ニュルンベルクのマイスタージンガー

ダニエル・バレンボイム指揮
バイロイト祝祭劇場管弦楽団 
バイロイト祝祭劇場合唱団(合唱指揮 ノルベルト・バラッチ)
ザックス ロベルト・ホル
ヴァルター ペーター・ザイフェルト
エヴァ エミリー・マギー


iPod miniがない!
 ヨドバシカメラに行ってみて驚いたよ。今時iPod miniなんて売ってないんだね。だからアクセサリー・コーナーにもmini用なんて置いてないんだ。まるでそんなもの最初から存在していなかったみたいに・・・・。
 あるのは30GBと60GBのiPod、それからminiに一番近いものとして1GB、2GB、4GBのiPodnano、そして512MBと1GBのiPod shuffle。
 特にnanoなんてすっかり小さくなって軽くなっちゃって、まるでminiをあざ笑っているようだよ。え?まだそんなもの使ってるの?って感じでいるけどよ。まだmini買ったのは去年なんだけどな。
 30GBもあれば、WAVEファイルにしたってその都度曲を入れ替えるなんてことしなくてもいいんだろうが、僕は意固地に4GBのiPodminiを壊れるまで使うからね。だからこのiPod Actuelleも健在なんだ。

ただいまマイスタージンガー三昧
 さて、10月8日のマーラー・プロジェクト演奏会に備えて、今僕のi-Podには三種類の「大地の歌」と、バレンボイム指揮、バイロイト祝祭劇場の「マイスタージンガー」からの抜粋が入っている。
 マーラー・プロジェクトのオケ練習は五月からやっているし、その前から曲の勉強はしていたのだが、本番が近づいてくると、いよいよ暗譜も含めた集中的な勉強に入る。そうなるともう一頁一頁、一小節一小節、頭にこれでもかと叩き込むのだ。僕の場合、かなりスコアが頭に入って、音が自分の頭の中から自然に鳴り出すまで、あまりCDとかiPodとか聴かない。ピアノで何度も何度もゆっくり、和音やメロディーと対旋律のからみを確かめたり、あるいはじっとスコアとにらめっこするのだ。そうして自分の音楽が出来上がってから人の演奏を聴き出すのだ。そうしないと、いきなり他人の感性のフィルターを通した演奏に惑わされてしまい、自分がこの曲で何を表現したいか分からなくなってしまうからだ。

 今回は、先に「マイスタージンガー」の勉強を行って、それからじっくり「大地の歌」にとりかかろうと思っていたので、「おにころ」が終わってからのんびりと「マイスタージンガー」の勉強にとりかかった。目下の所、マイスタージンガーは大体暗譜を終え、僕のiPodに最も頻繁に登場する曲目となった。京王線の行き帰り、スコアを見ずに聴いて、危ないところを後でチェックする。

第一幕への前奏曲
 前奏曲なんかは、もう耳で覚えてしまっているから、今更あらたまって暗譜なんて言わなくても、振るだけならいつだって振れる。こういうところが、音符ひとつひとつを間違えないように弾く奏者と違って、四拍子の曲はとりあえず四つで振っていればいい指揮者のいい加減なところだな。
 でもスコアを見るというのは全然違うんだ。作曲家にもっと近づいて、作曲家がひとつひとつ筆を下ろしたときの息づかいまで聞こえてくるような気がするんだ。漠然と聞いていた時には聞こえない音がスコアに書いてある。それを発見した時の驚き。そしてその後であらためて聴くと、実は聞こえていたんだ。

 前奏曲の始まりは、ドーソーソソー・ミファソ・ラーシードーレーと一貫して続いているように聞こえるが、ドーソーソソーと演奏しているのは実は木管楽器だけ。しかもトゥッティだと思っていたけれどフルートはいないんだ。ドーソーソソーと演奏しているのはオーボエ、クラリネットとトランペットだけ。トランペットなんかはドーソーソソーだけでやり逃げ。

