フリッツァの「椿姫」

三澤洋史

フリッツァの「椿姫」
■リッカルドとの久し振りの再会はハグで始まった。フリッツァはちょっと太ってちょっとおじさんになっていた。しかし、最初に遭った時のような“生意気なあんちゃん”という感じはもう全然なくて、それどころか巨匠の雰囲気すら醸しだし始めている。

■イタリア・オペラは単刀直入がいい。そこにカンタービレの要素が加わればいうことがない。フリッツァはその両方を備えている。
最初の稽古の後、ポツリと言った。
「やっぱりお前の合唱はいいな」
「お前の音楽作りもいいよ」

■第2幕第2場の立ち稽古。舞踏会の余興としての闘牛士達の合唱が終わり、拍手喝采のところにアルフレードが乱入してくる。一同、
「アルフレード!君か!」
と驚く。その瞬間、
「合わない!」
と大きな声でフリッツァが叫んだ。舞台後方から入ってくるアルフレードに気づきながら歌うので、どうしてもみんな後ろ向きになってしまうのだ。
「どうにかしろ!」
そこで演出補の久恒さんが、
「歌い終わったらすぐにみんな後ろを向いて下がっていこう、そこにアルフレードを発見して、歌う時は前を向いてください」
とプチ修正をしてくれたので、なんとかことなきを得た。

■こんな風に、時々急に独裁者然と振る舞うが、僕たちは慣れている。オペラ指揮者というのは、このくらいでないと、我が儘な歌手達を従えて統一のとれた音楽を構築できない。
変にまわりに気を遣って自分の音楽の筋を通せない指揮者よりずっと良い。

■今回は、ピアニストに娘の志保も加わっている。2年前、彼女が新国立劇場のオーディションを受けると言ったので、
「やめときな。親の七光りってすぐに言われるんだから。二期会で弾いていればいいじゃないか」
と言ったが、父親の言うことをきかず勝手に受けた。それで公に通って、今は「椿姫」と次の「薔薇の騎士」のプロダクションに入っている。
■フリッツァが難しい奴だという評判は、僕から聞くまでもなく彼女の耳にも入っていたので、立ち稽古初日にはとても緊張していたが、どうやら気に入ってもらったようでホッとしている。

■ピアノ付き舞台稽古に入ってからの休憩時間。僕がオケピットから出てきたフリッツァに音楽的なことを聞きに行ったら、そのまま僕をつかまえて、ピット内でピアノを弾いていた志保も呼んで、スマホで自分の娘と奥さんの写真や動画を自慢げに見せてくれた。
■娘はまだ6歳なのに、動画でグノーの歌劇「ファウスト」の「宝石の歌」をフランス語で歌っている。志保が、
「フランス語分かるんですか?」
と聞いたら、
「なあに耳コピーだよ」
と言う。志保も僕と同じイタリア語の先生についているから、簡単なイタリア語は分かる。
■奥さんはソプラノ歌手。
「2011年に俺が指揮していた『マノン・レスコー』の後、『コシ・ファン・トゥッテ』のフィオルディリージで来日するはずだった。でも、あの東日本大震災で『マノン・レスコー』公演もつぶれたし、妻も来日キャンセルしたんだ」
「この先来る予定はないの?」
と聞いたら、こう答えた。
「ないね。というか、俺もないんだ。お前の劇場が呼んでくれないからさ。新しい芸術監督の大野(和士)とは同じ時期にメト(ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場)に呼ばれたので、お互い知っているのにな。もしかしたら俺があんまり素晴らしいので敬遠してる?」
多分そうではないと思うけれど、黙っておいた。

■舞台稽古が始まる時、僕は訊ねた。
「あのさあ・・・ペンライトのことだけど・・・」
かつて、ペンライトでモニタ-・テレビを見ながら客席後方から合唱のフォローをするために指揮をしようとする僕に対して、
「それをやめろ!みんなは俺だけを見るんだ!」
と言い放ったフリッツァと大喧嘩したのが昨日のことのよう。しかし彼は、
「本当は嫌だ。でも、まあ、様子を見よう」
と言った。そして、舞台稽古の間、彼は一度も後ろを振り向くことはなかった。もうこのことで彼と戦うことはないのだと思うと、安堵と同時にちょっと淋しくもある。いやいや・・・そんなノスタルジーに浸っている場合ではない。
■ピアノ付き舞台稽古の最終日。合唱団が演技につられてちょっと遅れた。すると、通し稽古が終わって会ったら、
「おい、合唱遅れたぞ!」
と言い残して帰りやがった。だから、ペンライトのことは解決したけれど、フリッツァとの戦いは終わったわけではない。合唱はきちんと責任をもって仕上げなければ・・・。

