怒濤の8月が終わり、ただいま頭ボケボケ

三澤洋史

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僕の怒濤の8月が終わり、ただいま頭ボケボケ
 ガトーフェスタ・ハラダ本社ホワイエでのコンサートが無事終了した。これで3週間続いた僕の怒濤の8月が、ひとまず落ち着いた。その中では、肉体的には愛知祝祭管弦楽団の「神々の黄昏」公演がダントツで大変であった。また、観客がどのように受容してくれるかという杞憂の点では、コンガを中心としたラテン音楽で彩られたMissa pro Paceの世界初演が、最も気がかりであった。
 ハラダのコンサートは、そのどちらの意味でも、失敗の可能性が低いコンサートではあったが、僕は、自分のコンサートに来たお客様が、わずかなりとも失望して帰っていくのを見るのは耐えられない。むしろ、コンサートで、日常では決して得られない様々なものを得て、様々なことを感じ、心が豊かになって欲しいのだ。自分たちがうまくやりましたよ・・・ということには何の価値も感じないのだ。
 だから、この昼夜の二回公演をスピーチをしながらやり終わった時は、Missa pro Paceとも「神々の黄昏」とも異質の、達成感と疲労感とが襲ってきた。レストラン・リンデンバウムでの打ち上げで、おいしい生ビールを飲み、ソーセージなどを頬張りながらの語らいは楽しかったけれど、その日の内にどうしても国立の自宅に帰りたかったので、22時20分の高崎方面の電車に乗るため、まだ宴もたけなわの人達と別れてタクシーに乗り込んだ。

 高崎から新幹線に乗る。ビール2杯と白ワイン1杯が体に入っている。酔っ払っているが泥酔しているわけでもない。眠るわけでもなく、かといって何かするわけでもなく、ただぼんやりしていた。
「間もなく、おおみやー、おおみやーーー」
と聞こえてきた。
「ふうん、大宮なんだね・・・・」
新幹線はスピードを緩め、やがてホームに滑り込んできた。僕ははっと気が付いた。
「ん?大宮?・・・おっとっとっと・・・大宮だ。降りなくっちゃ!」
という感じで、頭がボケボケである。

 大宮で埼京線に乗り換えた。またまた思考停止が始まった。気が付くと、人がいっぱい降りていく。
「ふうん・・・どこだ?ああ・・・武蔵浦和なんだね、みんな降りていって当然だよね・・・」
 次の駅に着いた。北戸田だという。ん?きたとだ?あれ?あんまり馴染みがないなあ。ええと・・・記憶を辿った。いっけねえ!乗り過ごした!さっきの武蔵浦和で武蔵野線に乗り換えなければいけなかったんじゃないか。なんで武蔵浦和駅の表示を見ながら気が付かなかったんだ?
 それで北戸田駅のホームに降りて反対側の大宮方面ホームの上にある次の電車の時刻を見たら、10分以上もある。それで、戸が閉まる直前に今の電車に急いで飛び乗ってから、iPhoneの「駅スパート」で調べた。これから埼京線を戻っても、武蔵野線経由では電車はない。新宿経由で中央線で国立に行かないと家に帰れないことが判明した。当初の予定では0時15分に国立駅に着くはずだったのに、0時46分着だって。あーあ・・・バッカみたい。

