なんだか多忙な今日この頃

三澤洋史

モーツァルト最後の5年
■東京バロック・スコラーズの東日本大震災復興支援チャリティーコンサートが近づいている。実際には、この演奏会を決めた後、熊本で大地震が起きたので、みなさんからいただく寄付金の半分を熊本の方に送ろうということになった。
■この演奏会のタイトルは「モーツァルト最後の5年 晩年? 新境地?」というちょっと謎めいたものだ。これは、バッハの学者としても著名なクリストフ・ヴォルフ氏が最近出した本、礒山雅訳「モーツァルト最後の4年」(春秋社)からアイデアをいただいた。
■モーツァルトは、彼の生涯の終わり近くになって、しだいに作風を変化させてくるが、それは彼が死を意識してくる「晩年」の境地からくる、というのが、これまでの一般的な受け取り方であった。
■それにヴォルフ氏は異を唱え、それはむしろ、モーツァルトが、彼の天才性をもって切り開いた新境地であると考えた。その最中に、モーツァルトは不本意に死を迎えてしまったというわけだ。
■さて、演奏会の前に、僕はあえてネタバレをしてしまおう。僕の見解はこうだ。ヴォルフ氏の研究には最大限の敬意を払う。そして、かなりの部分を僕は受け入れている。しかしながら、それでもなお、たとえば1791年すなわち彼の死の年の作品群を見ていく限り、僕には作品の中に、しだいに忍び寄ってくる死の匂いが感じられ、やはり弱冠35歳で他界した彼にも、「晩年」と呼ばれるものがあったと思うのだ。
■その予兆のようなものは、「最後の4年」ではなく、いくつかの傑作歌曲を書いた「最後の5年」すなわち1787年に始まるような気がする。今回、演奏会の冒頭に、國光ともこさんの歌う「夕暮れの情緒」KV 523を冒頭に持ってきたのもその理由からだ。6月17日午後、國光さんと合わせ稽古をしたが、この陰影のある歌曲を國光さんは見事に描き切っている。やはり、僕が見込んだ通り、内面的な優れた歌手である。

Ave verum corpusとシスター森という逸材
■この演奏会の第2部で、やはりモーツァルトの死の年1791年に作曲されたAve verum corpus KV 618という、短いながら合唱曲の超名曲が演奏される。この訳詞をめぐっては、とても有意義な議論が行われ、大変勉強になった。このテキストの最後のフレーズは、文法的に複雑なところにもってきて、教義的にも難解で、沢山の訳が出回っているそのほとんどが誤訳といっていいものである。
■実は、恥ずかしながら僕も誤訳をするところであった。歌曲のドイツ語に対してはある程度自信のある僕も、ラテン語となると、やはり辞書あるいは文法書を片手に訳さないと心許ない。Ave verum corpusの最後のフレーズは、あまりに難解なため、手に負えず、巷に出回っているいくつかの訳を参照にしながら、こんな感じかな、と安易に訳してしまった。
■それに異を唱えたのが、我がTBSの団員で、援助修道会というエリート修道会のシスター森裕子さんであった。元々国立音楽大学楽理科を卒業した彼女は、ラテン語に精通しており、丁寧に説明してくれたのだ。以下、その要約を示す。

■問題の文章とは最後のフレーズ。以下のものである。
Esto nobis praegustatum in mortis examine.

estoは、be動詞の2人称単数・未来命令形。
nobisは、「私たちに」。
praegustatumは、praegustare(前もって味わう)という動詞の過去分詞。
mortis examineは「死の試練」で、inは、英語のin outのinではなく、むしろatとかに近い「~において」という意味。

■という材料が揃ったところで、さて料理にかかりましょう。esto(be動詞)は、2人称に対する未来命令形ということだが、その命令する相手である「あなた」とは、「まことの御からだ」である。
■つまり、「まことの御からだ」に対して、あなた自身が、「前もって味わわれるものとなってください」ないし「前もって味わわれてください」と命令ないしは懇願されているというのが自然な直訳であると、シスター森は指摘する。
■しかしながら、「私たちに味わわれてください」などという受動態的表現は、なかなか日本語として理解しがたい。それならばむしろ「私たち」を主語のように扱い、「私たちが味わうことができますように」とした方が、「こなれた」表現であろう。
■ということで、次のものが、シスター森の最終的な訳となった。ここに全文を記す。

Ave verum corpus
めでたし、まことの御からだよ。
natum de Maria Virgine.
おとめマリアから生まれ、
vere passum immolatum in cruce pro homine:
人間のために、まことに苦しまれ、十字架に架けられて捧げられた方。
cujus latus perforatum
その刺し貫かれた脇腹から、
unda fluxit et sanguine.
水と血とを流された方
Esto nobis praegustatum in mortis examine.
あなたを拝領し、
私たちは死の試練において、
前もってあなたのいのちを味わうことができますように。
■その「あなたのいのち」であるが、「まことの御からだ」すなわちキリストの体は、受難を受け、死んで葬られ、3日目に甦り、そして天にあげられたわけであるから、その全てを味わうという風に解釈するならば、「天上の歓びまで死の試練の最中に前もって味わう」という風にまで拡大解釈することも不可能ではない。

■さて、この訳だけでは、信者の方が圧倒的に少ない団員達の本当の理解が得られるかどうか分からなかったので、僕はさらにシスター森にお願いして、団員向けの説明文まで書いてもらった。シスターの許可を得て、ここにその説明文を特別に記してみる。
(以下、シスター森の文章)
《Ave verum corpus》のテクストを、私がどのように理解しているか、お分かちします。文章の流れの都合上、皆さまの既知のことも多々含まれていると思いますし、教会内部にしか通じないような奇怪な表現もあるかと思いますが、どうぞ、歌のじゃまにならない程度に読み流してくださいませ。

■「まことの御からだよ」と呼びかけているのは、ミサの中でキリスト信者が、パンとぶどう酒を食するという〈シンボル〉の形で表現しているキリスト・イエスのからだのことでしょう。ここでは《Credo》の中の「子」イエスに関する文言のダイジェスト版のように、イエスがどういう存在なのか、その要点が述べられているように見受けられます。キリスト信者は、イエスがそのように人生を通して、特にその死を通して、神と人との和解のために、またそれによって人々を十全に生かすために、自分のすべてを捧げ尽くしたのだと伝え聞いて信じる者ですが、いわゆる「聖体」を拝領するのは、そのようなイエスを受けとめ、イエスの成し遂げたことが、今地上にある者たちのうちにも実現するようにと願ってのことです。それが「前もって味わうpregustare」ということばが指し示していることではないかと考えられます。
■なお、イエスの脇腹から水と血が流れ出たことは、バッハ《ヨハネ受難曲》ではエヴァンゲリストが歌う通り、『ヨハネ福音書』19, 34に書かれています。古代教会の(教父と呼ばれる)文筆家たちは、イエスの脇腹から流れ出た水と血に教会の始まりを見て、洗礼と聖体が暗示されていると解釈しました。《Credo》には含まれていないことであっても、《Ave verum corpus》のテクストの中で言及されるのは、この歌が聖体賛歌であるがゆえの特徴であると思います。
■またこの《Ave verum corpus》の歌詞が生まれた中世(14世紀くらい?)においては、現代よりも、死がいっそう身近にあったのではないかと思います。それゆえに自分の死を思い、その死の試練の時にはぜひとも、イエスが成し遂げたこと(その結果である和解といのち)を十全に味わうことができますようにと祈ることは、より切実であったのかもしれません。


S. 森 裕子


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