ドイツ・レクィエム・ゼミナール レジメ

演奏論(指揮者は演奏の際、何にこだわるか?)
三澤洋史   

第一部、指揮者とスコア
 優れた料理人だったらレシピを読んだだけで出来上がった料理の味がイメージできるだろう。逆に料理を食べただけで味の中にある成分をかなり言い当てることが出来るだろう。指揮者にとってスコアと実際の演奏とはそのような関係である。あるいは設計図と実物のような関係とも言えるかも知れない。
 初めての譜面でも、スコアを一目見ただけで大体どんな音が出るのか、指揮者はイメージできる。またそのように訓練されてもいる。また指揮者は、初めての曲を聴いただけで、どの楽器がどのように混じってそういう音になっているのかが想像できる。
 しかし中には想像できないものもある。それは作曲家のイメージが非常に独創的な場合、新しいコンビネーションによる新しいサウンドが聴かれたような場合だ。そんな時、指揮者はそれがどうなっているのか知りたくなる。作曲家だったらそれを調べて、今度は自分の作品の中に取り入れてみようとするだろう。その影響力が大きい場合、そうした作曲家は「新しい潮流を作る」という事になるのである。

 さて、指揮者はレシピを元に実際の料理を作って行くわけであるが、問題は同じ設計図をもって具現化していく過程で、どうして味に差が出るのかということである。それは、まず設計図を読むのは、その人の感性を使って読んでいるということだ。芸術家にとって、その作品を「どう読むか?」というところはかなり重要だ。それから具体的にひとつひとつの項目について、設計図に書ききれない細部を決定していくのに、やはり感性を使う。

スコアの情報
 スコアに書き記された情報とはなんであるか?その中で何が客観的な情報か?
はっきりした情報としては、どの楽器がどのタイミングで音を出すかしか書いていないのである!テンポにしたって、一口にアレグロといっても果たしてどのくらいのテンポをアレグロと感じるのか曖昧である。フォルテ、ピアノもそうである。フルートの下の音域のフォルテと、トランペットの高い音のフォルテでは客観的な音の強さは違う。
 一番大切で一番曖昧なのが、「どのように」という情報だ。エスプレシーボとかリタルダンドとかアクセントとか書いてはあるが、では具体的にどのようにエスプレシーボを表現するかということになるとAの人とBの人の感じるエスプレシーボは多分違う。
 こうした事を総合していくと、出来上がったものは指揮者によってかなりの差が出るといえよう。特に声楽作品の場合、言葉やその言葉による表現のアプローチによって器楽作品よりもさらに差は広がると思う。

ブラームスの管弦楽について
 作曲家は空白恐怖症だと言われる。常に、「もっとオーケストラが良く鳴るのではないか?書き損じてないか?もっと空白を埋めないといけないのではないか?」と不安になり、つい書き過ぎてしまうのである。ブラームスはその典型的な例だ。クラリネット一本に任せればいいところを、ついフルートを重ねてしまう。メロディーとシンプルな伴奏形で充分なところを、つい三連符の別の伴奏を重ねてしまう。それにより音楽は複雑になり、サウンドは見通しの悪いものになる。
 それをロマン派的芳醇さと見てそのボリューム感を生かすか、あるいは余計な要素を後ろに追いやって、曲の核の部分を強調してすっきりとさせるかが、ブラームスを演奏するときに演奏者に求められる決断だ。

 ブラームスは、その作曲技法のルーツをベートーヴェン、さらにはバッハが得意としていた「発展と展開の原理」に置いている。それがブラームスの音楽の緻密さを生んでいるわけであるが、時として懲りすぎるあまり緻密を通り越してしまうのである。
 たとえばドイツ・レクィエムの第三楽章のフーガでは、そのフーガだけでも充分成立するにもかかわらず、オーケストラはさらに別のモチーフを演奏する。(ここでいくつかのモチーフの演奏−三連符の箇所など指摘)演奏者にとって最も難しいこうした箇所などは、結果として不幸なことに聴衆には全く気づかれずに通り過ぎるのである。