■とにかくフリッツァ指揮する「椿姫」公演は、ピシッと締まった良い公演になる確信がある・・・・と、ここまで書いて、僕はこの原稿をコンシェルジュに送り、外出して新国立劇場に出掛けたのだけれど、今日(11月13日月曜日)のオケ付き舞台稽古のフリッツァがあまりに素晴らしかったので、早速コンシェルジュにメールを出して、
「すみません、先ほど原稿を出したのですが、フリッツァのことを書き足したいので、あれボツにしてください。夜書き直してあらためて原稿送ります」
と言ったのだ。

それで今は、夜の10時。

■キビキビとしたテンポ感、というかドライブ感。しかしながら、そこから立ち登る“うた”。情感、激情、希望・・・そして絶望。ヴィオレッタのときめき、そして運命に翻弄される哀しみ。全ての感情が生き生きと劇場空間に息づいている。ヴェルディはこうでなくっちゃ。フリッツァと知り合ってよかった。

きみは赤ちゃん
■川上未映子さんというと、以前村上春樹氏との対談本である「みみずくは黄昏に飛びたつ」(新潮社)を読んで、頭の良い人だなあと思っていた。川上さん自身が村上氏の本を相当深く読み込んでいて、村上氏本人も意識していないようなことを突っ込んで聞いて来て、本人に、
「え、そんなこと書いたっけ?」
と言わせたりしていて、ある意味とても痛快だったりした。
■もっとも、その村上さんも小澤征爾さんとの対談では、同じようにいろいろ突っ込んだ質問して、小澤さんに、
「いやあ、そこまで考えたことないなあ」
なんて言わせて、こっちも痛快だったけれど。

■それで、「みみずく」を読んだ後、ずっと川上未映子さんの小説を読もうと思っていた。今回の京都の旅は、四条烏丸のダイワロイネット・ホテルに泊まっていたので、僕はお気に入りの四条通り沿いのジュンク堂に何度も通った。そこでふと川上さんの「きみは赤ちゃん」(文藝春秋)を見つけて、立ち読みした。
■その時は買うつもりはなかった。けれど、気が付いたら一階のレジーに並んでいた。それで、ロームシアター近くのスターバックスや、鞍馬寺に行く途中やなど至る所で少しずつ読んで、京都に居る間に読み切ってしまった。
■だから本当は、先週の「今日この頃」に書こうと思ったのだが、そうでなくても竹下さんのことやフランス詩のことなど、いろいろ書くことがあったので今週に回したというわけである。

「どうして三澤さんがこんなの読むの?」
と言われそうな本である。つまり、これは小説ではなく、ひとりの女性の妊娠から出産を経て、息子が一歳の誕生日を迎えるまでの育児日記である。
■ところが、まずめっちゃ面白い。というか、彼女の文章に惹かれた。一般的に言って、模範的な文章ではない。知的とか構築性のあるとかいう文章の真逆である。しかし、このズラズラと垂れ流し的に続く文章が、スルッと直接的に心に入ってきて、彼女の心情がまるで自分にそのまま映し出されるように赤裸々に迫ってくる。
■文章には映像がないから、通常は、読者が知性を使って文章を読むと、それが印象や連想を喚起し、心象風景として変換され、心の中に映像を刻む。それはとても知的な作業のはずなのに、川上さんの文章は、そのまんま僕の感情となり映像となる。これは、それだけで凄い才能なのではないだろうか。とはいえ、ぶっちゃけた話、変な文章だ(笑)。


