「トゥーランドット」初日の幕が開きました!

三澤洋史

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ワクワクする世界でひとつだけの花
 朝日新聞では、第1面の左側やや下に「折々のことば」というコーナーがあって、いろんな人がいろんな事を書いていて興味深い。7月13日土曜日の記事。
「悲壮になるなら、やめたほうがいいと思う。好きだったら、いつも真ん中くらいの順位でも、ひたすら走っていける・・・・。」市原悦子
それから鷲田清一氏のコメント。
「マラソンだけでなく、人生や仕事においても『途中』を楽しむことが大事だと、女優は言う。それを知れば『結果』や『お金』はどうでもよくなる・・・etc.」

 僕は、他の人達よりはずっとマイペースで生きてきたと思うが、それでも人生の途中までは、まだいろいろ煩悩があって、たとえば、もっと指揮者として認められたいとか、要するに「1番になりたい願望」があった。でも、ある時、それがフッとなくなっていることに気が付いた。
 変化は、とてもゆっくり行われていたので、気が付かなかったのだけれど、今から考えてみると、僕の煩悩を消し去ってくれたものが2つある。

 ひとつはスキー。2009年の12月に、娘達に誘われて久し振りに行った湯沢中里スキー場で、リフトに乗る前後でコケたほど下手だったのに、スキーに取り憑かれ、現在に至っている。もうすぐ10年になるんだね。
 自分は、スキーをやっている時、全く損得なしの純粋に混じりけのない気持ちになれる。それは「好きという気持ち」と言ってしまえばそれまでだけれど、本当はそうではない。むしろ、スキーが僕を捕らえたのだ。そして僕にあることに気づかせようとしたのだ。
 それは、自分と音楽との関わり方も、同じように、純粋に混じりけのない気持ちで行いなさい、ということ。自分の心の奥底から沸々と湧き起こる気持ちに忠実でありなさい、ということ。そうすれば、1番とか2番とかではなく、自分にだけしか出来ないものがあることに気付くだろう。それを追求しなさい、ということ。これをスキーが教えてくれたのだ。

 たとえば、今年の8月に僕が行う3つのコンサートを見ると、11日に自作ミサ曲の世界初演、18日に愛知祝祭管弦楽団による「リング最終章」すなわち「神々の黄昏」公演、25日に、ガトーフェスタ・ハラダ本社での新町歌劇団演奏会と、まさに僕でなければ出来ないものばかりが並んでいる。こうした環境を許されているならば、日本で何番目とかどうでもいいだろう。むしろスマップのように「世界に一つだけの花」でいいではないか。

 もうひとつは宗教。僕は2014年11月から2018年4月はじめまで3年半、東京カテドラル関口教会聖歌隊指揮者を務めた。それがきっかけで、ドンボスコ社の「カトリック生活」やオリエンス宗教研究所の「福音宣教」などの雑誌でインタビューを受けたり原稿を書いたりするようになった。そして現在は、真生会館で、月1度「音楽と祈り」の講座を持ち、福音宣教では、コラム「行け、音よ翼に乗って」を連載している。

 もともとカトリック教会に籍を置いていた僕ではあったが、関口教会のお話しをいただいた頃には還暦も近く、そろそろ自分の人生を見直す時が来たのかな、と腹をくくって聖歌隊指揮者を受けた。その僕の決心に、神が答えてくれないはずがあろうか。
 僕の生活の中に“祈り”が入ってくるようになった。僕は“祈り”を通して至高なる存在とつながろうとし始めた。すると、自分の周りに、いろんな“共時性”と言われる現象が起き始めた。それらを体験している内に、
「世界で起きている全てのことには意味がある!」
と素直に信じられるようになってきたのである。

 さて、このふたつの要素につながることによって、僕の精神は昔より研ぎ澄まされてきた。オカルトとは「隠されたもの」という意味であるが、僕は、表象としての世界の陰には様々なものが隠されており、それが比喩や隠喩として様々な形で現れ出ていることを知る。
 神を信じない人は、よく、
「神が本当にいるならば、ここに出してみい!」
と言うが、そういう人には決して、
「はい、私が神でーす!」
とは現れないし、そういう気持ちでいる限り、それらのメタファーの意味は解けないように世界は出来ている。しかし同時に、世界は我々に常に信号を送っていて、我々が気付くのを今か今かと持ってもいる。