色彩感
加えて、オケの色彩感という観点から見て、ブラームスは同時代の作曲家に遅れをとっている。音色感、色彩感は彼が尊敬するバッハに決定的に欠けている要素でもある。ベートーヴェンは、特別な楽器には興味を示した。ティンパニー、ホルン、そして時にはクラリネット。そしてそれはブラームスにも受け継がれていて、くすんだ渋い音色感を作り出している。

 ブラームスは、ワーグナーの楽劇「ジークフリート」の「森のささやき」の場面を批判的に見ている。

「詩的な感じがするが、音楽的には無意味だよ。“ラインの黄金”の例の変ホ長調の三和音と同じで、ただの要素だ。要素だけの音楽、つまり管弦楽だけの音楽だ。」
その「要素だけの音楽」が、後にドビュッシーによって印象派へと発展していくのである。このブラームスの発言にもあるように、ブラームスの興味の中心は、主題とその有機的発展や、構築性にあって、オーケストラの色彩感は副次的要素である。
 一方では、彼のメロディーや和声は詩的でロマンチックで、シューマンのいわゆるシューマニズムの直系でもあるのに・・・・。だからそのロマンチシズムを音色に生かせば、ブラームスの音楽はもう少し違ったものになったであろうと思われるが、そちらの方向に行かなかったのがブラームスのブラームスたるゆえんとも言える。つまりロマンチシズムに色彩感という衣裳をまとわせるのではなしに、内 面から出てきたロマンチシズムを曲の構築性と相剋させることによって、緊張感に満ちたブラームスの音楽が形作られるのである。
 ワーグナーの音楽には華麗な管弦楽が必要不可欠であるが、ブラームスの室内楽に傑作が多いのは、彼の音楽を具現化するにあたっては、必ずしもフルカラーの絵の具を必要とはしないからである。

カール・ライスターの発言と「ドイツ・レクィエム」へのアプローチ

私が大きな感銘を受けた『ドイツ・レクィエム』。それは人生において人間がかかえこまざるを得ないさまざまな苦悩に、深い慰めを与えてくれます。特に第五楽章は、私には信じ難いほど美しく思え、静かな浄福の境地に私を導いてくれます。
 長年ベルリン・フィルのソロ・クラリネット奏者として活躍してきたライスターの偉大なところは、ブラームスを語るのにまず『ドイツ・レクィエム』を筆頭に持ってきたところである。何故なら、この曲はクラリネット奏者にとって必ずしも「おいしい」曲とは言えない。クラリネットはかなり吹きっぱなしなのにもかかわらず、ブラームスが他の楽器と重ねるものだから、あまり目立たないのである。彼が語る第五楽章にはソロがあるが、たいしたものではない。とすると、彼のブラームスへの共感と讃辞は、純粋に彼の内面から出たものである。このようにブラームスは各楽器奏者に、その楽器を披露する以上の興味を要求する。

 それは指揮者にとっても同じである。指揮者が「ドイツ・レクィエム」に挑む時、それはたとえばヴェルディのレクィエムに挑むのと同じ気持ちではあり得ない。私は今回20種類以上の「ドイツ・レクィエム」のCDを聴いてみてあらためて感じたことは、通常の巨匠と言われる大指揮者の演奏が軒並みつまらないということだった。理由ははっきりしている。作品に対する共感が通り一遍であるということである。それと外面的効果は何の役にも立たないということである。
 ブラームスと言うと、一般的にはドイツ的な重厚なサウンドと音の量感、厚みというものが不可欠であると思われている。しかし「ドイツ・レクィエム」においては、それだけでは駄目なのだ。先ほども言ったように、フーガなどでは音の透明感が欲しいし、合唱と管弦楽が作り出す巨大なサウンドは否が応でも超重厚だが、絶えず重厚だけでは食傷気味になって飽きてしまう。そこを無神経に、「ブラームスは重厚であればよい」なんてやっていると、たまらなく退屈な演奏が出来上がってしまう。

