真生会館「音楽と祈り」皆さんに開放

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

真生会館「音楽と祈り」皆さんに開放
 緊急事態宣言は解除されたけれど、3月25日木曜日に行われる真生会館「音楽と祈り」講座は、残念ながら引き続きオンライン講座となりました。

しかしながら朗報です!

 真生会館の好意で、そのオンライン講座をリアルタイムのZoom配信で、誰でもタダで受講できることになりました。真生会館では、この講座の紹介も兼ねて、いろんな人に幅広く知っていただこうという意向です。普段遠方で受講できないかたでも、どうぞ!

 今回の講座のタイトルは、「“うた”について~ベルカントと多彩なる表現の世界」。
すでにいろんなところで書いているが、大管弦楽を指揮する歓びは百も承知ながら、たったひとりの歌手が歌う“うた”に、百人のオーケストラが簡単に負けてしまうように感じることの少なくない僕が、このへんで一度整理して、音楽家としての“うた”との関わりについて語ってみたいと思っている。
 人間にとって一体“うた”とは何か?あるいは、カトリック系の施設なので、宗教と“うた”はどのように関わっているのか?など興味深い話が聞かれると思います。

 それと、実際の技術論として、クラシック音楽の声楽の基本テクニックであるベルカント唱法について、結構分かり易く説明しましょう。クラシックの声楽というと、
「ああ、あんな感じね」
と、多くの人が雰囲気で分かっているけれど、実際にそれがどんなものなのか?たとえばその技術は、クラシックだけでなく、ポップスの世界でも応用できるのか?あるいは、ベルカント唱法というものが、器楽の世界での音を発するイメージとも重なってくるのか?などなど・・・。
 さらに、僕が親友のスキーヤーである角皆優人君と主催している「マエストロ、私をスキーに連れてって」キャンプの講演会でも語っているような、スキーの滑走における重力と遠心力との相克の感覚と、ベルカント唱法における腹圧の感覚との共通性・・・それを元にフレージングの構築姓について語るなど、かなり多角的に“うた”の持つ様々な面について触れていきたいと思っています。

 興味ある方は、3月25日木曜日10:30ちょっと前に、以下のところにアクセスして受講してください。もう一度言いますが、誰でも無料で受講できます。

説明:真生会館事務所さんがあなたを予約されたZoomミーティングに招待しています。
Zoomミーティングに参加する
https://us02web.zoom.us/j/86219642483?pwd=U1pGTmMyMDhMdUYweW1ReCtOZ0JOUT09
ミーティングID: 862 1964 2483
パスコード: 021944

(注意)
Zoomのアプリがすでに、パソコンやスマートフォン、タブレットなどにインストールされている方は、https://以下のURLは必要ありません。
Zoomを開いて、「参加」を押すと、「ミーティングID」が求められ、さらに「パスコード」が求められるので、それぞれの数字を記入して入室してください。
なるべく遅れないように。出来たら数分前に入室をお願いします。

かけがえのない演奏会、無事終了
 東京バロック・スコラーズ主催のレクチャー・コンサート「巨匠の創作の足跡」が無事終了してから一夜明けた3月22日月曜日の朝、この原稿を書いている。
演奏会に向けてしだいにテンションを高めていき、それが頂点に達し、当日は、人生の中でひときわ輝く稀有なる日となる・・・こうした体験を当然のように重ねていた僕にとっても、今回ばかりは、本当に久し振りというだけでなく、「生の演奏会」というものがいかに特別な“とき”を刻むのかを再確認できた機会であった。

 傲慢のそしりを覚悟であえて言うならば、その特別な“とき”は、僕自身が、演奏する曲と特別な関わりを持とうとした日から始まった。

 曲が始まると、ほぼインテンポで進んでいくバッハの音楽を指揮するだけならば初見でもできる。だから、華麗なるバトンテクニックを披露したい指揮者で、バッハに特別な興味を持たない人は少なくない。
 しかし僕は、「プロの指揮者としてバッハを指揮するため」に演奏会に出演するわけではない。それは、僕のアマチュアリズムから来ているものだ。つまり僕は、バッハを指揮したいのではなく、バッハが好きだから、バッハの音楽と全人格的に関わり合いたいし、そのために、バッハと過ごす濃密な時間を少しでも長く作りたいのだ。
 演奏会は、単なるその結果であり、自分にとって最も大切なのは、バッハの紡ぎ出した音符のひとつひとつに触れ合っている“とき”そのものなのだ。

