頑張れ、東フィル!

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

金魚の奇蹟
 7月2日木曜日の午前3時過ぎ、妻がいきなり僕を叩き起こした。
「ねえ、ちょっと来て!」
「ムニャムニャ・・・ん?・・・なあに?」
「金魚がねえ・・・金魚鉢から飛び出して床に落ちて・・・」
「はあ?死んじゃった?」
「と思うんだけど・・・」
「ん?死んでない?」
「分かんないの・・・」
「分かんない?なんだそりゃ」

 階下に降りてみる。金魚鉢がある下駄箱の棚は約1メートルくらいあるが、金魚はそこから約80センチほど離れた玄関の床の上に静かに横たわっている。
「あ、駄目だこりゃ!死んでるわ」
「触ってみて」
「ん?何で?」
と言いながら手に取ってみる。金魚はダラッとしている。要するに魚屋さんから買ってきた生魚の感じ。つまり死んでいる。
と、思いきや、次の瞬間、突然ピクッと痙攣した。
「うわっ!」
と思わず声を上げながら、一瞬その金魚を投げ出すところだったけれど、夢中で立ち上がり、条件反射的に金魚鉢に戻した。すると金魚は水の中でパクパクしながら、焦って呼吸している。でも、見ている内にだんだん落ち着いて来て普通に泳ぎ始めた。

写真 下駄箱の上の金魚鉢の金魚
金魚と下駄箱

 呆気にとられて金魚を眺めながら、僕は、妻に尋ねるというよりも、独りでつぶやいていた。
「この金魚、どのくらいここに横たわっていた?」
その問いに対する妻の答えは到底信じられるものではなかった。僕をからかっているのかとすら思った。
「30分くらいかしら」
「さ・・・さんじゅっぷん?じゃあその間千春は何をしていたの?」
「なにか夜中に目が覚めてしまって、下に降りてきたら、金魚が床に横たわっているのが遠目に感じられて・・・でも、どう見ても死んでいるとしか思えなかったから、恐くてそばに寄れなかったの。で、とにかく眠れないので・・・落ち着かないんだけど・・・居間で新聞なんか読んでいて・・・そしたら、何か玄関で動く音がしたから、ますます恐くなって・・・それで、悪いと思ったけどヒロを起こしたってわけ」
「あり得ない・・・30分・・・」

 この金魚は、お祭りの金魚釣りで釣ってきた中で、唯一生き残った元気な金魚なのだが、まず金魚鉢から1メートル下の床に叩き付けられた時点で、もし人間ならば5階から落ちたくらいの衝撃があるだろうから、全身打撲及び骨折で即死か重体だろう。さらに呼吸が出来ないわけだから、助かる可能性は万に一もないだろう。
 これはまさに奇蹟のようなものだ!と僕は思った。もしかしたら、なにものかが僕に告げているのかも知れない。今は苦難の時のように見えるだろうが、必ずや甦る。つまりRinascerò, rinasceraiだ。妻が、そのタイミングで眠れなくて階下に降りて来たのだって、金魚か、あるいはそのなにものかが僕たちを呼んでいたんだな。

 7月5日日曜日。金魚鉢の水が少し汚れていたように思ったので取り替えた。別の入れ物に水をためておいて、両手で金魚をすくい、その入れ物に移し替える。この子、最近は僕のことを信用してくれて、本気で逃げようとしないのですくいやすい。閉じた両手の平に信頼感を感じる。それから汚れ止めの小石や水草をのけて、丁寧に金魚鉢や小石を洗い、再びきれいな水の中に金魚を戻す。
 戻す時、ふと思った。きっと、あの時もこの子は“僕の手で”助けてもらいたかったのかも知れない・・・と。つまり、うまく言えないのだが・・・僕は・・・逆に言うと、この子を自分の手で助けさせていただいた、ということなのかも知れない。
 朝、お散歩に出る時に、僕が下駄箱の前を通ると、水の中で暴れる。金魚が僕を見つめている。目が合う。ますます暴れる。僕が餌をあげる。嬉しそうに食べる。犬や猫とは違ってスキンシップも少ないこれだけの付き合い。でも、なんか魚類じゃないみたい。そういえば、名前もつけていなかった。ひどい飼い主だ。ということでただいまこの子の名前を思案中。

頑張れ東フィル!
 その日曜日の晩、2階のパソコンの部屋で、「今日この頃」の金魚のラフ原稿をひとしきり書いた後、階下の居間にゆっくり降りて来て、冷蔵庫からソーダと氷を取り出し、Ballantine'sのソーダ割りを作って酢漬けのタマネギをつまみにしながらテレビを付けた。
 知事選があって、小池ゆり子さんが当選するのは分かっていたけれど、結果を詳しく知りたいと思っていた。しかし日曜日の晩というのは報道番組がないので、時間が合わないと、どこもニュースをやっていない。
 それでチャンネルを回していたら、いきなり東京フィルハーモニー交響楽団のメンバーの顔が飛び込んできた。時々観るTBSの「情熱大陸」という番組だ。今ちょうど11時。始まったばかり。
(事務局注:「情熱大陸」当日の番組無料視聴は2020年07月12日 22:59 まで)



