って言ってた」
「テキトーなこと言ってるね」
と返事したが、今思い返してみると案外当たっているのかも知れない。

 「音楽をまず極め・・・それから」
という霊能者の言葉の通り、僕は不思議にも、
「どうしてもっと早くこうした講演を持たなかったか?」
という疑問は感じない。かつて、関口教会聖歌隊指揮者として呼んでもらって聖歌隊を指導していた時も、やっとこの(宗教的な)フィールドに戻ってきたのか、とは思ったが、だからといって、
「今こそ、自分の軸足を教会に置いて」
と思ったわけではないし、関わっているオペラという分野の内容などで、男女の愛憎のもつれなどに辟易しながらも、どこかで、
「ここからまだ離れるべきではない」
という気持ちがある。
 でも同時に、心のどこかで、いつかは「本来自分がやるべきこと」あるいは「自分でないとできないこと」に従事する日がくる、という確信のようなものは常にあるのだ。

 それが証拠に、関口教会をきっかけとして、ドンボスコ社やオリエンス宗教研究所でのインタビューの依頼を受け、カトリック生活の執筆福音宣教の毎月の連載など、いわゆる音楽家としての活動とは独立して宗教人としての活動が広がってくるにつれて、自分の心がワクワクするのを感じているのだ。それが・・・そろそろ自分の内部でだんだん熟してきて・・・いよいよ時が満ちてきたのか?

 僕の宗教的アプローチは、おそらく音楽と切り離しては考えられないものなのだろう。音楽家としての見識を持ちながら、「音楽の中に宗教的本質を見る」あるいは「宗教を音楽の面から読み解く」ことが、これからの僕に求められることなのではないか?
 僕が話しているようなことは、誰にでも言えそうでいて、案外そうでもないような気がする。僕は、こうしたことを人にもっともっと伝えるべきなのかも知れない。

 特に、自作のミサ曲Missa pro Paceの楽想が自分に降りてきた時の様子を語り、インスピレーションがどのようにして作曲家に降りてくるのか、ピアノを弾きながら説明したのがとても興味深かったと何人かの方達から言われた。
 それは自力と他力の話に通じる。インスピレーションは降りてくるのだが、ただボーッと待っていたって、向こうから勝手にやって来はしないのだ。
「人事を尽くして天命を待つ」
という言葉があるが、まずこちらからアプローチしていかなければ何も始まらない。

 僕のミサ曲へのアプローチは、真夜中の白馬の貸し別荘で、ヘッドフォンをつけながら、あてどなくピアノの即興演奏をしていたことに始まる。ある瞬間、脳裏をなにか懐かしいメロディーが通り過ぎた気がした。ふと手を止め、まるで湧き出でた泉を掌ですくうようにして、そのメロディーを指でつまびく。
 最初は変ロ長調のメロディーだった。メロディーは勝手に発展して、ひとまとまりの楽句ができた。しかし、なんか地味だ。どうしてだろう?(一同笑う)そこで半音上げてみた(という話をしながら実際にピアノで半音上げてロ長調にする)。その響きの違いは、聴講者全員がはっきり感じたのではないだろうか?
 それから調性の説明をした。まず何も調号のついていないハ長調は、真っ白な真昼のイメージ。それからフラット系の調性となって、フラットが増える度に、どんどん内省的あるいは哲学的、瞑想的になっていく。一方、シャープ系の調性は、現世的、官能的となっていく。そのふたつの性格は、フラット6つの変ト長調とシャープ6つの嬰ヘ長調で同じ調を共有するようになるが、そこはまさに形而上学的世界。
 僕が最初に弾いた変ロ長調は、落ち着いたやや内面的世界の調性だが、半音上げたロ長調になると、世界観がガラリと変わるのだ。美しい大自然の中にオカルトのように隠れている超精神的世界の表現といったらいいだろうか。この調性になった途端に、Dona nobis pacemは、とっても魔法めいた曲となって生まれ変わったのである。

 こんな話は、僕の場合、日常茶飯事の範疇で、取り立てて語るほどでもないかなと思われるのだが、一般の人達にとっては、そんなことはないのだね。いやいや、こんな話ならいくらでも出来るんだよね。しかも、スピリチュアルな話題や宗教的要素と絡めて、ということになると、本当にもしかしたら僕ではないと出来ないことかも知れないと思い始めた。

 まあ、今からあまり大上段に構えるのはよくないので、とにかく真生会館の夏までのあと2回の講座を、落ち着いてつつがなくこなしていこう。粛々とね・・・。

P.S. とはいいながら、講座が終わってすぐに、真生会館の担当者から、具体的に秋の講座の日程確認と、それから来年も正式に依頼された。
これで喜ぶなという方が無理でしょう!

 ちなみに秋の講座の日程は以下の通り。講座名は「音楽と祈り」で、今はまだ各講座名は決めないで、その都度その時々に合ったテーマで話してくれればいいと言われている。ますますありがたい。
2019年 9月26日 
10月24日 
11月28日 
12月19日 
すべて木曜日10:30-12:00 真生会館 B1岩下ホールにて




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© HIROFUMI MISAWA