山本神父と過ごした最後の聖週間

三澤洋史

山本神父と過ごした最後の聖週間
「とうとうこの時が来てしまった」
と思って胸がいっぱいになった。

■3月27日日曜日。「復活の主日」ミサの閉祭の歌。キリストの復活の歓びに満ちた「アレルヤ!アレルヤ!」という歌声が、東京カテドラル聖マリア大聖堂いっぱいに響き渡る中、静かに司祭団が退場していく。祭壇の右側で指揮している僕の前を通って行く司祭団の行列の中に、山本量太郎神父の横顔が見えた。今日のミサの司式を最後に、山本神父はこの関口教会を去っていく。

■山本神父の歌ミサの声を、この聖堂で聴く事ももうないのか、と思うととても淋しい。僕がここに来てから、聖歌のテンポやニュアンスは、なるべくミサの流れに寄り添うように心がけてきたが、その規範となっていたのが、山本神父の作り出す歌ミサの流れだった。その流れにうまく乗れたときは、ミサ全体の密度が高まり、一般会衆の心がひとつに集まっていくのを感じる。その全ての歯車を動かす元のエンジンが山本神父であったのだ。
■今や関口教会聖歌隊は、山本神父の歌による、
「主はみなさんと共に」
という呼びかけに、
「また司祭と共に」
と答えるタイミングが絶妙となってきている。
■歌ミサとは、ミサを歌で彩るのではなく、“うた”という“祈りのひとつのかたち”で構成されたミサ。歌ミサのエキスパートである山本神父だからこそ、その認識を、一般会衆にも、聖歌隊にも、そしてそれを指揮する僕にも、自然に与えてくれたのだと思う。

■キャンバスの存在自体を否定するように油絵を重ねて塗りたくるだけが絵画ではない。キャンバスの素の色を残しながら、その色をも表現に使って、控えめな絵の具で仕上げる絵もある。前者がベートーヴェンやブラームスのような芸術音楽を演奏するあり方なら、後者は典礼の中での音楽のあり方だ。
■素のキャンバスとは、すなわち沈黙である。あるいは音楽のない唱えられる祈りの空間である。沈黙の中からふと浮かび上がる、沈黙を越えるもの。それが典礼音楽でなければならない。音楽を紡ぎ出す者にとっては、沈黙と対峙し、それを音楽に飛翔させるための覚悟がないといけない。また、音楽を奏でるということは、沈黙を打ち消す行為に他ならないから、その響き渡った音楽が、それまでの沈黙を破るだけの価値があったか、常に自己に問わねばならない。

たとえばひとつの例を挙げよう。

■聖金曜日、午後7時。白い祭服をまとった司祭団がゆっくりと入場する。聖歌は歌われず大聖堂の中は大いなる沈黙に閉ざされる。司祭団が中央の祭壇前に辿り着くと、彼らは全員祭壇の前でうつ伏せに身を横たえる。我々はひざまづいている。
■短い祈りの後、イザヤ預言書が読まれる。この晩の礼拝では、この朗読の後、初めて答唱詩篇が歌われる。それまで音楽は一切響かない。しかし、その沈黙のなんて新鮮なことか!なんて素晴らしい空間であろうか!だからこそ、答唱詩篇が近づいてくると、僕は、はっきり言って沈黙の前に気後れしている自分を認める。出来れば、この沈黙を破りたくない。
■しかしながら、今年はうまくいったと思う。オルガニストの青田絹江(あおた きぬえ)さんの周到なレジストレーションと弾き方のお陰だ。前奏が鳴った時に沈黙の充実感を壊さなかったし、聖歌隊の歌も内面的なものをたたえていて、うまく沈黙の空間から音楽的空間へと移行できたと思う。

■このように、典礼音楽に関わることは、通常の僕の音楽活動とは全く違う要素を要求されるが、よく考えると、その要素とは、もっと根源的なところでは音楽の原点ともいうべきものである。つまり、音楽を聴くことの究極的な行為とは、「沈黙を聴き、沈黙を味わう」ことにある。そしてそれは、必ず日頃の僕の音楽活動に還元される・・・いや、それを根本から変え、深化させていくに違いない。
■聖土曜日の「復活の聖なる徹夜祭」の礼拝は、洗礼式も合わせて、なんと2時間40分に及んだ。この間に、「光の祭儀」をはじめとして、どれだけ素晴らしい沈黙の瞬間があったであろうか。そして、毎回、その沈黙を破って音楽を奏でる時、僕の中に、「気後れ~躊躇~決意~アウフタクトの振り下ろし」という一連の精神的葛藤があった。それは、なんとシビアでいながら、なんとチャレンジアブルで・・・そしてなんてしあわせな瞬間であったことだろう。教会でなければ決して味わえないことだ。それは、演奏行為であると同時に、司祭と共に行う高度な宗教的行為でもあるのだから。

■そうしたことを学ぶきっかけを山本量太郎神父は僕に与えてくれた。どんなに感謝してもし過ぎることはない。ありがとうございました!まだまだ典礼に携わる者としては、頼りないことばかりなので、本当はもっともっと教わりたいことが沢山あったけれど、一応、心配されるといけないので、
「もう大丈夫です。あとは自分でなんとかやっていきます!」
と言っておきましょう。

■今、僕は、とてもすがすがしい気持ちで復活祭の歓びの中にいる。先週の「枝の祝日」から今日まで、こんな清らかな日々を過ごしたことは、これまでの生涯においてもなかったかも知れない。月曜日に名古屋のモーツァルト200合唱団の練習から白馬に渡り、スキーに集中して自分と向き合い、帰ってきてそのまま聖木曜日のミサに行って、復活祭のミサまで一気に駆け抜けた。スキーと典礼とは、僕の中では同質のもののようだ。
今、僕の心の中ではエネルギーがはじけそうだ。キリストが死の闇の中から甦った。心を新たにして、光の中を歩んでいこう!

