いよいよ「タンホイザー」初日


三澤洋史 

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いよいよ「タンホイザー」初日
 読売日本交響楽団は上手なオケだ。一人一人の奏者のクオリティが高いだけではなく、「タンホイザー」というオペラの各シーンの意味を正しく理解しているし、それを的確な方法で表現している。しかもみんな楽しそうなのがいい。
 マエストロのセバスチャン・ヴァイグレ氏は、「スーパー指揮法」をYoutubeで発表している僕から見ると、決して指揮者として華麗なテクニックを持っているとは言い難いが、内に音楽がある。そしてそれを読響のメンバーがしっかり汲み取っている。読響くらいのレベルのオケになると、自分たちでアンサンブルできるからね。それなので、両者の間には揺るぎない信頼感がある。こういうのを見るだけでも嬉しい気持ちになる。

 「タンホイザー」は、場所を本番会場である東京文化会館に移して、2月17日水曜日の初日をひかえて、まさに佳境に入っている。
2月11日木曜日と12日金曜日:13:00-21:00でたっぷりピアノ舞台稽古。
13日土曜日と14日日曜日:13:00-20:30でオケ付き舞台稽古HPつまりHaupt Probe(主なる練習という意味)。
 そして、この原稿を書いている15日月曜日と明日の16日火曜日が、14:00よりGPつまりGeneral Probeゲネプロ(総練習)というスケジュールである。こう続くと、家に帰ってくるともう疲れてしまって、飲んで寝るだけ。なんにもできませんなあ。

 演出補のドロテア・キルシュバウム女史とは、何度か意見の相違があった。第1幕の巡礼の合唱の場面を稽古場で立ち稽古していた時のこと。巡礼団が舞台に登場した後、次にオケのピツィカートを伴って歌い始める前に、向きを変えて帰り始めてください、という指示を彼女が出したので、僕は、
「そのタイミングで視線を外すと絶対にズレるので、ピツィカートが始まってからにしてもらえない?」
と言ったら、彼女は、
「今は稽古場なので、後ろに退場するけど、本番の会場では横に退場するので、大丈夫だから」
と言っていた。それでその問題は保留となった。
 しかし東京文化会館に行ってみたら、舞台横が広く開いているわけでもなく、向きを変えた瞬間、どこも見ることの出来ない団員が沢山いて、ヴァイグレ氏も、
「合わないよ!」
と言う。
「ほらね、僕の言った通りでしょう」
ということになって、向きを変えるのを遅らせてもらえることになった。

 一方、その登場の場面では、先の2日間のピアノ舞台稽古で、舞台横から入り込むことでやっと落ち着き始めたところなのに、ドロテアさんたら、
「やっぱり、もっと奥から出したいわ」
といきなり言い始めた。
 僕は、大きな声で、
「無理!奥は、とても条件が悪くて、しかもソーシャル・ディスタンスを保ったら、長い列になって、途中で折れ曲がってしまうことになるので、一つのペンライトでフォローできないんだ。それに、前に2日間練習があったのに、どうしてその時に言ってくれなかったんだ?明日はもうオケ付き練習だよ」
と言った。
 これであきらめるかと思ったら、ドロテアさんは、
「言いたいことは分かったわ。でも、1回だけトライすることってできない?トライくらい、いいでしょ」
おっとっとと・・・なかなかしぶとい。コノヤロウと思ったけれど、同時にその時、僕は諦めない彼女のことをちょっと偉いなと思った。そこで、
「まあ、いいよ。やるだけはやるよ」
と言った。
 団員たちは、
「え?こんなところでやるの?」
とブツブツ言っている。そりゃそうだ。
「ズレたっていいから、とにかくやってみよう」

 ところがさ、日本の合唱団員って優秀だね。これがバイロイト祝祭合唱団だったり、ミラノ・スカラ座合唱団だったら、絶対にズレると保証しよう。でも、彼ら、細心の注意を払って、タイミングもズレなければ音程も下がらなかった。
 そこで僕は、演出助手に、
「できちゃったから、やってもいいよ。あとは、みんな慣れることだね。そうドロテアさんに言って!」
と言った。
 演出助手は、彼女にそれを告げたが、その直後、
「三澤さん。ドロテアさんが、どうしても直(じか)に話したいんだって」
と言うから、まあ仕方がない。僕はオンラインのカメラの前に立った。

