常駐する劇場とエキスパート達

三澤洋史

劇場の日常に戻りました
■びわ湖ホールの「さまよえるオランダ人」で、新国立劇場の外でオペラの仕事をしていたが、久し振りにいつもの仕事場に戻ってきた。すると、それまで当たり前だった事がいろいろ新鮮に感じられて面白い。まず、一度定期券を買ってしまえば交通費を使わなくていいし、初台駅から雨に濡れないで仕事場に入れるなんて夢のよう!そして、自分のデスクがあって、稽古場と劇場空間が同じ屋根の下にあるんだ。なんと恵まれた環境!

■劇場では、「ウェルテル」が初日を迎え、同時に「アンドレア・シェニエ」の立ち稽古が始まっている。「ウェルテル」では、6人の子供役が登場する(TOKYO FM少年合唱団)が、第4幕で、絶命するウェルテルとかぶって、舞台裏からクリスマスの歌を歌う少年合唱の歌を補強するために、8人の新国立劇場合唱団のソプラノ団員が雇われている。
■彼女たちは、衣裳もないし、僕も終わってからカーテンコールに出るわけではないので、まあある意味気楽ともいえるけれど、悲惨な室内での成り行きなど何ひとつ知らぬ無垢な児童合唱の響きがコントラストとなって、舞台上の悲劇性をいっそう強調するマスネのドラマトゥルギーの見事さを考えると、きちんと取り組まないといけない。
■ドラマのクライマックスでもあり、オーケストラの響きが厚いので、大人の声でサウンドを補強するのが一般的であるが、6人の少年合唱の音色と溶けあい、全体として子供の声に聞こえないといけないのだから簡単ではない。ハーモニーの美しさとピュアな音色を決して逸脱してはならない。ちなみに、舞台裏でもマイクは使用しておらず、距離感を持ちながらしっかり生声で客席まで届かせている。

■それにしても、この公演はかなり高水準に仕上がっている。なんといってもウェルテル役ディミトリー・コルチャックの歌が素晴らしい。僕の大好きな「何故私を目覚めさせるのか?」のアリアを惚れ惚れするような美声とフレージングで見事に歌い切った。
■ウェルテルにはぴったりの音色で、音程がすべてピシッと決まっているのがいいな。こういう音楽的で知的な歌手はなかなかいないのだよ。特にテノールには(笑)。彼は、二転三転した降板劇の末の登場となったが、結果として、一番良い人が来たのではないかな。
■指揮者にも降板があった。本当は高齢なミッシェル・プラッソンのはずだったが、転倒して右腕を骨折してしまったため、稽古始めからアシスタントとして参加していた息子のエマニュエル・プラッソンが急遽父親の代わりを務めることになったのだ。しかし、彼は手慣れたもので、決して代役という印象ではない。東京フィルハーモニー交響楽団から、マスネ特有の艶やかな音を引き出している。なかなかの逸材。
■やっぱり、ヨーロッパって凄いな。もし日本で、誰かが急遽降板しなければならないような事態になったとすると、カバーやアンダー・スタディを立てていなければお手上げだ。「椿姫」や「カルメン」はともかく、いきなり「ウェルテル」の主役や指揮を出来る人材なんて、そう探せないものな。
■とにかく、相次ぐ降板で、チケットを買った人達を不安にさせたかも知れませんが、仕上がった公演のレベルは保証します。是非、劇場に足を運んで下さい。

常駐する劇場とエキスパート達
■さて、「アンドレア・シェニエ」立ち稽古では、あらためて目を丸くした。手前味噌のそしりを覚悟で言うが、現在の新国立劇場のスタッフのレベルと合唱団のレベルは、間違いなく世界のトップレベルだと思う。もしかすると世界一かも知れない。