 こんなに頭がボケボケなことは珍しい。恐らく今日だけではなく、夏前からの緊張が今日の本番で一気に解けたせいに違いない。やっぱり、ずっと緊張していたんだなあ。

ハラダ・コンサート無事終了
 ハラダのコンサート当日の午前中、ゲネプロをやっていたら、大森いちえいさんが来た。彼がこのコンサートを見に来てくれることは知っていた。
「おはよう、またバイクで駆けつけてくれたんだね」
と挨拶したが、少ししたら、なんと新町歌劇団に混じって舞台に来たではないか。
「はあ?大森さん何してんの?まさか歌うんじゃあ?」
「迷惑ですか?」
「いや・・・えー?マジ?」
実は、僕には知らせていなかったのだが、到着するやいなや、事務局の佐藤さんは大森さんに、
「はい!」
と、当然のごとく楽譜一式を渡したので、大森さんも素直にそれを受け取り、その瞬間、
「あ、出ようかな」
と思ったという。
 とりあえず、ゲネプロを初見で歌ってみて、出来そうかどうか決め、さらに僕の許可が出たら飛び入り出演しようと思ったという。
「いいよ、大森さん。とりあえず歌ってみて、出来そうなら出て!」
 実は、途中、バスの音程が難しくて、団員も四苦八苦している個所がいくつかあったのだ。それが、大森さんが入ったら見事に良くなったので、むしろ僕とすると、大森さんが、突然天から振ってきた神のように思えたのである。
 この新町歌劇団には、ソプラノの内田もと海さんも団員に混じって参加していて、根来の子守唄では、途中のナレーションもやっている。
こんな風に、僕が鷹揚なので、こうした人材がわざわざ東京から来てくれて、ノーギャラで歌ってくれるのである。とってもありがたい話ではある。

 この演奏会で新町歌劇団が演奏する合唱部分は、もともと新国立劇場合唱団が文化庁主催のスクール・コンサートをした時に、各地方のご当地ソングを子どもたちの前で披露するために僕が編曲したものを使っている。
 一方、独唱の部分は、大正時代から昭和にかけて、一世を風靡した歌曲や歌謡曲などを中心に並べてみた。それらの曲目を演奏しながら、そこに表現された様々な「日本の美」を追求しようという企画である。

 そうした今回のプログラムと、僕が自分のスピーチのために調べた資料を簡単に列挙してみる。その中には結局スピーチでは触れなかった文章もある。

ゆかいな仲間達の「おかしなコンサート・パート3」
テーマ:新しい日本の美を求めて
第1部
涙そうそう 合唱 沖縄
森山良子作詞 BEGIN作曲
森山良子が、若くして亡くなった兄を思って作った。
1998年、森山良子のアルバム「TIME IS LONELY」に収録
2000年、BEGINによるシングル
2001年、森山良子のシングル「さとうきび畑」とのカップリング
夏川りみや、BEGINの比嘉栄昇(ひが えいしょう)によるカバー
こんぴら舟ふね 合唱 香川県
香川県金刀比羅宮(ことひらぐう)を題材とする。
舞妓、芸妓と行う「お座敷遊び」「お茶屋遊び」の曲として知られている。
この道 田中誠
北原白秋作詞 山田耕筰作曲
白秋が晩年に旅した北海道(1番2番)と、母の実家である熊本県の柳川あたりの風景が織り込まれている。「あかしやの花」や「時計台」は札幌。
山田耕筰は日本の心とか言われるけれど、「お母様と馬車で行ったよ」のようにハイカラな雰囲気を持っている。曲想も西洋の歌曲のよう。
宵待草 田中誠
竹久夢二作詞 多忠亮(おおのただすけ)作曲
待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬそうな
大正ロマンの象徴的存在である竹久夢二の、実ることのなかったひと夏の恋に、多忠亮が曲を付け、1917年に発表されて一世を風靡した。
砂山 猿谷友規
北原白秋作詞 中山晋平作曲 
1922年、白秋が新潟で2000人もの小学生達が集まる童謡音楽会に招かれたときに、小学生から新潟にちなんだ歌の注文を受けて作った。後に山田耕筰も、この詩で作曲をしている。
見上げてごらん夜の星を 田中・猿谷
永六輔作詞 いずみたく作曲 1963年坂本九の歌で大ヒット
元々は、この二人が制作、公演した、同名のミュージカルの主題歌。第5回日本レコード大賞・作曲賞。
守さ子守さ 合唱 愛知県
三河地方に伝わる子守唄。子守を任せられるが、なかなか赤子が寝ないのを嘆くというユニークな子守唄。
桑名の殿様  合唱 三重県
お座敷歌。桑名の殿様とは藩主ではなく、明治から大正にかけて米相場で儲けた桑名の成金のことを指すという。
「その手は桑名の焼きハマグリ」
というように、桑名は蛤が有名。それが「しぐれで茶々付け」という歌詞に反映されている。