きみは赤ちゃん

■結論から言うと、全ての男性に読んでもらいたい本だ。僕はこの本を読んで、オーバーに言うと、初めて、
「へえ?女の人ってこんなこと考えているんだ・・・」
と理解した気がする。
たとえば、お産の後母親の精神状態がおかしくなる産後クライシスの描写。
そらそうやで。人間をおなかのなかからひとりだして、不眠不休でお世話して、おまけに家事とか仕事とかそういう日常の要素もたんまりあって、そこに赤ちゃんの生存と責任と緊張が、際限なく母親にのしかかってくるのである。
(中略)
それにくらべて、父親はどうよ。
ちょっと手伝っただけで「イクメン」とかいわれてさあ、男が「イクメン」やったら女の場合はなんて呼べばいいのですか。そんな言葉ないっちゅうねん。
(中略)
だいたいさ、夫が家事とか育児とかをする場合、「やってくれてる」って言いかたがあるけれど、あれっていったい、なんなのだろう。
(中略)
だからあべちゃんがオニのうんちとかを処理しているのが目に入ると、自然に「あ、ごめん」とか「ありがとう」みたいな言葉がでちゃうし、夜泣きのときと かも、なんかわたしがいたらないからこうなってる、みたいな感じが勝手にして、「隣の部屋に行かなきゃ」とか「はやく収めなきゃ」とか「騒いでごめんね」みたいな、どういうわけか、そういうすみません的な、申し訳ないです的な気持ちになってしまうのだ。
(中略)
じゃあなぜ母親だけがこのような「すみません感」をもってしまうのかというと、やっぱり赤ちゃんと母親っていうのは良くも悪くも身体でつながっていたという事実があるからだと思うんだよね。身体的に、赤ちゃんが自分の一部だったときがあるからなんじゃないかと思う。
■やっぱり、この最後の言葉に落ち着くんだよね。自分で疑問を投げかけておいて、結局自分で結論を出している。でも、女性って、こんなことを際限なく繰り返し繰り返し考えているのだろう。そうして出した最後の結論の前には、男はなすすべもない。
■男は、女が辿り着いたその意識の前には、いや、その前に純粋に事実として、女には絶対に勝てない。男は、育児に関して、様々な後方支援は出来ても、やはり絶対にアバンギャルドにはなれない。だって、自分の身体の一部って感覚は、逆立ちしても持てないのだからね。
なぜ、こんなにかわいいのだろう。
(中略)
たとえば、ある日。わたしは赤ちゃんを抱っこしながら、なんとなーく、ふつーうのこととして、誰にもきかれてなどいないのに、「この子のためだったら、まじで死ねるな」と実感した。この子の命とひきかえに死ねますか、ときかれたら、信じられないことに、これがもう即答で死ねるという実感がいつのまにか宿っているのだった。
これを読んだ時、僕はウルッときてしまった。しかし、その直後、出そうだった涙が引っ込んだ。そこにはこう書いてあった。
わたしは、あべちゃんにおなじ質問をしてみた。
「なあ、あべちゃんは、この子のために死ねる?」
あべちゃんが一瞬ためらったのを、わたしは見逃さなかった。
「ハーン・・・・、そうか。死なれへんねんな。あんたは、この子のためには死なれへん、と。ハッハン・・・・さすが父親やな・・・・さすが、どこまでいってもしょせん社会的存在である父親さまやな・・・・子どもは子どもでも、他人やもんなあ。そうよな、そらそうやんな・・・・自分あってこその世界やもんなあ・・・・・」
■実際、笑いながら読んだのだけれど、よく考えたら、これはフェアーじゃないよな。こういうのが女の意地悪ってもんだ。だって自分で言ってるじゃない。身体の一部だったって。かなうわけないし、だからこそ、その引け目を感じている男は、外に出て一生懸命稼いでくるしかないわけよ。死ねないかも知れないけれど、「家族を死ぬような目にだけは遭わせたくない」というのが、男の愛と責任感というものだ。女よ、それを分かってくれ!

■こんな風に、赤裸々に、本当に赤裸々に、妊娠中から育児中の女性の、その刹那刹那の様々な心情が事細かに描写されている。たとえば、普段誰も語らないようなことまで書いてある。
■たとえば妊娠中の性行為を医者に禁止された時の女心。
っていうか!ぶっちゃけていうとさ、先生に性交ダメぜったい、っていわれるのはぜんぜんいいのだけれども、そしてじっさいにしなくってもぜんぜんかまわないのだけれども、それを受けても受けなくても、あべ側の判断というか決心や心境によって性交がぴしゃりと「ないこと」にされていることじたいに、もうこうれが本当にいらいらするのである。
(中略)
いわゆる少女でも母親でも祖母でもないわたしっていまなんなの?みたいな感じ。
プライドでも焦りでもなんでもいいけれど、つまりはこうだ。この状態で、「先生にダメといわれたでしょう、うふふ」でも「そんな気になれなーい」でも理由はなんでもいいけれど、断るのは必ずやわたしでなければならない、これはそういう話なのだ。この状態&シチュエーションで、「ダメダメ~」と拒否するのは、わたししかありえないのだ!「その気になれなーい」のはあべでなく、つ ね に わ た し でないとならなかったのだ!
■うわあ、まさにコペルニクス的大転動!こ、こんなこと、女は考えているんか!先ほども言ったけれど、僕はこの本を読んで、生まれて初めて女というのはこういう生き物なのだ、と悟ったわけである。
■つまりこれは同じ人類でも別の生き物なのだ。男から見ると宇宙人なのだ。どちらが良いとか悪いとかではなくて、男とは全然別の思考経路を持ち、感性を持つ別の種なのである。それにしても、性ホルモンって凄いな。こんなに全然分かり合っていない男と女を、あたかも「僕たち一体!」をいう錯覚に陥らせ、長年に渡ってひとつ屋根のもとに住み寝食を共にさせるんだもの。
■本当は、うまくいく方が不思議なのに、だから神様はあえてそれだけ違う男と女とを一緒に生活させて、まあ言ってみれば、学びの機会を与え、人格を向上させようとするのだろうな。それこそ神の恵みか。あーあ、この本、もう何十年も前に読んでいたら、志保や杏奈を育てていた妻の心情をもっと分かってあげられたのに・・・・。

ということを感じさせてくれる本です。子どもがいない夫婦も、いやそれどころか結婚していない人にも、強く奨めます。

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