髙田三郎と宮澤賢治

三澤洋史

写真 三澤洋史のプロフィール写真

「ミサと音楽」講座について
 7月25日木曜日は、真生会館で「音楽と祈り」講座。これは真生会館から依頼を受けた当初、5月、6月、7月と3回シリーズで頼まれた講座の最終回となる。その後、講座の依頼が秋まで延び、さらに来年まで続けてくださいと頼まれたが、僕とすると、自分の人生における初めての宗教的な内容の講演なので、3回をひとまとまりにした「音楽と祈り」講座のコンセプトは変えずにいこうと思った。なので、5月の「音楽と聖霊」、6月の「祈りと音楽」に引き続き、「ミサと音楽」というタイトルで、ひとまず終結する。

 まず第1回目の「音楽と聖霊」では、宗教的な観点から見た音楽の本質を見つめた。一般的にはインスピレーションと言われている霊的な息吹を、キリスト教的に聖霊とつなげようとした。インスピレーション(聖霊)は、作曲のみならず、演奏行為の瞬間においても、また聴衆として鑑賞の最中においても、関わっている当人の心の奥で、きめ細かく関与していると述べた。
 その「音楽と聖霊」への理解を踏まえて、第2回目の「祈りと音楽」では、音楽が本来とても結びつき易い「祈り」との“内的なつながり”を考察した。
「祈りは、それ自体で完結している行為なのに、そこに音楽の介入は必要なのか否か?」
という問いを発することは、音楽と祈りへの双方の理解のために一度は向かい合わなければならない命題であると述べた。そしてそこにまた、聖霊が関与していることを話した。
 さて、第3回目では、カトリック教会における礼拝の究極的な姿である「ミサ」における音楽の霊的な役割を語る「ミサと音楽」である。ミサというものは、それぞれの信徒が個人の信仰を携えて参加するものであるが、聖堂内で、ひとりひとりの信徒は「会衆」という集団となり、そこで互いに「聖霊の交わり」を行う。
 実際「聖霊の交わり」という言葉は、ミサの間に司祭によって何度も語られる。このように、「聖霊」というものの存在は、全ての講座において通奏低音のように語られ、音楽への真の理解への鍵を握っている。

 25日の講座においては、前半ではすぐに音楽の話には行かずに、まず「ミサ」というものについて語る。たとえば、ミサという命名は、ミサの最後で司祭が派遣の祝福を行い、Ite, missa est「行きなさい、勤めは終わりました(あるいは解散です)」と言って、会衆を追い出したことに由来する。
 また、ミサは、カトリック教会においては、ただの礼拝とは一線を画す秘蹟Sacramentoであることに触れる。ミサというものは、2000年の時空を超えて「キリスト」自身と、「キリストと過ごした最後の晩餐」に直接つながろうとするイニシエーションである。
 そこでは、通常の礼拝とは明らかに一線を画すある“奇蹟”が毎回起こっている。それは何か?そして、それが理解できないと、Sanctusという「感謝の賛歌」の意味を理解することは絶対に出来ないことを告げる。

 後半は、いよいよミサと音楽との具体的な関係に触れていく。「祈りと音楽」講座で語った内容にさらに深く踏み込んでいく。同時に、第二バチカン公会議以後の、我が国の日本語ミサとその音楽について、さらにはその演奏法などについて具体的に語り、参加者にも典礼聖歌を歌ってもらって、正しい歌唱法は勿論のこと、
「その中に一体どのようにして『祈り』を込めていくのか?」
という点に至るまで実践的に検証してみたいと思う。

 この3回の講座の内容は、僕が「自分の人生において、音楽家として、そして同時に信仰者として、これまでどのように音楽に向かい合ってきたか」という軌跡そのものである。なので、この3回シリーズが終わった後、あらためて一度文章にまとめてみたいと思っている。少なくともこのCafe MDRの予稿集に発表すると思うし、機会があればどこかで出版していただくことも考えている。
 実は、この夏、スキーの本を執筆しようかなと考えていて、そのために来週、安曇野にある絵本美術館「森のおうち」に籠もろうとも思っていたが、多分こちらの文章の執筆の方が先になるでしょう。それに、ここのところずっととても忙しいので、すでに自分の中では、
「あと一週間で、いよいよつかの間のバカンスだ!」
という気持ちになっている。カンヅメになって執筆、という状態よりは、どちらかというと、毎日孫の杏樹と一緒に流れるプールやトレッキングに行って、という風になるような気もする。それで、気が向いたら3回の講座をまとめようかな・・・。

