ああ「ナディーヌ」

三澤洋史

ああ「ナディーヌ」
■「ナディーヌ」の合唱団員に、カトリック関口教会聖歌隊から参加した女性がいる。ナディーヌに会えなくて沈んでいるピエールが、路傍の花フローラを発見して話しかけているところを通り過ぎ、不審な眼差しを向ける姿がとってもウケたYさんである。
■昨日、関口教会で彼女と話していたら、ご主人の仕事の転勤でパリに駐在していたことがあり、舞台がパリだということで、「ナディーヌ・プロジェクト」に加わったそうである。僕が驚いていたら、他にもパリを訪れたりパリに住んでいて、パリが好きで参加していた人が少なくなく、練習の合間にパリの話題で盛り上がっていたという。やっぱり、パリという街は、そういうところなんだな。

■いろいろ思い返してみたら、「ナディーヌ」という物語が生まれるきっかけになったエピソードに思い至った。もう完全に忘れていた話なんだけど・・・。

■長女の志保がパリに留学して間もない頃、東のはずれNation駅に近い12区Dr. Arnold Netter大通り沿いのアパルトマンに住んでいた。ある時、電話で話していたら志保がこういう話をした。
「家のドアがオートロックで、夜中に締め出しをくって入れなくなっちゃったんだ。朝にならないと管理人さんは来ない。それで、泣きたい気持ちになったけど、どうしようもなくて、ドアの前でひとりでうずくまっていた。しばらくしたら、隣の部屋のお兄さんが帰ってきて、どうしたの?て聞いてきたから、理由を話した。そしたらね、そのお兄さん、3階なのに、なんとコンクリート伝いに窓までたどり着いて、窓から入ってドアを開けてくれたんだ!」
■それを聞きながら、最初はそのエピソードを物語にしようと思ったんだ。そこで恋が芽生えてね、二人で楽しくパリの街を闊歩するラブストーリー。そういう意味では「素敵な妖精」という曲の萌芽は、もうその時にあったのだと思う。結末がハッピーエンドか悲劇に終わるかなんて、その時はまるでノー・アイデアだったけどね。
■志保は、別にそのお兄さんと恋に陥ったりはしなかったし(笑)、ドアの前でじっと待っているのは舞台ではあまり絵にならないので、僕の新作品のストーリーは二転三転していった。でも、ラブストーリーを書こうと思ったモチベーションが、あの時に生まれたのだけは間違いがない。

■以前書いたけれど、モンマルトルの丘で哀しい別れをする男女を描こうと思い至ったのは、パリの空港を中心に起きた大規模なストライキで、バイロイトに飛ぶことが出来ず、意気消沈してモンマルトルの丘の夕暮れにたたずんだ時だ。
■毎年6月20日から始まる祝祭合唱団の練習に先立って、6月17日に日本からパリに飛び、志保のアパルトマンに2泊してから19日の午前中にニュルンベルク空港に飛び立とうとしていた。志保は、期末試験の途中で、家で必死になってピアノをさらっていた。
■17日の夕方に着いて荷物を解くと、すぐに僕はひとりでパリの街に出かけていった。ワンルームのアパルトマンに、グランドピアノとベッドを置いている志保の部屋は、歩くのもままならないほど狭い。それに志保がピアノをガンガン弾くので、とてもいられない。僕は、ゆっくり街並みを歩き、Nation駅の近くの広場のカフェに入ってグラス・ワインを注文した。そのおいしかったこと!ああ、ここはパリだ、と妙に感動した。
■まあ、「ナディーヌ」の中に出てくるカフェのモデルは、残念ながらそうした伝統的なカフェではない。本当はスターバックスなんだ。ほら、ピエールが、
「近くにカプチーノがおいしい店があるんだ」
とナディーヌに言うだろう。あのアイデアは、トム・ハンクスとメグ・ライアン主演の「ユー・ガット・メール」という映画の中に出てくる会話から取った。あれはニューヨークが舞台だけれど、あの映画が出来た頃は、きっとスターバックスが流行りだした頃だったのだろう。映画の中で“スターバックス”と言っていたのが妙に印象的だった。宣伝料もらっていたのかね。そしたらすぐに日本にスターバックスが現れたのでびっくりしたよ。伝統的なパリのカフェでは、カフェ・クレームはあってもカプチーノはない。

■第3幕冒頭では、夕暮れのモンマルトルの丘に教会の鐘の音が響き渡ってくる。それは本当にそうなんだ。舞台のようにあれほど重なり合って響いてはいないけれど、丘の上でぼんやりしていた僕が、「トスカ」の鐘の音の場面を思い出したのは間違いない。だからピエールにあのセリフをしゃべらせた。

ほら、教会の鐘の音が聞こえる。早い鐘、ゆっくりで低い鐘。遠くからかすかに聞こえてくるまばらな鐘。カヴァラドッシはこんな気持ちでいたのかって、よく分かる気がする。僕も・・・・、僕も処刑の時を待っているのさ。

■ああ、言い出したらきりがないが、どの場面にも僕のパリ体験が感じられるし、僕のパリへの愛が溢れている。公演に来てくれた人達の感想に、
「パリの情景が途切れることなく続いていたのは良かったです」
というのが少なくなかったのも嬉しい。

■東京バロック・スコラーズでも志木第九の会でも、行くところ行くところ、合唱団として参加してくれたメンバーがいて、みんな、
「ナディーヌ・ロスから抜け出れないんです」
と言ってくれる。














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