 ドロテアさんは、僕の顔を見るなり、
「ごめんなさい!ごめんなさい!」
とドイツ語で平謝りするから、僕は、
「謝ることないよ。それに僕、別に最初から全然怒ってなんかいなかったからね。ただ舞台奥って、リモートだと見せてあげられないけれど、本当に狭くて暗くて、合唱指揮者としたら彼らをそこで歌わせたくなかったのは事実だよ」
と答えた。彼女はすまなそうに言う。
「2日前に決断出せばよかったんだけど、照明も決まってなかったし、あたしもうっかりしていて・・・」
「いいよいいよ。まあ、少しでもお互いより良い方向を探せればいいさ」
「ありがとう!」
この瞬間、僕たちの友情はとっても深まったと確信している。彼女も僕も、それぞれの立場から真剣に向かい合っているのが、お互い感じられたというわけだ。

 僕ね、こういう瞬間というものを、残念ながら日本人とはなかなか共有できないのが残念なんだ。お互い仕事にプライドを持って自分に正直にいれば、時にぶつかるものだ。でも、避けずにそれを乗り越えた時、双方、その分だけ相手にリスペクトを持てるのだ。
 こんな時、ちょっと感動して胸がキューンとなって、とってもしあわせな気持ちになる。いやいや、別にドロテアさんに惚れたわけではないよ。あはははは。でも、一緒に作り上げているという充実感と、良い仕事仲間に恵まれた感謝の気持ちに満たされる稀有なる瞬間なのだ。
 他のスタッフ達も、
「三澤さんじゃないと、こんなやり取り絶対出来ないよね」
と言ってくれている。

 タンホイザーという主役に対しては、なかなかシンパシーを持てない。エリーザベトという恋人がいながら、ヴェーヌスベルクで歓楽の時を過ごし、それを口走ることで歌合戦を台無しにしたひどい奴。
 それなのに、騎士たちが怒って剣を持って彼を取り囲んだところを止めたのは、まさしく彼に裏切られたエリーザベト。それで、ローマへ行く巡礼団に混じって、教皇に罪を許してもらおうとする。
 ところが、他の巡礼者たちの罪をみんな許した教皇なのに、彼がヴェーヌスベルクに行ったと知った途端、
「そこに行った者だけは絶対に許されない!」
と頑なに言う・・・これって変じゃない?教皇は神様の代理人なのだから、自分に許しを請う者に、意図的に許しを与えない権限はないはずだ。もしそうだとしたら、教皇が個人的に嫉妬したに違いない。
「なに?そんないい処に行ったのか?ええ?ズルいズルい!どうやって行くの?教えて・・・・なに?駄目だと?ひどい奴だな。では、この枯れた杖に新緑が芽生えない限り、お前は、死んだって救われないんだ。永久にね・・・ははは、バーカバーカ、ざまーみろ!!」
 こんな風に裏読みしてしまうのが僕の悪い癖・・・オホン・・・それでタンホイザーは絶望して帰って来た。それで、やけっぱちになって、やっぱしもう一度ヴェーヌスベルクに戻るんだと言う。なんだ、元々、もし許してもらえなかったらヴェーヌスのところに帰ろっと、って決め込んでいたんじゃね?
 そうしたら、あろうことか、そんなカスのようなクズのような奴のために、エリーザベトったら、祈って祈って祈り死にしたっていうんだ。そういうの無駄死にじゃね?犬死にじゃね?
 ところが、その自己犠牲によって教皇の杖に新緑が芽生えたらしいよ。つまりタンホイザーは、ヴェーヌスベルクにも行けたし、救済もされたということです。シッチャカメッチャカであり得ない話ですよね。