髙田三郎と宮澤賢治
 今回、典礼聖歌の発展について調べている過程で、作曲家髙田三郎氏の人となりや生き方にあらためて強く惹かれた。ちなみにこの人ね、みんな「たかだ」と読んでいるけど、本当は「たかた」で、字も高ではなく髙と書くのだ。
 我が国の合唱界で髙田三郎の名前を知らない人はいない。「水のいのち」「心の四季」と聞いただけで、あの澄み切った響きと、言葉と音楽が分かち難く結びついて、苦労しなくてもスーッと心に入ってくる曲想が蘇ってくる人は少なくないであろう。
 その髙田氏が、カトリック教会における第二バチカン公会議の典礼改革を受けて、日本語による新しい典礼のための聖歌の編纂の中心人物であったことは、どれくらいの人が知っているのであろうか?髙田氏自身においては、むしろそちらの方に、ある時期から死ぬまで軸足を全面的に移して、ほぼ全エネルギーを注いだと言ってしまって差し支えないのである。

 そんな髙田氏であるから、僕はてっきり家族も昔からカトリック信者で、幼児洗礼に違いないと勝手に思っていたのであるが、資料を調べている内に、彼が洗礼を受けたのがなんと39歳であるという遅さにとても驚いた。
 僕は20歳で受洗したが、それでも遅いと思っていたのに、さらに20年も後の受洗か・・・と感慨深いものを感じた。とはいえ、彼は、幼少からプロテスタント教会に通っていて、宗教的雰囲気に馴染んでいたということではある。
 僕や髙田氏のような大人になってから洗礼を受けた人間は、たとえば作家の遠藤周作氏のように、親が着せてくれた着物が嫌で嫌でたまらなかったというような、幼児洗礼特有の悩みは皆無である。むしろ自分が好き好んでそちらの方に向かわなければ、洗礼を受ける必然性なんて何もないのであるから、その点では気が楽ではある。
 ところが、僕がそうだったように、本人は、気が楽どころではないんだよね。洗礼なんて受けちゃったら大変だからね。ある意味、生き方を180度変えなければいけない。恐らく彼も、疑って疑って本当に納得するまで躊躇に躊躇を重ねた末での受洗であったのではないか。そしてその後は、全責任を自分で引き受けなければならないのは必至なのだ。

 髙田氏を受洗に向かわせたものは何かというと、1950年に初めてグレゴリオ聖歌に接してから、“祈りのこころ”について深く考えるようになり、その3年後の受洗のきっかけを作ったという風に書物には記されている。

写真 書籍 高田三郎「祈りの音楽」の表紙
髙田三郎「祈りの音楽」

 そして、読み進める内に、その時期に最も影響を与えたという人物が浮かび上がってきた。それは、なんと宮澤賢治なのである。それを知って僕はびっくりした。そして思った。
「まーた、宮澤賢治かよ・・・」
 何故なら、僕の周りには、宮澤賢治にまつわる共時性がしょっちゅう起こっていて、実は来週の「森のおうち」でも、絵本美術館の館長であり宮澤賢治の研究家でもある酒井倫子さんと親友のスキーヤーである角皆優人君とで「銀河鉄道の夜」をテーマにした対談をすることになっているのである。

 そもそも絵本美術館を初めて尋ねるきっかけになったのも、昨年夏の新町歌劇団による公演「ノアの方舟」に角皆君が来て、
「三澤君、これはまさに宮澤賢治の思想そのものだ!今、宮澤賢治の対談をしているのだけれど、8月末の対談に加わってよ!ついては、事前に宮澤賢治のいくつかの物語を読んでおいて欲しいんだ!」
と強引に僕を誘ったことに始まる。
 僕自身はさあ、実はそれまでそんなに宮澤賢治に傾倒していたわけではないのだけれど、そう言われて物語を読んだり賢治の生き方を調べたりしている内に、
「なあるほど、自分の考えていることと、とっても重なるなあ」
と気づき始めたわけだ。
それからである。僕の周りに、まるで神様に、
「お前はもっと賢治と出遭わなければならない!」
と言われているような出来事がいろいろ起こるんだ。たとえば次のように・・・。

 髙田氏は、1953年に洗礼を受けてすぐの1956年から、宮澤賢治の詩集「春と修羅」に収められているいくつかの詩を取り上げて、カンタータ「無声慟哭」を書き始めた。これは、ソプラノとバリトンの独唱、合唱、そしてナレーションがつくオーケストラの大規模な楽曲である。
 収められている賢治の詩は、「永訣の朝」、「松の針」、「無声慟哭」、「風林」、「白い鳥」の5つで、初演が「水のいのち」と同じ1964年なので、完成までになんと8年の歳月を要していることとなる。
 ちなみに、あんまり関係ないのだけれど、僕は1955年に生まれて、1964年というと東京オリンピックの年だけれど、僕がヨチヨチと歩き始めた時期から、聖火ランナーの通り過ぎる中仙道に立ち、夢中で日の丸の旗を振った小学校4年生の時期まで、ずっと「無声慟哭」を作っていたことになる。