 では、演奏会は自分にとってどうでもいいのか?というと、勿論そんなことはない。それどころか、自分がバッハと触れ合って、譜面の随所で驚きを覚えたり、大きな感動をもらったりした体験を元に、それを合唱団やソリストや演奏者たちと練習で共有し、さらに本番では大勢の聴衆と感動を分け合うことのできる稀有なる機会なのである。

 皆さんの目には触れないのだが、たとえば、演奏会の近づいた3月18日木曜日のスタジオ・リリカで行われた、東京の3人のソリストとの合わせの濃密な時間は、かけがえのないものであった。
 高橋ちはるさんのBWV79(作品番号は、カンタータの番号と同じ)第2曲目アリア「神は私たちの太陽であり盾です」の溌剌とした歌唱に、もうひとつキビッとしたリズム感が加わったのはその時からであり、國光ともこさんのBWV179第5曲目アリア「愛する神よ、憐れんでください」の情感に、深みと内面性が加わったのもその時から。
 國光さんと大森いちえいさんのBWV79第5曲目重唱のtoben(荒れ狂う)という歌詞についたコロラトゥーラの鮮度が上がったのもその練習によってであり、女性ふたりのミサ曲ト長調第4曲目Domine Deusでは、すでに二人の声が溶け合って美しいハーモニーが出来上がっていたが、そこにたゆたうような「揺らぎの表現」が加わった稀有なる瞬間も、その晩の収穫であった。
 このように、勿論それらは、本番をより良くするための練習ではあるが、同時に、そのひとときは、それだけでバッハの中から表現の可能性を引き出し、それによってそれぞれの参加者が、よりバッハの高みと深さに気付かされる、本当に貴重なひとときなのである。
 こうしたひとときの歓びを知らずして、ただ演奏会のクオリティを高めるために最短距離を行くことだけがプロだと思い込んでいるとしたら可哀想なことである。プロというのは、誰よりも音楽の歓びを知っている、いわゆる歓びの伝道師でないといけない。演奏会に出るものは、氷山の一角に過ぎないのだ。

 演奏会の前日の練習で、小ミサ曲の終曲Cum Sancto Spirituの練習をしていた時、音量は充分に足りているのだが、どうも推進力が弱いので、試しにコントラバスの髙山健児さんに、
「試しに、もっと短めに弾いてエッジを立ててみましょう」
と言ったら、次の時から見違えるようになった。髙山さんは、とても良く鳴る楽器を持ってきていて、音は幅広く豊かに出るのだが、むしろその音量を多少犠牲にしても、推進力を得ることの方が先決だと思ったのだ。こうした僕の言葉の本当の意味を即座に読み込む髙山さんのプロの眼は確か。急に音楽にエネルギッシュなノリが生まれた。
「髙山さん、素晴らしいよ!これで、ロン・カーターとトニー・ウィリアムズのグルービーなノリになったね」
みんな笑ったが、本当なのだ。
 その証拠に、その終曲では、本番中客席で聴いていた孫の杏樹がいつになくノリノリになっていたという。子供は正直だ。そういえば、杏樹は、これまで将来はサンバ歌手になるんだと言っていたのが、帰りの車の中でずっとソプラノのようにヘッド・ヴォイス(頭声)で歌っていて、
「杏樹、オペラ歌手になろうかな」
と言った。國光さんの歌に相当インパクトを感じたらしい。

 僕はよく予知夢を見る。特に、自分にとって大切な演奏会の約1週間前に、なんらかの形でその演奏会に関係する夢を見ることが多い。顕著な例は、愛知祝祭管弦楽団の演奏会の時には、演奏会が終わって、打ち上げで自分がビールに口を付けているところの夢を見るが、その味が妙にリアルなのだ。
 今回は、そんな夢を見ないなあと思っていた。まあ、今はコロナ禍でまさに演奏会の当日まで緊急事態宣言下だったから、打ち上げそのものがないのだが、その代わり、ひとつ不思議な夢を見た。