第二部、指揮者はどこにこだわるか?聞き比べの実際

テンポ設定
指揮者が演奏に対してまずこだわるポイントはテンポ設定だ。「ドイツ・レクィエム」を演奏する場合、まず冒頭のテンポ設定は大きな問題である。
映画でもそうだが、冒頭はとても大切だ。映画館の上演時間に遅刻して冒頭を見損じた、なんてあってはならない。作り手が冒頭にどれほどの想いを込めているか。
「ドイツ・レクィエム」の冒頭は厳粛に始まる。低弦の四分音符の歩み。それを支えるホルン。しかし遅すぎると逆に緊張感を失ってしまうし、速すぎると全体の印象が軽くなってしまう。ちょうど良いテンポを設定しなければならない。
遅過ぎる例
バレンボイム版、シカゴ交響楽団、合唱団
速過ぎる例
ブルーノー・ワルター版、ニューヨーク・フィルハーモニック、ウェスト・ミンスター合唱団

バランス感覚
 次は私がやりたいテンポに近い演奏をお聴かせするが、その前に指揮者がこだわるもうひとつのポイント、すなわちバランス感覚に触れてみたい。指揮者というと、いつも手を動かして情熱的に振っているので、テンポを取ったりイメージを表現したりするのは素人が見ていても分かるが、バランスに関しては聴衆が見ていない練習場でほぼ解決してしまっているし、情熱よりも知性や判断力、耳の良さが必要とされるので、聴衆に分かりにくい。だが反対にプロのオーケストラ団員が評価の基準とするのは、こうした玄人っぽいポイントだ。
 バランスへの配慮は、まずオケの編成から始まる。管楽器は書かれた通りの人数でよいのだが、問題は弦楽器の人数だ。私が今回東京交響楽団に要求したのは、第一ヴァイオリン14名、第二ヴァイオリン12名、ヴィオラ10名、チェロ10名、コントラバス8名。
 オケは第一ヴァイオリンの数で規模を測る。この場合は14名なので14型という。14型は通常、14,12,10,8,6という編成が一般的なのだが、私はチェロとコントラバスを2名ずつ増やした。
 パイプ・オルガンはオプションなのでなくてもよいが、ウィーン初演でオルガンなしで大失敗したことを考えると、これははずせない。ハープは譜面とするとひとつなので一人でも出来るのだが、ブラームスはダブルでやれと譜面に記しているので私もダブルでやる。

 第一楽章ではヴァイオリンが休んでいる。ヴィオラ、チェロ、コントラバスのみの弦楽器。私の演奏ではヴィオラが二つに分かれて5人ずつ。やはり10人いるチェロは三つに分かれる。上から4,4,2。三番が少ないのは、コントラバスの8人と一緒に動いていて低音部を支えているからだ。つまり声部とすると上から5,5,4,4,10となるのである。
マゼールの演奏
マゼール版、ニュー・フィルハーモ二ア管弦楽団、合唱団
(演奏を聴きながら)最初のファ音の歩みは10人で。Esの音は第二チェロ4人。最初のメロディーは第一チェロ4人。次のメロディーは第二ヴィオラ5人。その次のメロディーは第一ヴィオラ5人となっている。

合唱のサウンド
こうして合唱が入ってくるわけであるが、次に指揮者がこだわるのがサウンド。主として音色だがそれだけではない。イメージと言った方が良いかも知れない。冒頭の合唱はあたかも修道院の奥から幻想的に賛美歌が聞こえてくるように私はイメージしている。沢山聴いたCDの中から、今日は6種類ほどの演奏を皆さんに聞き比べてもらいます。
アッバード版
スェーデン放送合唱団、エリック・エリクソン室内合唱団、ベルリン・フィル
コッホ版
Rundfunk-Solistenvereinigung Berlin
Rundfunk-Chor Berlin
Rundfunk-Sinfonie-Orchester Berlin
カラヤン版
Wiener Singverein、ベルリン・フィル
コルボ版
Ensemble Vocal & Instrumental de Lausanne
ガーディナー版
Monteverdi-Chor
Orchestre Revolutionaire et Romantique
ヘレヴェッヘ版
La Chapelle Royale
Collegium Vocale
Orchestre des Champs Elysees