 弦楽器は何をやっているかというと、第一、第二ヴァイオリンなんかは、四分音符で重音を弾いてその後三拍休んでソー・ミファソからアンサンブルに加わってくる。
それに驚いてあらためて聴いてみると、ワーグナーの意図が初めて分かる。ヴィオラまでの四分音符の重音とティンパニーの四分音符のロールと八分音符がジャンと鳴ると、とてもきっぱりとして祝祭的な雰囲気がする。これをみんなでメロディーをやってしまったらベターッとした感じになってしまうのだ。

 フルートが登場するのは二度目のメロディーがヘ長調で鳴った後五小節ほど遅れてだ。ソラシドと第一ヴァイオリンと重なって演奏される。冒頭でフルートが入っていないのを誰も気付かないように、入ってきたのも恐らく気付かれない。でもさりげなくオケの音を高音で輝かしている。
 一方、音が重なり合っていて団子のように響いているオケの中で最初にソリスティックに浮かび上がって存在を主張するのも、実はフルートなのだ。ソレファードミー・レドシラソー・ファソソシラファドという叙情的なメロディー。これは主人公ヴァルターの情感の動機と呼ばれる。
 このようにワーグナーの管弦楽法はさりげない中にもの凄い名人芸を感じる。

バラッチの凄さ
 今回僕が聴いているのは1999年のバイロイト祝祭劇場で収録された演奏。この年を最後に、残念ながらバレンボイムはバイロイトを去った。実はこの録音に僕は立ち会っている。といっても全ての場面ではない。見学を除けば基本的には合唱場面の収録だ。くわしくはバイロイト日記に出ているよ。音楽祭の練習が始まってかなり早い時期に少しづつ撮っていったんだ。確かビデオも撮ったはずなんだけど、発売はされていないようだな。
 伝説の合唱指揮者ノルベルト・バラッチの最後の年となった1999年の音楽祭。いやあ、今思い出すだけでも身が震えるほどバラッチの指導は怖かった。でもバラッチの手から紡ぎ出される合唱のサウンドには何度鳥肌が立ったか分からない。本当に凄かった!どんなに尊敬しても足りない、僕の合唱指揮者としての真の師。その真骨頂がここで聴ける。

iPodの話からはずれるけれど
 僕の家にはもうひとつ「マイスタージンガー」がある。でもこれはレコードだ。カラヤンがドレスデン歌劇場を指揮したもの。これも名演だ。ドレスデンの音は、通常カラヤンが振っていた明るくてインターナショナルなベルリン・フィルの音と全然違って、重厚で渋いドイツらしいサウンドでこれもかなりシビれます。テオ・アダムのザックスはちょっといただけないが、ペーター・シュライヤーのダヴィドが秀逸。
 カラヤンと言えば、「自分が指揮している時は二つのオーケストラが同時に鳴っている」と言っていたが、僕もマーラー・プロジェクトのオケやモーツァルト200合唱団と一緒に練習をつけている時でも、みんなには悪いが、自分の頭の中に鳴っているのはバイロイトの音だ。でも不思議だな。全くバイロイトが目標かというとそうでもない。いつしかそれが自分の感性と混じり合って、自分なりの理想というものが出来上がっている。ドレスデンの音も混じっている。だからバレンボイムの前奏曲を聴いていても、カラヤンの演奏を聴いていても、それぞれに違和感があって、自分ならここで速くはしないなとか聴く度に感じたりする。

諦念と悟り
 第三幕前奏曲はいい曲だ。しみじみとしてザックスの苦悩と結びついている。冒頭のチェロによって奏でられるドーシーミソーファーという音型はザックスの諦念あるいは悟りの動機。弦楽器が静かなフーガを奏でていると、その向こうから、後で合唱によって歌われる「目覚めよ」のコラールがホルンを中心とした管楽器アンサンブルで響いてくる。このあたりの弦楽器と管楽器のコントラストを強調したオーケストレーションは見事というしかない。
 弦楽器のハイポジションの美しさはブルックナーの交響曲の世界に通じる。再びコラール。それが静かに消えていくと思いきや、突然G線のヴァイオリンがフォルティッシモで諦念の動機を激しく奏する。うーん、やっぱり天才だ!しかも円熟の極み!