休憩

HINATA 合唱 宮崎県
日本のひなた宮崎県をアピールするために、宮崎県では「ひなたロゴマーク」を作り、みやざき犬が踊るHINATAという曲をPRソングとして制作した。
根来の子守唄 合唱 和歌山県
根来寺は、和歌山県岩出市にある。この子守唄は、この根来寺を中心に、紀ノ川一帯と、南は有田地方にまで広がっている。編曲では、曲の途中でナレーションを入れた。
ナレーション:内田もと海
女ひとり 田中誠
永六輔作詞 いずみたく作曲
1965年に制作され、デュークエイセスの歌でヒットした京都のご当地ソング。三千院、高山寺、大覚寺が登場し、それぞれのお寺で「恋に疲れた女」が同時多発的に出現する。さらに、紹介するお寺が清水寺や金閣銀閣ではなく、シブイのが特徴。
知床旅情 猿谷友規
森繁久弥作詞作曲 1960年に作られ、1965年の第13回NHK紅白歌合戦で森繁久弥自身で歌われた。
その後1970年に加藤登紀子の歌で大ヒット。71年に第22回NHK紅白歌合戦で歌われ、さらに第13回日本レコード大賞・歌唱賞受賞。
北海道北東部の知床半島は2005年に世界遺産に登録。
蘇州夜曲 田中誠
西条八十作詞 服部良一作曲
李香蘭(山口淑子)主演の映画「支那の夜」1940年の劇中歌として発表されたが、その年の8月、渡辺はま子、霧島昇でコロムビアからレコードが発売。異国情緒豊かでジャズっぽい雰囲気もある。後に雪村いずみや美空ひばりなどいろいろな歌手がカバー。最近では平原綾香が味のある歌を歌っている。
達者でな 田中・猿谷
横井弘作詞 中野忠晴作曲
三橋美智也の歌で大ヒットした曲。1960年発表。同年の第11回NHK紅白歌合戦で三橋はこの曲を歌っている。手塩にかけて育てた馬を町に売りに出す歌。かつて集団就職の時代に、若者を町に出す親の心情とダブったので、大ヒットしたとも言われている。あの頃では珍しい多重録音しているため、ひとりで歌うのが難しい。
箱根馬子唄 合唱 神奈川県~静岡県
馬子唄とは、馬追が、馬を引きながら歌う唄。本来はっきりとしたテンポやリズムを持たない。今回はゴスペル調にアレンジ。
いい日旅立ち 合唱 田中・猿谷
谷村新司作詞作曲 1978年。山口百恵の歌で大ヒット。当時の国鉄は、この曲のタイトルを、旅行誘致キャンペーンのためのキャッチコピーとした。

 なんといっても、テノールの田中誠さんの歌が圧巻!彼は、言葉がとても明瞭で、聞き取れない歌詞は一語もなく、それどころか、どんな歌を歌っても情感たっぷりで、心に染み入ってくる。こうした「歌がうまい」というのは、天性のものだね。
 そして、そうしたひとりの人が歌う歌の感動は、どんな大管弦楽でも及ばないほど強いものがある。僕も指揮者として、こうした“うたごころ”の力を失わないよう心して生きていきたい。
 バリトンの猿谷友規さんは、現在新町歌劇団の指導者でもあるが、田中さんの弟子なのだ。彼は豊かでよく響くバリトンの声を持っているが、田中さんの元でフレージングをきちんと習っている。良い先生についてよかったね。

この一週間
 愛知祝祭管弦楽団の興奮冷めやらぬ8月19日月曜日午後から、まるで何事もなかったかのように、チャイコフスキー作曲「エウゲニ・オネーギン」と、ドニゼッティ作曲「ドン・パスクワーレ」の練習が始まった。その昼夜の練習が20日火曜日、21日水曜日と続いた。

 その間、僕の中では、ある欲求不満がたまっていた。それは、プールに行くことが出来ないこと。僕にとって水泳とは、トレーニングであると同時に水によるヒーリングでもある。僕は水を求めていた。
 「神々の黄昏」という巨大な管弦楽による長大な楽劇を指揮するためには、フィジカルな要素も勿論だけれど、極度に精神的な緊張を強いられる。また、演奏会直後は、その緊張が慢心に変わり、「自分は世界一や!」という気持ちに支配される。それはそれでいい。逆に言えば、そのくらいでないとみんなを鼓舞できないから。
 その慢心は次の日まで続く。しかし、翌々日になると決まって、それとは正反対に、
「何もかも終わってしまった。まるで、何も起きなかったよう。全てがうたかたのように消えてしまった。今では、ただの陽だまりのじいじに過ぎないんだ」
という、精神の虚無へ失墜する。その変化があまりに著しいので、頭がおかしくなるほどだ。