 そう思うでしょう。ところがね、ここがワーグナーの天才なんだな。そんな、男にとって“至れり尽くせりの甘やかしの物語”なのに、女声合唱の救済を告げるHeil,Heilからラストに向かっての晴れやかな終景では、そのカタルシスに泣けるんだ。これぞ法悦(すなわち法の悦楽~宗教的陶酔)の極致!ああ悔しい。理性で考えると腹立たしい物語なのに、泣けちゃうんだ。音楽で説得されちゃうんだ。
 ただひとつ残念なことがある。それは、後期のワーグナーと違って、終幕の音楽がちょっと短いことだ。「もっと浸らせてくれよ」と思う間に終わってしまう。まあ、もうちょっと、と思うところが良いのかも知れない。後期のワーグナーは、
「まだあ?」
というほど長いからね。

 まあ、いずれにしても、こんな素晴らしい作品に、毎日こんなにどっぷり漬かれるんだから、なんて素晴らしい人生でしょう。みなさん、僕みたいに屁理屈を付けてつべこべ言ったりせず、とにかく公演に来て、素直に泣いてください!

公演は、上野の東京文化会館で、
2月
17日水曜日17:00-
18日木曜日14:00-
20日土曜日14:00-
21日日曜日14:00-

永遠への回帰Return to foreverを果たしたチック・コリア
 天才ピアニストのチック・コリアChick Coreaが79歳で亡くなった。時代がひとつ終わったと思う。チック・コリアもマイルス・デイヴィスのチルドレンのひとり。マイルスと共にモダン・ジャズの次の時代を模索し、その後独立して、伝説的なフュージョン・バンド“リターン・トゥ・フォーエヴァー”を結成。ボーカルの入った同名の曲が爆発的ヒットを生んだ。
 またその後、前衛的なジャズ・グループ“サークル”、そして“チック・コリア・エレクトリック・バンド”と、どんどん彼のワールドを突き進んでいったが、彼の内面はどんな時でも変わらなかった。彼は常に、独特のやや冷たいロマンチシズムを失わず、彼特有の美の中に知性と感性との稀有なる融合を見せていた。
 その中の一曲として、アランフェス協奏曲を元にしたSpainという曲をここに紹介しよう。演奏は2004年のモントルー音楽祭でのライブ。


きっと彼は、今、永遠の高みに回帰Return to foreverしたのだと思う。ありがとう!チック・コリアさん。あなたの演奏に、僕は勇気と希望を沢山もらいました!

竹下節子さんの指摘する日本人
 月刊「カトリック生活」(ドン・ボスコ社)で毎月「カトリック・サプリ」というエッセイを執筆している竹下節子さんとは、実際にお会いしたのは何度かしかないが、彼女は、自分にとってとても大事な存在だ。
 昨年6月に僕の著書「ちょっと お話ししませんか」が出版された時には、僕はドン・ボスコ社に頼んでパリにまで送らせてもらったけれど、彼女の方がずっと沢山の本を出していて、よく送られてくるので、いただく側ばかりで恐縮する。
 先日も、ドン・ボスコ社から一冊の本が届いた。「カトリック・サプリ」は、ドン・ボスコ社によってまとめられ、単行本になってすでに4巻を数えているが、今回はその5巻目。写真 竹下節子さんの書籍の表紙特に今回は、コロナ渦で「日本に行かれない今だから、ぜひ書いておきたいことがある」という想いで、新たにこの新刊のために、25編中8編を書き下ろしたという。

 彼女の文章は明晰で、どの行間にも知性が溢れている。それと、彼女が把握しているおびただしい情報量の中から、必要に応じてそれらを組み合わせ、説得力のある結論に導く能力には他に追従を許さないものがある。表現はクールを装っているが、根底に熱い信仰心が宿っている。僕のように、ノリと勢いだけで書く文章と違って、実に奥ゆかしい。ところが今回は、コロナ渦という特殊事情の中、いつになく彼女の文章からは、熱い想いが知性のフィルターを通さずにダイレクトに感じられる個所が多い。
 その中で特に、遠くパリから日本人の様子を客観的に眺めている文章に強く共感した。日頃自分が感じていた日本人への違和感を、整理された文章でよくぞ言ってくれました!竹下さんBrava!
以下、やや長いが引用する。

コロナ差別の日本

新型コロナウイルスが蔓延した2020年の春、私は罰則つきの外出規制が8週間続いたフランスで過ごした。
そのフランスから見ているかぎり、フランスに比べれば感染者数も死亡者数も桁違いに少ない日本で、どうしてフランス人よりもパニックに陥っているように見える日本人が少なくないのかが私には不思議だった。