 僕はさらに、自分の中にあるハイヤーセルフと呼ばれる「本当の自分」につながることによって、もっと大きな確信とパワーを得ようと思い至る。その「本当の自分」につながっているかどうかのバロメーターは何だと思う?
 それは「ワクワク感」なのだ。自分が無欲になり無心になって透明になってくればくるほど、ワクワクは強くなってくる。聖書でよく「いつも喜んでいなさい」というのはこういうことなのだなと分かった。

 反対に、自分の生活の中でワクワクしない時も分かるようになった。たとえば、結果として自分が誰かを負かして何かを勝ち得た時、昔だったら、
「ヤッター!ざまあ見ろ!」
という気持ちがあったが、自分が何かを成し遂げた「ヤッター!」はあっても、「ざまあ見ろ!」がなくなった。
 いや、なくなったというよりも、気持ちが「ざまあ見ろ」の方向に行こうとすると、昔のようにそれを「スカッとした気持ち」として感じられなくなっている自分に気が付いた。それはね、本当は、全然スカッとしてはいない。むしろそれこそ、ワクワク感から離れた暗い気持ちなのだ。それでいて、その感情はまるで麻薬のようで、次の「スカッとした気持ち」を求め続けさせる中毒症状を呼び起こす。

 いいですか。ワクワク感は「スカッと」の真逆なのだ。これを知らない人の世の中になんと多いことか!そして、本当のワクワク感を忘れてしまった人のなんと多いことか!

 子どもを見よう。子どもはいつも何かが好き。いつもワクワクしたいし、すぐワクワクできる。だからみんなが子どものようになればいい。これは理想論ではない。一度みなさん、本気になってワクワクしようとして、あがいてみてください。
 すると、明日の朝目覚めたときに、これまでのあなたを取り巻く“世界”というステージは突然終了し、次のステージが始まっていることにあなたは気付く。登場人物はみんな同じなんだけど、世界は別の展開を始める。そしてもっと高次元でワクワクすることがあなたを待っている。そう、この世は、実は神の作ったバーチャル・リアリティなのです。

これをあなたは信じますか?

「トゥーランドット」初日の幕が開きました!
 東京文化会館と新国立劇場共同制作による「トゥーランドット」の初日の幕がいよいよ開いた。思ったより、ポジティブな意見が聴衆から寄せられたので、正直ホッとした。勿論、初日にはひとり執拗に演出に対してブーを叫び続けた人がいて、それはそれでいいかなと思える部分もある。海外では、こういうのは普通で、ブーを誇りにしている演出家も多い。とりわけ、ラスト・シーンのサプライズを受け容れられる人とそうでない人とで賛否両論になるのは最初から想定内。

アレックスとの攻防
 だから、本当は先週あたりも稽古レポートを送りたかったのであるが、山口百恵の記事を書いた後、「トゥーランドット」の記事を書きかけたものの、初日まで沈黙していようと決心した。それに、あの頃は、僕と演出家アレックス・オリエ氏とのバトルも、最も熾烈を極めていたのだ。

 アレックスの舞台は確かに素晴らしい。Nave(船)と呼ばれる、上から降りてくる巨大な吊り物は、照明家の才能とも相まって、「未知との遭遇」をも想起させる言いようのない効果を醸し出す。
 第3幕となると、Naveはその底の部分だけ取り外し、それを残して真っ白なレースのカーテンを掲げながら上昇する。そのカーテンの中にトゥーランドット姫がいる。彼女はカーテン越しにリュウに尋ねる。
「誰がお前の心にそのような力を与えるの?」
「愛でございますお姫様」
「愛だって?」
カーテンが上がり、トゥーランドットの姿がむき出しになると、リュウはその中にあえて踏み込んで行く。そして姫の前で、報われない愛を歌いながら自害する。うろたえるトゥーランドット。
 夜が明けて、民衆が集まってきても、彼女はリュウの亡骸から離れようとしない。彼女は葛藤している。先祖代々から受け継がれてきた、異国の勇士に対するトラウマと、目の前のみすぼらしい娘が命を投げ出してまでも訴えた“愛”というものとに・・・。彼女は、カラフから唇を奪われ、乙女の誇りを傷つけられたばかり。しかしながら、愛は今や彼女の目の前にある。さて、彼女は一体どうするべきなのか?
 終幕。物語は賛美と幸福の絶頂にある。花吹雪が舞う。群衆は、
「おお、太陽よ、生命よ、永遠よ!」
と彼女を讃える。トゥーランドットはそうした中で密かに決心し、ある行動を取る。