 やっとプールに行くことが出来たのは22日木曜日。後で書くが、その日は午後から新国立劇場で、月刊誌「音楽の友」の取材があった。その後、初台から幡ヶ谷まで一駅分歩いて、渋谷区スポーツセンターに行った。
 指揮をした腕の筋肉の疲れはほとんど取れていたのだが、全身の“精神的筋肉”はまだ固まったままだった。それでいて、先ほど述べた虚無感が覆い被さっていたのだから始末に負えない。
 そんな自分を、水はやさしく包み込み、受けとめ、内部から柔らかく癒やしてくれた。泳ぎながら、慢心からも虚無感からも離れて、ナチュラルでフツーの自分に軟着陸するのを感じる。それが水の愛。

 23日金曜日は一日オフ。こんなことは久し振りだ。スケジュール的には、これまでにも(お盆の数日のように)仕事が何も入っていないオフ日が何日かあった。しかし「神々の黄昏」を抱えていましたもんね。いつも頭に引っ掛かっていて、気が付くとスコアを開いている超貧乏性。
 その意味では、僕の場合、精神的なことも含めて完全なオフ日というのは年間の内、数日もない。明日から群馬に行って、ガトーフェスタ・ハラダのコンサートの準備にかかるのだけれど、そのスピーチの内容は、昨日までにいちおうまとめておいたからね。
 当然、今日もプールに行くぞう!とワクワクしていたが、天気が超不安定。午前中、降ったり止んだりを繰り返していたが、お昼ご飯を食べている内に止んだので、自転車で柴崎体育館を目指した。
 実は、僕のマウンテンバイクは、昨日修理から帰って来たばかり。ブレーキのワイヤーが錆び付いていて、かかりが悪くなっていたのが修理の主な理由だが、タイヤもすり減っていたので、この際、前後のタイヤを交換した。そのタイヤはね、オフロード用のデコボコなタイプ。
 いやいや、普通は道路を走っているし、別に野山を駆け巡るのがメインというわけではないので、そんなもの別に要らないのだけれど、欲しかったのだ。
スキーだって、コブを好んで滑る僕でしょう。僕は基本、シティ・ボーイではなくて(ボーイ???)、オフロード好みのアウトサイダーなのさ!あははははは!これで、どんな荒れ地もサクサクだい!

 そのタイヤで、家の近くの坂道で、わざとショート・ターンを繰り返しながら降りていく。道路は濡れているのに・・・・調子づいて・・・・だって、このタイヤさえあればノー・プロブレム!S字で坂を降りていく僕は、傍から見たら完全に変なおじさん!
 ところが調子に乗りすぎた。柴崎体育館の駐輪場前に来た時、軽く後輪ブレーキをかけながらカーブして駐輪場に入ろうとしたら、面白いようにスリップして、対処する間もなく、あっけなく転倒。
 ここのタイルは滑るようになっていて、実は以前もここで雨の日に一度転倒しかけている。それを知っていたので、本当はもっと用心深く曲がるべきだったのだが、オフロード用のタイヤを信用しすぎて油断していた。ちっくしょうめ、何が荒れ地もサクサクだ!ちっとも役に立たないじゃないか!
 痛ってえ!そんな時、何が恥ずかしいかって、通りすがりに人に見られること。ちょうどその時、二人ほど驚いてやや立ち止まったが、すぐに歩いて立ち去った。でも、すぐには立てない。落ち着いて痛いところに目をやると、左腕の肘をすりむいていて血が出ている。ズボンをめくったら、やはり左の膝を打っていて、ここもすりむけている。ま、傷も打撲もたいしたことはないので、それでもまだプールに入っちゃえ、と思ったが、いやいや、血が出ているんじゃ、監視員のお兄さんに怒られるでしょう。