 内容は、緊急事態宣言によって演奏活動の道が経たれた後の、久し振りのコンサートまでのメイキング映像。メンバーのひとりひとりが映し出され、自粛中どんな風に過ごしていたか?練習が始まってどんな気持ちがしたか、などを丁寧に追っていく。観ている内にどんどん惹き込まれていった。
 管楽器奏者などは、よく練習が始まる1時間も前から練習場に来て吹いているが、それは、音が大きいのでなかなか練習場所がないことにもよるのだ。なので、自粛中はとても困っていたという。自分の車の後部座席を練習場にしていたホルン奏者もいた。
 また、久し振りの練習で、生の音の素晴らしさにあらためて感動し、泣いていた奏者もいた。その気持ち、とってもよく分かる。僕だって、久し振りに東京バロック・スコラーズの練習で、生の声の倍音の豊かさに接した時に、同じ気持ちになった。
 だって音楽家なんだもん。毎日毎日、生の音楽に当たり前のように接していた生活から、突然なにもない空白の生活に放り込まれたんだぜ。音楽とベッタリくっついていたいから音楽家になったのに・・・。そういえば、僕ねえ、この自粛期間に大事なことに気が付いた。
 あのねえ、最初の内は聴いていたんだけど、録音されたクラシックの音楽を聴かなくなっていたのだ。きっと聴くと悲しくなっちゃうからなのだろう。そこが、いわゆる音楽愛好家との違いなのだ。
 普段はi-Podなどで平気で聴けるのだが、僕は、オーケストラでも合唱でも、生の音を聴きながら、それをコーディネートして自分のイメージにまで持って行く作業をしているので、その土台が自分の生活からなくなってみると、画家が写真の名画に満足しないのと一緒で、だんだん聴く気にならなくなっていたのだ。後で記事に書いているように、サンバなんかだったらお気楽に聴けるんだよね。
 いろんなメンバー達のインタビューを聞いていると、練習や本番がなくなって暇になったことよりも、自分の手で音楽を奏で、仲間と合わせ合ってハーモニーを作り、そして観客に望まれて演奏会をやることが出来なくなったことに、それぞれの楽員がどれだけ傷ついているかがひしひしと感じられて、涙なしに観ることが出来なかった。それは僕も一緒だもの。


                                情熱大陸©MBS


 コンサート・マスターの近藤薫君が映った。彼もこの復活コンサートに賭けていて、彼からひとつの提案が出された。それは、彼が団員の誰よりも早く舞台に登場し、他のメンバーを自分から立ったままで迎えたい、というものであった。
 彼には、今年の3月21日に東京バロック・スコラーズ「ヨハネ受難曲」演奏会で、コンサート・マスターとして弾いてもらうことになっていたのだ。ヴァイオリニストとして僕が全面的に信頼しているのは勿論だが、何と言っても、音楽に向かう姿勢に真摯なものがある。先ほどの提案も団員への愛のあらわれであり、新世界交響曲の演奏でも、全身から溢れるようにほとばしる音楽に胸を熱くさせられた。
 ただ、本番の映像を観るのは、僕にはちょっと辛かった。ああ、こんな風になってしまうのか、と思った。客席はソーシャル・ディスタンスでガラガラ。オケの楽員は人数を減らしてパーテーションを立て、舞台一杯に広がっている。でもな、オケはまだいいんだ。飛沫の飛びまくる合唱は、もっと大変・・・。
 興行する立場に立ってみると、これでは、やればやるほど赤字だ。でも、こんな状態がこれからしばらくは続くしかないのか。それは、このコロナ禍が我々音楽家にどういう状態をもたらしているのか、ということを赤裸々に見せられたひとときであった
 とはいえ、ウイスキーが進んで困ったけれど、とても充実した30分間だった。東フィルは、新国立劇場で最も競演の多いオケだけに、メンバーのひとりひとりもよく知っている。劇場内だけでなく、新国立劇場合唱団はコンサートでもよく共演しているので、マネージャーなどとも交流が深い。この数ヶ月間、経営などでも大変だったんだろうなあと同情を禁じ得ないが、でも、みなさんにはどうか頑張ってもらいたい。東フィルのみなさん、応援していますよ!また一緒にやろうね!