 そしてしばらく経つとザックスの独白「迷いだ、迷いだ!」が静かに始まる。
僕はこの歳になってザックスにとても共感が持てるようになった。ザックスはエヴァを愛している、エヴァもそれに気付いている。でもヴァルターが若き情熱の炎を燃やし、エヴァを射止めようとやっきになっていると、ザックスは密かに身を引いて若い者に座を譲ろうと決心する。
 諦念とか悟りとか言い切ってしまうのは簡単だが、それはやっぱり歳をとったからなんだなと思う。若い内は自分の中の欲望の炎がメラメラ燃えているから、そう人生に客観的になんかなってられない。でも僕は、それは若者には仕方のないことだし、若者はそのくらいでなくては駄目だとも思っている。あまり若い内から悟ったような顔をしている奴って嘘臭いじゃないか。
 一方、歳取ってくると欲望の炎が静かになる。そうしたならば、悟るとか大げさに言わなくても、周りのことが次第に冷静に見られるようになるのだ。若い娘が同じ世代の若者に惹かれるのは当然の成り行き。その間に無理矢理割り込んでいって物事を混乱させるのは人間としてはしたないことだという分別がザックスにだって働く。エヴァを愛しているなら、“自分が”という気持ちを前面に出す前に、エヴァのしあわせをまず願うべきだと考えるのだ。

そして今やヨハネ祭がやって来た
さあ、みんなは見るだろう
ハンス・ザックスが
いかなる方法で迷いを制し
高貴な仕事を成し遂げるかを

迷いは、ここニュルンベルクでさえ
我々を落ち着かせてはおかない
高貴な仕事を成功させるためには
日常の物事を片付け
そして多少なりとも迷った後でなければ
決して成し得ないのだ

 彼は決心するのだ。自分の迷いを片付け、エヴァを最良の方法でしあわせにしてあげることこそ、自分の成すべきことなのだと。そしてザックスはヴァルターに歌の指導をし、彼を歌合戦で勝たしてあげるのだ。

ドイツ精神の根源
 合唱団が奏でる有名な「目覚めよ」のコラールの歌詞は、実在したハンス・ザックスの手によるもの。この歌詞の中で語られているナイチンゲールとは宗教改革の旗手マルチン・ルターのことだ。ハンス・ザックスはこの詩で夜明けの到来を歌うが、近代的精神の夜明けをもたらした存在としてルターを讃えているのだ。曲は勿論ワーグナーのオリジナルだが、このコラール風の作風は、ワーグナーがルターと、そしてそのルターの精神を音楽で具現化したバッハに捧げたものなのである。
 この楽劇の全編に渡って見られる対位法的処理は、ワーグナーのバッハへのオマージュだ。つまりワーグナーは、この楽劇の中で賛美すべきドイツの文化の源泉を、ルター、バッハに見いだしていたというわけである。

いぶし銀のように
 ヴァルターが歌合戦に勝利し、一同が歓喜に湧いている時に、オーケストラはもう一度静かに諦念の動機を演奏する。ザックスのひそかな悲しみ。しかしそれは大切な仕事をやり遂げた満足と一体となっているのだ。こうしたところがこの楽劇の表現の彫りを深くしているのだな。ロベルト・ホルのザックスは地味だけど、かえってそれがザックスの温かい人間味を感じさせていい。
 とにかく、この作品は歳を取れば取るほど感動が深くなるいぶし銀のような作品だよ。
同じ頃イタリアでは、ワーグナーと同年に生まれた巨匠が、全く違う作風ながら、同じように年輪が作り出した渋くて彫りの深い作品を完成させていた。それがヴェルディの「ドン・カルロ」だ。

 それにしてもバイロイトのオーケストラは何度聴いても凄いな。何といってもワーグナーへの愛が感じられる。こんなところに5年も働きに行って自然に暮らしてたなんて自分でも信じられないな。

2006.9.11

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