 このように素晴らしい処置を施すアレックスではあるが、立ち稽古中には、しばしば合唱団が、マエストロはおろか3階からフォローしている僕やモニターテレビなど、どこも見られないような状態で歌い始めることを要求する。
「自分は、みんなが正面向いて両手を開いて歌うオペラチックな姿勢が大っ嫌いなのだ!」
という彼の意見はわかる。それは僕も嫌いだから。ただね、これはお芝居ではなくて、プッチーニの音楽が素晴らしいから今日まで残った「音楽作品」。だから、僕たちは役者としてと同時に「音楽家」として、プッチーニの音楽を滞りなく聴衆に届けなければならない使命を負っている。
 そんなわけで、彼が全員真横向いて歌えとか、真後ろ向いて歌えとか言う度に、僕は彼とぶつかった。彼には、そのどこがいけないのか全く分かっていなかった。
「だってモニターが見れればいいんでしょう?」
「だからあ・・・真後ろ向いたらモニターなんて見れないでしょう。それに、もしそんなモニターがあったら、客席から見え見えでしょう!」

 そんな時には、演出補の女性スサナ・ゴメスさんが、
「まあまあ!」
と、中に入って解決してくれた。彼女がもしいなかったら、このプロジェクトは間違いなく途中で分裂して頓挫してしまったであろう。
 スサナは、彼女自身がきちんとした演出家だ。向こうでは、たとえばA組のリュウを演じている中村恵理さんなどは、彼女の演出でオペラ公演をしたと言う。僕はスサナのことを本当に尊敬している。オペラの内容のことを本当によく分かっている彼女は、僕が何故アレックスに反発しているのか全て理解していて、可能な限り代替案をアレックスに提案してくれる。
 僕たちの意見はいつもほぼ一致していたが、それなのに・・・ああ、それなのに、
「これでいこうね」
とスサナと二人で意気投合していると、その間に演出家が割り込んできて、
「駄目だ、変更する!」
と言うので、僕たちだけでなく、合唱団の全員も、
「ええーっ?また変えるの?」
と、モチベーションがた落ち。

 ピアノ付き舞台稽古に入ってからのある時、合唱団の約3分の1が舞台袖に入ってしまうような配置をしようとしたので、僕は走って行って、
「こういうのは裏コーラスって言うんだ。裏コーラスとなったら、副指揮者がモニター見ながらフォローするけれど、こんな風に舞台の両側に潜り込ませて、指揮者が見える人と見えない人とが混在している状況じゃあ、一体合わなかった時に誰が責任取るんだ?見てごらん、後ろの人達は、指揮者が見えないから後ろ側向いてモニターを見ている。それが最前列の端っこに座っている聴衆から見えるんだよ。ビジュアルとしても成立しないだろうが・・・」
と言ったが、彼は聴く耳を持たない。そこで僕は、
「じゃあ、一度やってみよう」
と言って、試しにそれで演奏させてみた。ここは音楽的にもとても合いにくい個所。
案の定、合唱団がズレズレ。ところがアレックスの所に言ったら、
「きれいに合っているじゃないか」
としゃあしゃあと言う。
「おおい、ふざけんじゃないよ。こういうのをバラバラって言うんだ!」

 僕は、これらの会話をずっと拙いイタリア語で主張していたが、ドイツ語と違って、まだ喧嘩するほど上手じゃないんだ。にっちもさっちもいかなくなって、通訳の人にお願いしようとした。すると通訳のお姉さんは、
「あ、こんな時は、彼は何を言っても意固地になって聞き入れないので無駄です・・・」
と言いながら逃げていってしまった。おおい、待って!

 僕とアレックスは、しばし舞台稽古を中断して言い合いを続ける。僕もここだけは譲るわけにはいかない。売り言葉に買い言葉の応酬を続ける内に、彼はどんどん言っていることが支離滅裂になってくる。
「お前のコーラスは、演技も下手でプロフェッショナルではない!」
と勢い余って言うから、頭にきて、
「僕のコーラスは、歌もうまいし、演技も、スカラ座よりもどこよりも上手なんだ。それにプロフェッショナルだ!適当なこと言うな!」
と言ったら、
「ああ、そうだな、確かに歌もうまいし、演技も上手だし、プロフェッショナルだった・・・」
といきなり言うから、僕は拍子抜けしてガクッときた。なんだか可笑しくなってしまった。案外いい奴だなコイツ。それに彼もスペイン人だから、イタリア語の語学力も僕とあんまり変わらないことに気が付いてきた。