 僕はこのカンタータのことを本で読んだ時、すぐに、
「うわっ、聴いてみたいな!せめてスコアを見てみたいな!」
と思ってネットで調べてみたら、CDが出ているようで、さらに見たら、2002年、東京文化会館で飯森範規及び東京交響楽団でのライブ録音で、バリトン独唱に、なんと大森いちえいさんが出演しているではないか。

 そこで僕は早速大森さんにLINEを送る。
「あのさ、『無声慟哭』に出ているよね。なんか譜面とか音資料とかないですか?あったら、ちょっと貸してくれない?」
 すると、大森さんは、僕と家が近いこともあるんだけど、その日のうちにバイクに乗って、僕の留守宅にフル・スコアを届けてくれた。次女の杏奈が庭先で電子煙草を吸っていたらいきなり現れたという。
「あれ、大森さん?」
「バイク便でマエストロのところにお届けにあがりました」
妻は何のことやら分からなかったが、帰宅後、僕はそれを妻から受け取ると、むさぼるように読んだ。同時に、宮澤賢治の詩集「春と修羅」の中の、その近辺の詩を読んでみた。

 このカンタータは、賢治が最愛の妹のトシの死を悼んで書いた詩ばかりを選んでいる。髙田氏は自身の著書「くいなは飛ばずに」(1998年:音楽之友社)で次のように語っている。
そしてやがて、
「自分はこの曲を書きながら死んで行くのではないだろうか」という思いがしてきた。
同時に、
「この曲を書きながら、途中で死んでも悔いはない」
と思うのであった。
「妹とし子の死そのものを前にして、詩人がみずからの心をひきずってのたうちまわり、私もその中に飛び込んで四つに組み、全力をあげているのだから」
という思いであった。
(中略)
あの曲の制作以後、私は
「これを書きながらなら死んでもよい」
という作品しか書く気がしなくなってしまった。
そして、そういう作品だけを書き続けてきたつもりである。
 詩集「春と修羅」は難解な詩ばかり並んでいるが、その中にあって、特に「永訣の朝」と「無声慟哭」は、何の先入観もない人でも読んで胸をふるわせると思う。亡くなりつつある妹とのやり取りの記述には、賢治の想いが直截に表現されていて、読んでいるこちら側も平静ではいられなくなる。
 互いに法華経への信仰で結ばれていた妹との強い絆が、強引に引き裂かれる悲劇。そしてそれを人間が人間であることの普遍的な悲劇として目の前に見せてくれた筆舌の見事さ。
 高村光太郎は、これらの詩を絶賛したというが、よく「永訣の朝」と並び称される「レモン哀歌」などは、僕には作為的に感じられてならない。最愛の身内の死に直面した詩人が、悲しみの中からなんとかして表現したいという動機は同じでも、レモンというものを題材にし、それを死の清潔さを表現するアイテムとして使ったというところに、僕は「表現者としてのいやらしさ」のようなものを感じる。
 勿論、個人の、あまりにも個人的な感情というものは、万人がそれに触れて自分の体験に還元できるレベルにまで“昇華”されないと芸術作品にはなり得ない。
「俺の彼女、可愛いんだぜ」
と言ってみても、
「ふうん・・・」
で終わってしまうが、どんなに上手に詩を仕上げても、そこに少しでも作為的なものが感じられると、それは「芸術の持つ嘘」になってしまい、しらけてしまう。
 ところが「永訣の朝」や「無声慟哭」には、驚くほどそれがないのだ。このへんが宮澤賢治の天才的なところなのだろう。

髙田三郎の本当の挑戦
 さて、当然25日の「ミサと音楽」講座では、こんなところには触れない。髙田三郎と宮澤賢治との内的つながりについて、うっかり話し出したら、いくら時間があっても足りない。ただ、髙田三郎の宮澤賢治への想いは、恐らくカトリックの受洗後も持続して、髙田氏はずっと宮澤賢治のように生きたいと思っていたようである。

 それよりも僕は、髙田三郎氏がどれだけ大きな情熱を持って、典礼聖歌の編纂に関わっていったか、受講者には是非理解して頂きたい。
典礼聖歌の中には、
「何でこんな簡単な曲を書いたんだ?」
というのがあるのだけれど、それは髙田氏の、祈りの音楽のための「自己の功名心の滅却」という最大の戦いの姿なのである。
 たとえば、典礼聖歌203番の「あわれみの賛歌」では、移動ドで言うとレミソの3つの音しか使われていない。ここの境地に辿り着くまでに、髙田氏がどれだけ苦労したか、そして、どれだけ自我を殺そうとして葛藤したか、これを理解しないで偉そうに典礼聖歌を語ってはいけない。
 
 その先を聞きたい人は、どうか7月25日木曜日10時半に信濃町の新宿寄りの改札から歩いて30秒の真生会館に足を運んでください。

 それと、まことに勝手ながら。来週の「今日この頃」ですが、安曇野でのバカンスのため、一週間お休みさせてください。




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