■演出家、フィリップ・アルローの回り舞台を駆使した演出は、とても複雑だ。回り舞台がまるでメリーゴーランドのようにぐるぐる回る真っ最中に登場や退場をしなければならなかったり、回り舞台の中で演技をしている人達と、そこからはずれて登場してくる人達との立ち位置の摺り合わせやタイミングを考えなければならなかったりする。
■イメージ出来ますかね?
「回り舞台がここまで回って来たら舞台に登場してください」
と言われて入ったら、回り続ける舞台の中で、もう自分の立ち位置がずれているんだ。それで別のところに歩かされて向きを変えさせられたら、自分がもうどこにいるか分からなくなっちゃうのが普通だ。こちら側に退場して下さいと言われても、
「え?どこよ?」
となるだろう。
■こんな風に回り舞台ほどイメージしにくいものはない。それだけではない、アルローの演出は、人の動きや出入りがとっても複雑なんだ。合唱団は、第2幕前半なんて全く歌がないのに、ずっと出ずっぱりなのである。

■その、超複雑な舞台の稽古をするのに、立ち稽古の稽古場では全員が乗れる回り舞台を組むことなど不可能なので、場面毎に道具を飾り直してから区切って稽古するしかない。その移行に関しては、頭の中でイメージするしかないわけだ。
■結構、お手上げって感じでしょう。ところがね、我が新国立劇場の舞台監督の「チビタ」こと斉藤美穂さんと、演出補の澤田康子さんの黄金のコンビが、素晴らしい連係プレイで信じられない速さで稽古をつけていくのだ。彼女たちは、舞台模型や紙で作った回り舞台の模型などを駆使して、みんなに丁寧に説明していく。それがとても分かり易い。
■しかも彼女たちは、
「今は全部分からなくてもいいですよ。あとでもう一回説明するからね。なんとなく、そういう動きがあるんだなあと思っていてくれればいいからね」
と全体的なことを掴ませておいてから、後で、個々の場面の個々の場所にいる人達をつかまえて、もう一度説明する。
「この音楽が鳴ったら、あなたたちはこっちに行くよ。その時に、あのグループが来るから、通らせてやってね。それから、あなたはこの椅子を持ってあっちに行くのよ。あなたは、この椅子を・・・・」
という具合に、個人個人の細かい動きまで指示する。

■そうした手際も素晴らしければ、そもそもこの複雑な群衆の流れを、彼女たち二人は、よくぞここまで頭に入れているなあと、その記憶力にまず驚いてしまう。その背景には、このスケジュールの中で、この水準までは絶対にやってみせるという信念と熱意がある。そして人の見ていないところでの勉強と努力がそれを支えている。まったく頭が下がる。

■新国立劇場合唱団のそれぞれの演目の人選は、全て僕がひとりで行っている。特に再演演目の場合は、なるべく経験者を優先して人選する。それが、こうした複雑な演出では必要不可欠なのだ。しかし、どうしても初心者が何人か混じることになる。その場合、経験者の立ち位置はそのままにしておき、初心者は、
「前回の誰さんのところにあなたが入ります」
という風に初心者を前任者の位置に当て込む。すると、面白い事が起こるのだ。
立ち稽古が進む内に、経験者がだんだん色々な事を思い出してくる。たとえば、
「前回、隣にいた誰ちゃんと、ここでコンビを組んで会話していたな」
とか、
「誰ちゃんは、ここでこんな表情でこんな演技をしていたよ」
とか、かなり具体的なことまで思い出すのだ。それが初心者をどれだけ助けることか。
■再演では、時間がないので、なかなか合唱団のひとりひとりの細かい演技指導までは出来ない。立ち位置と、全体にどういうコンセプトで演技するのかということを指し示すだけで精一杯なのだ。しかし、合唱団のメンバー同士での細かいケアが、それを補い合って、舞台稽古が進んで行く頃には、かなり初心者達の演技もサマになってくるのだ。
■再演は、初心者にとっては、本当に大変だと思う。音楽稽古は、それなりにとるけれど、立ち稽古の回数が圧倒的に少ない。しかも、合唱枠で押さえてあっても、ソリストの立ち稽古が間に合わなくて、休みになることも多い。あっという間に通し稽古が来て、舞台稽古に突入して、初日が来てしまう。