 というわけで、せっかく柴崎体育館まで来たのに、目の前で出血のため退散・・・トホホ・・・このまま家に帰るのもミジメだなあ・・・そこで立川駅の方へ行くことにした。そういえば、駅の北側にディスク・ユニオンがあったな、行ってみよう。これからラフマニノフのピアノ協奏曲をやるから、何か良いCDでもないかな?
 ところが、クラシック音楽はろくなものがなかった。その代わり、二枚ばかり気に入ったものがあったので買ってきた。1枚は、昔から大好きなナベサダことジャズのアルトサックス奏者渡辺貞夫のWheel of Lifeというアルバム。もう一枚はElis & Tomというタイトルで、アントニオ・カルロスー=ジョビンとエリス・レジーナが競演したブラジル音楽(ボサノバ)のCD。

 その中でも特にナベサダのCDを紹介しよう。このアルバムのWheel of Lifeというタイトルは、彼がエリザベス・キューブラ・ロスの同名の著書を読んで感動したため採用したという。日本では「人生は廻る輪のように」(上野圭一訳)として角川書店及び角川文庫から出版されている。
 音楽的な特徴として挙げられるのは、このアルバムがベース奏者でもありボーカリストでもあるカメルーン出身の若き天才リチャード・ボナとの共演だということだ。リチャード・ボナについては、その圧倒的な歌唱に心を奪われたので、以前この「今日この頃」でも紹介したことがある。(2018年7月23日の記事)。
 ただ、ここではボーカリストとしてよりも、むしろベーシストとしてナベサダのアルト・サックスを支えている。これがまた素晴らしい!エレキ・ベースの音に、こんなに愛を感じるなんて、普通はあり得ない。そして、何よりもそのやさしさや暖かさが、ナベサダの音楽ととっても溶け合っている。

 60年代の頃、我が国のジャズメン達は、みんな突っ張って粋がっていた。ジャズは、明るかったりハッピーだったりすることを許されなかった。黒人の人種差別などからくるペーソスを内に潜み、ファンキーでなければならなかった。
 funkyの本当の意味を知っているだろうか?funkという英語には「臭い」という意味がある。つまり「土臭い」「洗練されていなくて土着の」という意味だ。ヒノテルこと日野皓正は、当時真っ黒なサングラスをはずさなかった。チャーリー・パーカーの影響をもろに受けていたナベサダは、指の廻る限りのバカテクを披露していた。
 ところがある時から、彼らは、まるで分厚いフロックコートを脱ぎ捨てるように、funkyであることを捨てた。ヒノテルは洗練されたシティー・ボーイとなり、ナベサダは逆に、アフリカのサバンナに精神的拠り所を置き、同時にボサノバなどのリラックスした曲想の音楽を作り出すようになった。
 僕は、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズのようなfunkyなジャズも好んで聴くんだよ。でも、現代のナベサダの作る音楽こそ、僕が最も求める音楽かも知れない。暖かくて、やさしくて、ある意味、自分が紡ぎ出そうとする音楽の理想的姿をそこに見る気がする。それにリチャード・ボナの感性が混じり合ったら、もうハッピーそのもの。ジャズがこうでなければならない、なんて一体誰が決めたの?こんなしあわせなジャズがあったらいけないの?
 そういえばさあ、ナベサダのアドリブを聴いていて気が付いたんだけれど、僕のMissa pro Paceで、アルト・サックスのために書いたアドリブ・フレーズって、とってもナベサダのアドリブに似ている。その意味では、Missa pro Paceは、ナベサダへのオマージュかも知れない。
 このアルバム。出来たらみなさんも聴いてみて下さい。ちなみに、このアルバムの第1曲目のOne for youという曲をYoutubeから紹介します。作曲は渡辺貞夫。エレキベースを弾いているのがリチャード・ボナです。