コロナの渦中において
 梅雨時期になって、大雨による痛ましい被害がテレビや新聞に登場するようになってきた。昨年の台風15号や19号なども思い出されてくる。これまで、そうした自然災害が起こる度に、
「やはり、こうしたことは、人類に対する警告に違いない」
と思っていたが、ここのところはコロナ禍があまりに強烈なので思考停止に陥り、かえって「人類に対する警告」という考え方すら出来なくなっていたことに気が付いた。

 4月のオンラインによる真生会館「音楽と祈り」講座で、僕はこう述べていた。
「新型コロナ・ウィルスは、その国境や民族を越えた感染力によって、逆に人類がみなつながっていることを我々に見せてくれました。
それは、とりもなおさず、これに立ち向かうためには、全ての人類が、民族や宗教や信条、様々な違いを越えて、みんなでひとつになって力を合わせていかなければならないことを示しているのです。
だから我々は、ポスト・コロナの時代に、どんな世界を夢見るのか?それこそが今、人類が問われていることではないでしょうか」

 ところが、あれから2ヶ月以上も経っているが、残念なことに、ラウラ・パウジーニが歌ったような「私が夢見る世界」のような世界観に向かって、世の中が動いているようには到底見えない。

 アメリカを始めとする諸国は、中国を激しく非難しながらじりじりと包囲網を狭めている一方で、その当事者である中国は、反省するどころか、香港国家安全法の制定により、香港の一国二制度を事実上破棄しようとし、民主主義を脅かしている。さらに、我が国に対しても、どさくさに紛れて、尖閣諸島を乗っ取ろうとする勢いを見せている。
 北朝鮮は金正恩朝鮮労働党委員長の消息もよく分からないまま、妹の金与正は韓国との関係を一方的に断ち切り、米国などに対しても対話を拒否するような態度を取り続けている。

 僕がもし神様だったとしたら、「もうこんなアホな人類と、その人類が作り上げたロクでもない世界なんて、ただちに強制終了!」と、ハルマゲドンを起こすね。神様って、なんて忍耐深いのだろうか?本当に我々人類は、このままズルズルと、どんな災害に遭っても懲りずに、このロクでもない世界を続けていくつもりなのだろうか?

 首都圏では、ここにきて再びコロナの感染拡大が止まらない・・・と見える。すわっ、とうとう二次感染が始まったか、と思わせる状況ではある。少なくとも新規感染者の数だけ見ると、東京都では連日百人越えが当たり前のようになってきている。
 僕が自作ミュージカル「ナディーヌ」の冒頭合唱曲で描いたように、大都会は、人間の欲望という生気を吸いながらどんどん肥大化していく。欲望も大都会の蜜を吸いながらどんどん肥大化していく。緊急事態宣言の抑圧の中で息をひそめていた若者の欲望が、囲いから解き放たれた獣のように、夜の街になだれ込んでいく。

 再選を果たした小池都知事は、途中まで自分の計画がうまくいくだろうと思い込んでいた。今、彼女が7月1日における感染者正式発表の直前に報道陣に対して言った言葉が問題になっている。彼女はこう言ったのだ。
「今日もかなり多いと報告を受けている。60人台に乗せると聞いています」
この「乗せる」という表現に、意図的なものを感じると知識人たちが言っている。もちろん、その通り小池さんが「乗せた」としても、これは憶測でも何でもなく、始めはホストクラブでピンポイントのPCR検査を半ば強制的に行わせ、わざと感染者数を出させて、みんなの注意を惹いてコロナの収束を狙ったことは、本人も言っている。
 ただ、ここにきて彼女の目算は思わぬ方向にハズれてきてしまったようだ。ホストクラブだけでなくキャバクラとかが加わってきたことで、恐らく彼女がもくろんだよりも沢山の感染者数になってしまい、先週も書いたように、その数だけが独り歩きしているのだ。
 一方、巷の人たちの中には、夜の街の従業員たちにもっとPCR検査を徹底して欲しいと言っている人が少なくないと聞くが、今のままでそれを進めることは、あまり良い結果をもたらさないような気がする。それが何をもたらすか、みなさん分かっているのかな?感染者数の分母、すなわち検査数が増えれば、つられて感染者が増えるのは当然だ。そしてまた数だけが独り歩きする・・・・。