スキーシーズン最後は白馬で
■3月23日水曜日、午後5時。白馬五竜ペンション・カーサビアンカの一室でこの原稿を書いている。人間の心の中に、たったひとつの感情だけが支配するということは希であるが、今ほど様々な感情が混じり合って玉虫色になっていることもない。
■午後4時。白馬五竜スキー場のとおみゲレンデを滑り降りて、スキー・センターであるエスカル・プラザに戻ってきた時点で、今シーズンの僕のスキーの日々は終わりを告げた。昨年の夏くらいから指折り数えて待ちわびていた輝ける時。それが過ぎ去ってしまったのである。これが嘆かずにいられようか!ああ悲しい!
■しかし、同時に感謝もある。昨年暮れ、お袋が倒れて、今年はスキーどころではないかな、と半ば覚悟もした。それどころか、僕自身だって、いつなん時、病気になるとか、事故に遭うとか分からないじゃないか。それが、とにもかくにも、つつがなく今シーズンを終えることが出来た。お袋も小康状態を保っている。神様、ありがとうございます!
■では、スキーの上達や達成感はどうだろう?これについては微妙。というのはね。正直言って、今ちょっとだけ落ち込んでいる。でも、これは悪い事ではない。まあ、かみ砕いて説明するね。


友情万歳

■今回の白馬での中2日間の午前中は、両日とも、親友のスキーヤーである角皆優人(つのかい まさひと)君の半日個人レッスンを受けた。角皆君は、奥さんの美穂さんをアシスタントにして、僕の滑りをビデオ撮影し、実地レッスン後は一緒にお昼を食べながらビデオ鑑賞会。それを見て、欠点やクセを指摘してくれた。
■彼は、こうしたことをFスタイルが主催するキャンプなどで行っているが、僕にとっては初めてであった。それは衝撃的であり、実地レッスンより何倍もインパクトがあった・・・・というより、ショックだった。下手なのである。ビデオの僕ったら、なに、あれ!・・・・エーン!泣きたい!
■まあ、よくあるわな。自分の演奏を後でCDなんかで聴いてガクッてくるやつ。昔は僕もあったよ。でも、音楽の世界では、長い間プロをやっている内に、だんだん冷静な自己分析というのが出来るようになってきて、自分に過度に期待しないし、自分の欠点はすでに分かっているので、今さらCDを聴いてショックを受けるようなことはない。
■ところが、スキーに関してはまだまだ「甘ちゃん」なんだね。自分は、まあそこそこ滑れると思っていたわけだね。甘いねえ。要するに、その自己評価がガラガラと崩れ去ったわけだな。はっはっは!悔い改めよ、このうぬぼれ野郎!あ、自分のことか。
■いえいえ、角皆君はやさしいから、ビデオ見ながら僕のこと怒ったり罵倒したりすることは決してしない。映像をスロー・モーションにしたり、止めたり、バックしたりして、欠点は指摘するが、同時に一生懸命良いところを見つけては褒めてくれる。しかし映像は正直だ。一瞬で分かる。とにかく下手。カッコ悪い。最低!見ちゃおれん!

■人間というのは、案外左右差というのが大きいのだね。僕の場合、右ターンはいいのだが、何故か、左ターンの仕上げで、右のストックを突く瞬間の切り替えがうまくいかない時がある。そんな時は、外足への乗り方が甘く、中途半端に内足に乗ったまま、時にはストックより早く切り替えようとしてしまう。そうすると体勢も内傾気味になってしまう。
「ストックを突く~重心移動をする~次のターンが始まる」
ほとんど同時にも感じられるこの3つの動作だが、わずかでもタイミングや順番が狂うと、すべてがちぐはぐになってしまう。
「スキーのターンは、音楽で言えばフレージングだ」
なんて偉そうなことを言っている張本人が、整地でのターンすらきちんと出来ていないのだから、いやんなっちゃう。自分の音楽的フレーズだって、怪しいものだよ。

■でも、こうやって次の課題を嫌がおうなく提示されるというのは、ある意味しあわせなことだ。左右差だって、ビデオ観てガッチョーンという感じでショックは受けたけれど、普通に日常生活していたら、そんな左右差を指摘されることもなければ直す必要もない。スキーをしているからこそ、自分の体のクセと向かい合うことを余儀なくされるわけだ。自分って、自分の体のことをこれだけ知らないんだな、と気付くわけよ。
■それに、直されても、「はい!」と簡単には直らないってことも思い知らされる。左右差については、その後の自主練習でかなり矯正されて、整地ではほとんど目立たなくなったが、2日目のコブ・レッスンで、自分に余裕がなくなってとっちらかってくると、再び顔を出す。長い間織り込まれた肉体のクセは実にガンコなもんだ。もしかしたらDNAにまで織り込まれちゃっているのかも知れない。
■こんな風にスキーには果てがないが、それは同時に、スキーに関わる自分に果てがないと言うことも出来る。それって素敵だよね。僕は今、落ち込んではいるが、決してネガティブな心理状態ではない。だって、下手なのが分かったんだから、そこを改善したらうまくなれるということだ。
■そうだ、自分は、もっともっとうまくなりたいし、うまくなれるんだ。上達意欲のない人は、落ち込むこともしないだろう。自分の映像に酔いしれて、角皆君の忠告を、まるでいわれなき中傷のように感じられる時が来たら、その時こそ、僕はスキーをやめるべきだね。つまりそれは、スキーが僕を堕落させているということだからね。

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