第一楽章のオケのユニークなサウンド
木管楽器は第一楽章ではクラリネットを欠いている。金管楽器では、トランペットはいないが、何故か控えめにトロンボーンは入っている。
トロンボーンは、ワーグナーやチャイコフスキーなどではバリバリッとパワフルなサウンドを作る楽器として扱われているけれど、ルーツはサクバットという楽器で、教会音楽ではバッハよりずっと前、ハインリヒ・シュッ ツの時代などから盛んに使われていた。その古風なイメージでトロンボーンを扱わなければならない。トロンボーン奏者も、ブラームスがそんなことを考えて書いたことなど分からないかも知れないので、上手に伝えなくてはいけない。
とにかくブラームスは、この第一楽章をバッハの葬送カンタータ106番のようにアルカイックなイメージでオーケストレーションしているので、そこを理解して演奏しなければならない。
アルカイックなイメージと言えば、何と言ってもハープの使用だ。ただこれは強調しすぎると嫌みになる。
ジュリーニ版の演奏
ハープ・バランスに注目。録音の仕方が悪い。

第二楽章の演奏
クレンペラー版
こうだけはなりたくない遅い冒頭。
クーベリック版
行進曲の歩み。短めの四分音符の処理によって軽快な感じが得られる。
ヘレヴェッヘ版
爽やかなサウンドで気に入っている中間部。
ジュリーニ版
こうだけはなりたくないフーガ。ウィーン国立歌劇場合唱団の大味で無神経な演奏。
シノポリ版
興味深い演奏。テンポの動かし方。プラハ・フィルハーモニック合唱団。チェコ・フィル。

「ドイツ・レクィエム」唯一の華ソプラノ・ソロ聞き比べ
ソプラノ・ソリストの人選は、その演奏全体の出来を大きく左右する。「ドイツ・レクィエム」においては、わずか一曲にしか過ぎないが、とても大切である。いろいろ聴いてみたがなかなか手放しで褒めたいソプラノはいない。今日は、私の独断と偏見からソプラノを吟味する。

癖のあるシュワルツコップ クレンペラー版
下品なジェシー・ノーマン テンシュテット版
透明だが個性に乏しいトモア・シントウ コッホ版
稚拙なバーバラ・ボニー ジュリーニ版
フレーズの後で押すルチア・ポップ シノポリ版
美しいキリ・テ・カナワ ショルティ版
気に入っているが発音悪しコトルバス マゼール版
叙情的なシュトゥーダー アバード版
声としては一番好きなオージェ チェリビダッケ版
怪しい清楚感ヤノヴィッツ カラヤン版

違いが出る第三楽章バリトン・ソロ
 第三楽章は、第六楽章と並んで内容的に「ドイツ・レクィエム」の中核を成す楽章だ。ここではバリトン・ソロによって「世の無常と人の命や栄華のはかなさ、むなしさ」が歌われ、それが神と信仰への希望へとつながっていく過程が描かれる。
 しかし最後のフーガのD音による持続は、最終的な解放を得るためには第六楽章のフーガまで待たなければならないことを暗示している。
 この冒頭のバリトン・ソロをノーテンキに歌われたらおしまいだ。けれど不思議なことに大部分の歌手が結構ノーテンキに歌っている。

天性の楽天家プライ マゼール版
ブレンデル シノポリ版
ヴァイクル ショルティ版
美声シュミット アバード版
深みのあるホッター フルトヴェングラー版
Gar nichtsの表現が良いジョージ・ロンドン ワルター版
決定的名演奏フィッシャー・ディスカウ ケンペ版