 それは、自分がオペラ歌手になって舞台に登っている夢。もうすぐ自分の出番が回ってくる。しかし、自分は暗譜が出来ていなくて歌う個所が分からない。とても焦っている。そしてその個所が来たが自信がなくて歌い出すことができない。その時、一緒に出ている他の役の人が小さな声で歌った。自分もそれに合わせたが、やはりあやふや。そして出番が終わり、ガックリ首を垂れて楽屋に戻る。その時、指揮者や共演している歌手達、みんなが自分を責めているようでいたたまれない気持ちに襲われた。
目が覚めて、ああ夢で良かったと思ったけれど、何故こんな夢を見たのか分からなかった。

 演奏会のミサ曲で、ある歌手が自分の出る個所を間違えて歌い始めてしまった。かなりきちんと練習を積んだので、半ば曲を覚えていた彼の視線は譜面を離れて自由になって歌い始めたのだが、ふと不安になって再び楽譜に目を移した時、1段下を見てしまったらしい。
 一方、指揮していた僕は、1小節先に入ったくらいだったら左手で止めて次のアインザッツから入らせたのだが、あまりに先の個所を歌い出したので、手だけではサインをすることが出来なかった。こんな時の指揮者って案外無力なのだ。
 彼は、上手に帳尻を合わせたので、なんとか曲を終えることはできたのだが、演奏会が終わった後の彼の姿は、こちらが見ていても可哀想なくらいで、帰り間際の合唱団員への挨拶も、平謝りというものであった。
 僕は、例の夢を見ていたので、
「ああ、あの時自分が感じたあの感情に、彼は今なっているんだな。気の毒だな」
と思った。そして、あの夢の意味が初めて分かったのだ。

 演奏者が本番でミスをしたからといって、僕は演奏者を責めて怒ったり罵ったりするようなタイプではないが、少なくとも、
「ああ、残念だなあ!」
くらいの意識は持ったかも知れない。
 しかし、今回は、あの夢のお陰なのか、そうした残念な想いが全くないのだ。だって、演奏会がこのコロナ禍の中で実現できただけでも有り難いのだ。全ては神の御手の中での出来事。運命。そのまま受け入れるべき。かけがえのない演奏会の中でのかけがえのない無数の出来事の内のひとつ。ネガティブもポジティブもない。って、ゆーか、全てがポジティブ。

 それよりも僕自身の反省があった。それは、
「お前は、完璧に暗譜したと思っていただろうが、そうではなかった。だから傲慢になってはいけない」
ということだ。
 あの時、ミスを最小限に解決する道がひとつだけあった。それは、僕がその瞬間、歌ってあげることだった。それをすると、勿論、その瞬間にふたりの声が同時に聞こえるわけだから、彼が間違えたことは聴衆全員に分かってしまうかも知れないが、僕が歌った声に彼が即座に修正したとしたら、ミスは一瞬で元に戻っただろう。
 では、何故僕にそれが出来なかったのだろう?理由は、そこまで完璧に暗譜できていなかったということだ。あのコロラトゥーラ(速いパッセージ)の音は、それなりに覚えてはいた。でも、人前で正確に歌えるほどではなかった。
 要は、暗譜するなら、こういう事態が起こることまで想定して行わなければならないということだ。指揮者は、安全走行のガイドだけでなく、いざという時の混乱に、自分が動揺するどころか冷静沈着に行動するレスキュー隊でなければならないのだ。それが出来ないなら、見栄を張らないで目の前に譜面を置くべきだ。

 まあ、これ以上マイナスの要素に心が捕らわれてはならない。(このことをあえて書いたことは、本人の了解を得ています)とにかく、演奏会自体は成功裏に終わったし、来てくれた聴衆は、皆さん喜んでくれた。
 なにより僕が感謝を捧げたいのは、東京バロック・スコラーズ(TBS)の、特に演奏会プロジェクト・チームの皆さん。渉外担当で、演奏者たちに対して丁寧な心配りをしてくれたYさん。団長のKさん初めとする役員の皆さん。
 特に、今年になって、緊急事態宣言が再び発令され、水曜日夜の練習が不可能になってもあきらめず、土曜練習に切り替えて、困難な場所取りを手分けで必死になって行ってくれた方達。
家族の反対や不安を押し切って、練習に出てきてくれたひとりひとりの団員たち。
本当にみなさんのお陰です。
ありがとう!みんな。
皆さんは、僕の生涯における誇りです。

TBS forever!

 

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