もっと驚いたのは、経済活動の一部終止や外出規制が罰則のない「自粛」「要請」にすぎない日本で、フランスより厳しい「世間の目」が行き届いている様子だった。
営業を続ける店に嫌がらせがあったり、公園で遊ぶ子供を警察に通報する人がいたり、フランスでは外出規制が解除されても公共交通機関でのマスク着用が義務化されたけど、一度も「義務化」がない日本で、マスクをつけない人が「白い目」で見られるなど、「自粛警察」「マスク警察」と呼ばれるような相互監視の雰囲気があったという。

何よりもショックを受けたのは、感染者がその家族まで「謝罪」に追い込まれたり、患者を受け入れる医院に人が寄りつかなくなったり、そのせいで、緊急患者の受け入れを拒否する病院があったり、感染者を出した家や地区やグループが後ろ指をさされたりという傾向だ。
感染者の多い他県からの訪問者や里帰りの人を拒否したり監視したりすることもあったという。
そして、こう続いた。
日本よりはるかに感染者が多いフランスでは、もちろん感染を恐れる人は多かったけれど、感染者を「謝罪」に追い込んだり、「村八分」にしたりするような空気だけはあり得なかった
それから「善きサマリア人」の項では、こういう文章がある。
フランスでは、「危険な目に遭っている人を助けない」こと自体が処罰の対象になっている。
また訴訟社会のアメリカなどを中心に、緊急時に第三者を救助した人が、結果的にその処置を誤ったなどの場合に法的な責任を問われないとする「善きサマリア人の法」というものが広く存在して、「人助け」を促進している。
これは、救いの条件である「隣人を愛する」ということについて、隣人とは何か、愛するとは何かをイエスが説明したたとえ話に由来する。
(以下ルカによる福音書第10章30-37のサマリア人の話の引用)
 どうも日本人にとって「隣人」という定義が西洋人と大きく異なっているようだ。「隣人」とは日本人の場合、「助け合う」よりも「自分に害を及ぼさないかどうか監視し合う」存在のような気がする。そして、その根底には「恐れ」と「不安」があるのだ。
 また、今回のコロナ渦を通して、僕は、その恐れや不安をいたずらに煽るマスコミの罪をとても感じたし、それを鵜呑みに信じる日本人の愚かさにとてもガッカリした。日本人はもっと知性のある国民だと思っていたのに・・・・たとえば、ウイルスがPM2.5や花粉などと同じように、空気中に恒久的に漂っているなんて信じている人がまだいるんだぜ。
 いいですか、みなさん。飛沫が飛ばないところにはウイルスは一匹もいません!だから戸外で誰にも遭わなければ、本当はマスクの着用そのものが無意味だし、ましてやひとりで車に乗っていながらマスクするなんてナンセンスです。
 それより、お互い対面して至近距離で会話するならば、仮にマスクをしていたとしても、エアロゾルを飛ばしまくって危険だし、また接触感染による感染の可能性の方が断然高いです。感染者が手を触れた場所には、不活性化したウイルスが2日くらいは生きていると言われます。それを触った人が手を口に持って行ったら危険です。だから手洗いうがいは、どんな時でも効果的なのです。
 とにかく、みなさん正しい知識を持ってください。愚かな国民のままでいないでください。マスコミも、そういうことを正しく教えてください。

 これらの話をさらに突っ込んでいくと、僕の場合、また果てしなく長くなるので今回は竹下さんの本に限定してこのくらいにするが、竹下さんの見解が、だいたいの欧米人の日本人に対する違和感だ。そして、その違和感は、結構これからの日本人がしっかり見つめて向かい合っていかないと、完全に国際社会から置いて行かれることを示している。
 いや、置いて行かれてもいいんだけど、第一、お互いに縛り合って、お互い窮屈じゃないですか。
「コロナで大変だったけど、みんなで力を合わせて乗り切って良かったね」
と、将来すがすがしい気持ちで振り返れれば美しいじゃないですか。それを目指そうよ!。

 さて、竹下さんの本には、勿論これだけではなくて、いろんなことが書いてあって、いろいろな気付きがあります。とてもためになります。みなさん是非読んで下さい。

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