第六楽章テンポ設定
 3拍子からフーガに入るところで、テンポの設定で私は悩んだ。バレンボイムの演奏を聴くと最後のWo ist dein Siegで設定したテンポでそのままフーガに突入する。しかしそれでは、フーガ前で突然テンポが落ち、緊張感が持続しない。
シノポリのテンポ設定について。3拍子は速くて良いが、そのままのテンポで突っ込んだら、フーガ速すぎ!
崩壊ワルター版。テンポ速すぎてオケ失速。フーガに飛び込んだところで合唱先にのめっていき、オケとずれて崩壊。
ガーディナー版。軽やかなフーガのサウンド。最後のディミヌエンドの密かなテンポ・アップはパクりました。済みません!

デリカシーが分かる第四楽章
 この曲はドイツ・レクィエム全体の要である。シンメトリー構成の中心であり。台風の目である。緻密に作られているが、全体の印象は叙情的である。
 この曲のテンポ設定は簡単ではない。基本テンポの設定が遅いと重苦しくダサい演奏になる。しかし速すぎてもいけない。内容に添った適度なTempo rubatoが望ましい。最後は夢見るように終わりたい。

せせこましいコルボ。
かなりたるいシノポリ。
サウンド的にきれいなヘレヴェッヘだが、テンポの変化に乏しい。
フルトヴェングラーのテンポ感。緩急の振幅の激しさ。現代ではそのまま応用出来ない。
クーベリックのテンポ感。基本テンポの設定適切。途中で自由な変化もあり、フレキシブルで好演。

第三部 そして三澤洋史はどのような「ドイツ・レクィエム」を作りたいか?
 二千人近く入るサントリー・ホールでの上演では、今更小編成の「ドイツ・レクィエム」というわけにはいかない。東響コーラスの本番出演予定人数は175人。オケは低弦を厚くしたことからも分かる通り、ドイツらしい重厚なサウンドをベーシックに据えることは間違いない。
 しかし、いろいろな演奏を聴いて心惹かれるのは、やはりバロック系の指揮者の透明な演奏。ブラームスも本当はそれを望んでいたのではないかと思えて仕方がない。フーガなど声部がからみあっている箇所ではなるべく透明な演奏を心がけたい。リズミックな場所では軽快な感じも欲しい。

 ドイツの放送合唱団の演奏はどれもハイレベルでうまい。彼等はオペラ劇場の合唱団とは明らかに一線を画している。以前スェーデン放送合唱団をNHKホールで聴いたが、高い方はジラーレをしないで響きを逃がした独特の発声法だった。オペラチックに言うと「逃げている」発声だったが、こうした声は「ドイツ・レクィエム」ではプラスに働く。
 しかしドラマチックな箇所は、たとえばガーディナーのモンテヴェルディ合唱団では物足りない。部分的にはオペラチックな表現も取り入れたい。多い人数を逆手に取って、力んだり頑張りすぎたりしなくても、遠くまで飛ぶ声で劇性を表現したい。
「二兎を追う者は一兎をも得ず」と言われるが、自分は二兎を追いたい。すなわちオラトリオ的でありオペラ的でもある演奏。

 オケのサウンドに関しては、弦楽器、管楽器ともヴィヴラートの使い方に工夫をしてみたい。和声を奏するときは、ウィーン・フィルのように木管楽器もあまりヴィヴラートをつけずに。ソロはのびのびと・・・・。

 きれいで清潔で、同時にドラマチック。重厚で同時に軽いブラームス。なんのこっちゃ。
最後に重要な要素をひとつ。究極的な癒しの音楽を奏でたい。その為には自分のこれまでの人生、生き様が問われていると感じる。会場が暖かくしあわせな気分に包まれ、みんな一人残らずに「来て良かった!」と思ってもらえるような、そんな演奏会に絶対にしたい。

     Cafe MDR HOME


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