 これは、ルールを変えようと思ったら、その時にきちんと説明しないと後々誤解が誤解を呼び、話がややこしくなる、ということの見本のようなことだ。これまでは、発熱して数日間様子見た後でなければ病院でも見てもらえなかったわけだから、その間に実際には軽く感染していても、その待機中に治った人は、感染者数にカウントされなかった。
 しかしながら、ホスト・クラブのホストやキャバクラのホステス達は、仮に無自覚であっても検査を強いられ、陽性と出たらカウントされているわけであるから、条件が違い、フェアーではないわけだ。
 ここの違いを最初に断っておくべきだったのである。僕が思うのに、別に、これまでの検査方法を反省しなくてもいい。だって、当時の医療体制と病床数などの条件を考えると、そうする他なかったのだから、堂々としていればいい。
 ただ、ホスト・クラブのピンポイント検査を最初に行う時に、
 「これから新たにピンポイントで、発症していない人でも対象にしてPCR検査をします。そのことによって、これまでの条件ではカウントされなかったような人も感染者数に入ってきます」
と断っておいて、その条件で検査した人たちの数を別枠で表示すればよかったのだ。そして、従来の方法でPCR検査をした人の数も分けて表示するのだ。そうすれば、一部のエリアだけの感染と、広く市井の人たちの中での感染とが明確に分けられ、一般の人たちが総数だけ見て、全部一緒くたにして、いたずらに恐がらなくても済むじゃないか。

 もっと良くないのは、そこを曖昧にして、ただ、
「これからは感染者数だけでは判断しないことにしました。医療体制など見ながら総合的に判断します」
などと、いうものだから、
「勝手にルールを変えたな。ズルいぞ。数をあてにして発令した東京アラートは何だったんだ?」
などという意見が出てしまうのだ。その意見を言っている人も、これまでの推移を知らないで言っているとすると賢くないし、あえて知っていながら言っているとしたら、意図的に巷の人たちを煙に巻いていることになる。知識人はみんな無責任すぎる。

 それでは総括します。先週も述べたが、連日、日本全国での死者は極端に少ない。昨日(7月5日)もゼロだった。重症者も少なくなっていると聞く。はっきりしていることは、かつてのピーク時とは、同じ数だったとしても感染者の質はまったく違う。
 感染源となっている多くは、限定された特定の地域で、少なくとも、一般市民が街で何気なく感染する確率は、当時とは比べ物にならないほど低い。ましてや、かつて志村けんが亡くなったように、
「年寄りがどんどん死んでいく」
という状態とはほど遠い。ここだけは、みなさん安心していいと思う。
 ただ、僕も数だけ見ては判断できないので、夜の街だけでなくジワジワと市中に拡散しているのかどうかだけは知りたい。行政にお願いしたいことは、変に隠したり情報操作しないで、本当に我々が欲しいと思う情報を確実に届けて欲しい。
 我々も、いたずらに恐がったり、あるいは安心したりするから情報操作されるので、ひとりひとりが客観的な情報を得て客観的な判断が出来るように賢くならなければ・・・。

サンバのリズム
 Roberta Saの、ちょっとスカートの裾をつまんで小足で踊るステップに、サンバの神髄を感じる。Vanessa da Mataの、従来の先取りしたシンコペーションをさらに崩して、メロディーのリズムを破壊の一歩手前にまで追い込んで、さらりと戻ってみせる芸当に、サンバの醍醐味を感じる。
 一、二、三、四と、斎藤メソードの叩きのように打点を刻むような音楽の感じ方では、永久にサンバの世界は近づいてこない。サンバでは、拍は打つのではなく、そこから上に飛び立ち、円を描いて次の拍の直前に滑り込みながら着地する。ビートに体を落とし込むロックやディスコ音楽とは正反対で、恐らくその独特の円の浮遊感を会得出来ない歌手は、サンバを歌う資格はないのだろう。
 ところで僕は何でこんなにサンバが好きなのだ?変ではないか。仮にもクラシック音楽の指揮者だよ。しかもカトリック信者で本も出している。それなのに、このコロナ禍で聴いているのは、ほとんどサンバやボサノバばっかり。
 クラシック音楽は、構築性があり、和声の発展が素晴らしく、内面的で哲学的で宗教的なのだが、リズムがつまらないのだ。またクラシック演奏者達のリズム感のレベルが低すぎて、僕には物足りないのだ。
 ストラヴィンスキーやバルトークは大好きだが、メシアンのリズムはもうカオスの領域で、頭で考えたリズム。どんなに周到に作ったとしても、聴いてつまらないものは、つまらないというのが僕の主義。だって、生きる糧にならないじゃないか。

 ポップス界では、もうクラシック的存在であるが、セルジオ・メンデスとブラジル66の演奏を、ここのところよく聴いている。

僕はブラジルにはまだ行ったことはないが、この映像に映し出されているリオ・デ・ジャネイロの風景に、とてもなつかしいものを覚えるのは、前世ブラジル人だったことがあるせいかな?
 また、このコロナ禍のタイミングで、こんなにブラジル音楽を求めるのも、感染拡大が止まらないブラジルに対するシンパシーの成せる業なのかな。

 ブラジル66は、メンバーがどんどん入れ替わって、ブラジル88になったりいろいろしているが、グルーブ感は継承している。今日は最後に、「マシュケナダ」の新しいラップ・バージョンを紹介しておく。セルジオ・メンデスもいいおじいちゃんになったよ。


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© HIROFUMI MISAWA