音楽の友インタビュー
 8月22日木曜日は、15時から音楽の友の取材があった。インタビューアーは、取材の趣旨を話すのに、
「ええとですね・・・今回は、バイプレイヤーである合唱指揮者に、あえて光をあててみようという企画です・・・あ・・・いえ、バイプレイヤーといっても、決して『裏方』という風に考えているわけではないんですよ」
「あははは・・・大丈夫ですよ」
 それで、僕が一体どんな風にこの仕事に取り組んでいるか、丁寧に話した。合唱指揮者の仕事はまず、合唱団の音取りから始まる。勿論団員はあらかじめ音は取ってくるが、声部間の音程合わせは独りでは出来ない。
 また、音程以上に重要なのは、それぞれのオペラのテキストの言語だ。幸い僕の場合は、イタリア語、ドイツ語、フランス語は、自分で話せるし発音指導が出来る。でも、今やっている「エウゲニ・オネーギン」のようなロシア語までは手が回らないから、その場合は言語指導の先生をお呼びする。
 たいていの日本人は、その発音のところで止まってしまう。日本人の外国語発音は素晴らしいが、本当に大切なことは、発音ではなく、それぞれの言語での言語的表現なのだ。そこまでいかないと、オペラでは表現にならないと伝えた。
 それから発声法を整え、暗譜稽古に入り、音楽的に仕上げて、公演指揮者に渡す。立ち稽古に入ったら、もう演出家にお任せ、ではなくて、演技と音楽との摺り合わせをする。これがなかなか大変だと述べた。
「それでは、とても苦労が多いですね」
「いえいえ、僕はこの仕事が天職だと思うので。大好きなんです。こうやってみんなでワイワイやりながら作っていくのが」

 それから、話は先日の「トゥーランドット」で、演出家と、一般の人には喧嘩みたいに見えるようなディスカッションを沢山やった話をした。
「そこまでやるんですか?」
「いやいや、私が世界一尊敬している合唱指揮者ノルベルト・バラッチュなんか、こんなもんではありません。彼はバイロイトで、何があろうと自分の作った合唱音楽を守り通そうとするんですよ。公演指揮者とも演出家とも決して妥協をしないでやるもんだから、その間練習が中断して合唱団も途方に暮れていたことが多かったです。
それを見ていた私は、自分はもっとマエストロや演出家の意向を尊重するから、そこまではしないなあ、とは思ったけれど、一方でそこまでやる合唱指揮者がいるんだということで勇気をもらいました。合唱団の音だけ取って、指揮者に丸投げするのが合唱指揮者だと思ったら大間違いです」
と言ったら、びっくりしていた。

 それから外国人の思考回路の話をした。これには、インタビューアーやカメラマン達もとっても興味を示してくれたのだが、記事になることはないような気がする。
 つまりこうだ。最初10で行きましょうと決めたことに、彼らは途中で20を要求してくることが多い。勿論約束が違う。しかし、驚いてはいけない。こういう場合、彼らはほとんどダメ元で言っている。そこで、我々日本人側が、相手の要求通りに無理して20をのんであげても、彼らは決して我々に感謝しないどころか、むしろ馬鹿にしてくる。
「なんだ、最初から20出来るのに10と言っていたのか。ズルい国民だなあ」
という思考経路を持っているのである。
 彼らがダメ元で何かを要求してくる場合、その裏で必ずこう思っているのを、ほとんどの日本人は知らない。
「最初から20叶うなんて思ってないさ。妥協の落とし処は。そうだなあ・・・15までは譲歩してもいいなあ。でも13以下だったら嫌だなあ」
なんていう風に、自分で20要求しておいて、最初から心の中で結構低い妥協の限界点を決めているのだ。
だから、こちらは、
「だめだ、せいぜい12までしか聞けない!」
と言うべきなのだ。そんな低くて・・・と思うかも知れないがそれでいいのだ。
相手は即座に、
「ふざけんな!」
という態度を示してくるだろうが、それは演技だと思って差し支えない。だって、それが交渉の始まりなんだから。それでジリジリとした攻防を続けるのだ。

 また、僕なんかは、理不尽なことを言われた場合、10や20の話ではなく、
「そんな事は合唱指揮者として絶対に聞くわけにはいかない。それは、こういう理由で、ここだけは何があっても守りたいのだ!」
と言うと、相手は、こちらのこだわりにリスペクトを持ってくれるのである。
「おっ、なかなか骨のある奴だな」
というわけである。
 そんな風にして、一時は完全決裂とまわりの人達に思われたアレックス・オリエとのディスカッションは、最後にオリエ氏が僕をハグしながら、
「あなたとは最高の仕事が出来た。途中いろいろ不愉快な想いをさせたが、それが、この素晴らしいコラボレーションに結集した事に免じて、どうか許して欲しい。」
と言ってくれるような結果に落ち着いたわけである。

 まあ、このことは恐らく記事にはならないだろうから、NG集としてここだけで言っておきます。それで、とどのつまり、どんな記事になるんだろうなあ。みなさん、次の「音楽の友」を楽しみにしていてください。




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