 そしたらマエストロの大野和士さんがこう言う。
「あのさあ、三澤さん。オケ付き舞台稽古の時に、何度も何度も合わせて、だんだん慣れていくことにしようか」
あ、ズルい!と、思ったけれど。その時、大野さんは別のことを考えていたんだ。さすが彼も百戦錬磨。それは後日分かることとなる。
 アレックスはアレックスで、自分の上げた手を降ろすタイミングを考えていたのかも知れない。その瞬間、あっけなく納得して、何事もなかったかのように、稽古再開。

オケ付き舞台稽古にて
 オーケストラ付き舞台稽古でイニシアティブを取るのは指揮者と決まっている。これはつまり、舞台上の本セットの上で動きを伴いながら、音楽上の問題を全て指揮者主導で解決する稽古なのである。
 演出家は、指揮者が止めたときなどにソリストなどにちょこちょこっとサジェスチョンを出したりは出来るが、演出家が指揮者を差し置いて場を仕切ったりすることは許されていないし、ましてや演技上の都合で勝手に止めたりは出来ないことになっている。

 さて、問題の個所に来た。一度合わせてから大野さんは止める。
「だめだこれじゃあ!みんな、両側からもっと舞台正面に向かって前に出て来て!僕が直接見えるところまでどんどん出てきてね。ここはカラフに対して、『お前のお陰でオレ達は誰も寝るなと言われているんだ。ここから出て行け!』と叫ぶ場面なのだから、全員がカラフに向かって歌っているところをお客に見せなければ意味ないんだ!」
と叫んで勝手に位置決めをしてしまった。やったあ!大野さん、ありがとう!
 アレックスは、その後、怒り狂って舞台に走り込んできたが、みんな冷たく、
「はあ、何言ってんの?」
という感じで、もう誰も言うことを聞かない。合唱団員だってね、どういう心情で歌うのかという必然性が演技的にも感じられなければ歌えないんだ。そのためにも舞台に出てナンボなんだよ。演出家といえども集団には勝てない。

 ところが、アレックスも馬鹿じゃない。その後の通し稽古を見て、結果に満足したんだな。ゲネプロの日、彼は僕に会うなり、なんと僕をハグして、
「あなたの率いている合唱団は本当に素晴らしい。途中、いろいろあったけれど、どうか許して欲しい。でも、こうしていろいろ試行錯誤しながら、あなたと一緒に作り上げた舞台に私はとても満足している。ありがとう!」
と言うではないか。僕もなんだかウルウルしてしまった。

バルセローナ交響楽団との一期一会
 大野さんの率いるバルセローナ交響楽団は、ネットでいろいろ言われているみたいだけれど、僕はこのオケとのコラボをとっても楽しんでいる。確かに、最初聞いたときには、日本のオケのようにピタッと合っているわけでもないし、歌手が、次のアインザッツで入るために頼りにしているモチーフを吹いている管楽器奏者が、平気でオチたり、幕切れで照明がオケピットまでカットアウトしたら、奏者達が譜面台に置いているiPadの明かりが残って家族写真が闇に浮かび上がったり、打楽器奏者は、オケピット内に珈琲を持ち込んで飲みながら叩いているし、練習開始はいつもピッタシ3分遅れにチューニングが始まったりと、いろんな意味でラテンなので、慣れるのに時間がかかった。
 でも、このオケの潜在的クォリティはとても高い。来日してから大野さんは、本当に丁寧な練習を根気よく続けた。そのお陰で、このオケの「伸びしろ」の大きさに気が付いた。ある時、ピタッと合ったときの弦楽器の響きがあまりにきれいでハッとした。それに時々、日本のオケでは絶対に出ないようなパワフルなサウンドが鳴り響く。このオケは指導次第でどこまでも伸びていける。

 その意味では、僕はこのオケと歌手達との関係の中に、一期一会の出遭いと楽しみを、本番が始まってからですら、日々見つけることが出来る。これがもし日本のオーケストラであったら、練習の最初の日から仕上がりのレベルが見えていて安心であろうが、こんな風にはワクワクしないなあ。
 日本人って、とっても優秀なんだけど、すべて予定調和なんだよね。それを破っていくことが、今後の日本の本当の発展の鍵を握っていると、気付かされる「今日この頃」です。

  


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© HIROFUMI MISAWA