■でも、現在の新国立劇場合唱団の舞台感覚と、演技に対する適応能力は、お世辞抜きで世界一だと思う。初演の演出でも、演技のコンセプトが説明されて、さあやってみようと音楽付きで立ってみると、もう合唱団のひとりひとりは演技をしている。二度目には、隣の人との共同の演技に発展しているし、それぞれの演技が深まっている。
■僕は、立ち稽古のはじめにはあえて音楽的指示を出さない。僕が練習をつけていたテンポと、新しく来た指揮者とのテンポが違って、多少ズレても放っておく。みんなはズレたのは分かっているし、まずは演技をこなさないといけないから。
■それで、ある程度形が出来上がってくると、しかるべきタイミングを見て、僕の方から音楽的指示を出す。すると彼らは演技しながらきちんと直してくれる。そうやって、演技的にも音楽的にも、どんどん積み上がっていき、演技が音楽の面にも影響を投げかけ始める。切迫した場面では、音楽的にも切迫感が出てくるし、声の出し方ひとつとっても、演技が付いた方が音色や表情がふさわしいものになってくる。そうしたものがしだいに出来上がってくるプロセスに立ち会うのは、合唱指揮者のこのうえない楽しみである。
■僕は、勿論合唱指揮者として、
「ほら、こういう場面だからこういう歌い方をしなさい」
と指示を出すことを厭わないが、本当の理想は、合唱団員のひとりひとりがそうしたことを感じてくれて、僕が何も言わなくても自分たちでドラマに合った歌唱が出来るようになること。つまり、合唱指揮者が要らなくなるような状態が理想なのだ。でもね、今の新国立劇場合唱団は、結構それに近い状態にあるよ。

■こうしたことを可能にしているのも、新国立劇場が常駐の劇場であり、新国立劇場合唱団が常駐の合唱団であるお陰だ。特に再演をこのピッチで仕上げに持って行けるシステムを持っているのは、我が国では唯一ここだけだ。
■それにしても、チビタや澤田さんのようなエキスパートにリスペクトを持ちながら仕事が出来たり、合唱団の成長を喜びながら仕事している僕の毎日って、どれだけ恵まれているのだろうか。僕は、自分の著書で、マイルス・ディビスこそ究極の指揮者の姿だと書いたけれど、自分と一緒にプレイする音楽家が、自分を超えて、自分が尊敬できるレベルにまでならないと満足しなかったマイルスは、とどのつまり、最もしあわせな音楽家だったのだと確信するね。
■誰かを尊敬しながら生きるのって、人間(特に音楽家)の持つべき最も大切な感情だ。それは、究極のプラス指向であり、人を体の内側から健康にし、生きる希望を与え、自分をしあわせにし、そしてそのしあわせ感が波動となってまわりに撒き散らされるから、まわりの人達をもしあわせにする。
■ただ、それは簡単ではない。嫉妬のない人間だけが、それを成し得る。また、自分に自信が持てるだけ努力しなければならない。若い頃の自分には、まだ不安や、勝ったとか負けたとかいう感情や、様々なやっかみやジェラシーなどがあり、こんなにシンプルな精神状態にはなれなかった。そういう意味では、歳取って良いこともあるのだね。
■若い音楽家には言っておきたいね。とにかくこの世界で生き残ること。そして努力し続けること。そして最後には自我を捨てること。そうすれば、僕くらいの歳になると、何かがストンと落ちて、肩の力が抜けるんだ。

■久し振りに新国立劇場に戻ってきて、自分はこんなしあわせな環境にいたんだ、とあらためて気付かされた今日この頃です。
「アンドレア・シェニエ」に関しては、過去に書いた原稿があるので、載せておきます。オペラの説明だけでなく、アルローの演出意図にも言及しているが、今読み返すと、パリの無差別テロなどの事件ともかぶって、民主主義について、あらためていろいろ考えさせられるなあ。

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