ああ、ベートーヴェン!

疲れるベートーヴェン
 ポリーニの弾くピアノ・ソナタを中心にベートーヴェン漬けの毎日を送ったら、その毒気に当てられて風邪を引いてしまった。とにかくベートーヴェンの音楽が面白くて聴きだしたら止まらない。これまであまり親しんでいなかった曲と同様に、聴き慣れていた名曲すらも、全く新しい曲を聴くような新鮮さで僕に迫ってきた。
 以前ピンとこなかった箇所でも今聴くと不思議とよく分かる。何故なのだろうと考えて、あっそうかと思ったことが一つある。それは・・・最近僕が親しんでいる音楽というと、バッハとモーツァルトだ。その音楽語法に昔より精通してきた感覚でベートーヴェンにあらためて向かい合ったから、ベートーヴェンの独創性や新しさをより理解出来たのだと思う。でもベートーヴェンの音楽を聴くのは、極度の集中力を聴き手にも要求するので、他の作曲家とは比べものにならないくらい疲れる。それでも聴き続けていたら、仕事の忙しさもあって風邪を引いてしまったのだ。

ソナタ形式とソナタ〜古典派の代表形式
 ベートーヴェンは、“ソナタ形式の完成者”と言われているが、その言葉はしばしば誤解を招く。“ソナタ形式”というものは、そもそも古典派時代を代表する平易なホモフォニックの音楽形式だ。第一主題と第二主題から構成された主題提示部、次に展開部、そして再現部からなる大雑把な形式なので、ベートーヴェンの出現を待たないでも、もうとっくに完成されていたと言える。

 同じく古典派を代表する楽曲形式に“ソナタ”という言葉がある。これは、同じ言葉を使っているが、ソナタ形式とは違う概念だ。ソナタとは、いくつかの楽章から構成されたひとつの楽曲。それで原則としてソナタ形式の曲をどこかの楽章(大抵は第一楽章、しばしば終楽章)に持っている。
 組曲と違うところは、それぞれの楽章は組曲よりも密な内的つながりを持っていて、全体でひとつの楽曲を成している感じが強いこと。これもね、定義はそうなのだけれど、別にそのために具体的に、たとえば同じフレーズを使わなければいけないとかいう規則があるわけでもない。一般的には第二楽章はゆっくりな楽章。第三楽章はメヌエットなどという慣習はあるが、実はかなり自由な概念なのだ。
 ピアノで演奏されるソナタはピアノ・ソナタと呼ばれる。弦楽四重奏曲というのは、弦楽四重奏で行うソナタだし、管弦楽を使って演奏されるソナタが交響曲(シンフォニー)なのだ。このように、古典派音楽の器楽曲はソナタを中心に作曲されている。

 ベートーヴェンがやったことは、このソナタあるいはソナタ形式という型の中身を埋めたというか、この型の中で出来得るあらゆる可能性を追求したということだ。でも「ベートーヴェンがソナタ形式を完成した」と言ってしまったら、その前のハイドンやモーツァルトのソナタ形式は不完全なものとなってしまうだろう。完全という意味では、逆にハイドンのソナタ形式の方が整然としていて完成されている。ベートーヴェンは、時に破壊一歩手前まで行ったからね。
 
 バッハも同じ。フーガという形式の中であれほどのバラエティに富んだ数々の曲を作り出し、その可能性を極限まで広げた。だから、バッハの「平均率クラヴィーア曲集」は旧約聖書、ベートーヴェンの「ピアノ・ソナタ」は新約聖書と呼ばれる。片方はフーガという形式で、もう片方はソナタという形式を使って、前人未踏の世界に足を踏み入れ、かくも壮大な宇宙を創造したのだ。


ベートーヴェンは何をしたのだ?

ベートーヴェンのソナタ形式
 中期までのベートーヴェンがソナタ形式の中でまずやったことは、先ほど大雑把と言ったソナタ形式に内的緊張感を持たせたこと。そのために彼はバッハの対位法的技術を導入した。彼はしばしば、たとえば運命交響曲のダダダダーンのように最小のモチーフを用い、これを全曲中にちりばめて凝縮力を高め、同時に曲の統一感を図った。彼の展開部では、主題は重ね合わされ追いかけられ、驚くべき高揚感を作り出していく。これも対位法なくしては成し得ない。
 ソナタ形式の主題提示部は、ただ主題を並べるだけでは平板になってしまう。こういうところでも、提示した主題を、すぐさま展開したり対位法的に追いかけたりして緊張感をゆるめない。
 それ以外にもベートーヴェンはソナタ形式の中であらゆることをやったよ。提示部の終わりを完全終止にしないで、流れるように展開部に移行したり(たとえばワルトシュタイン・ソナタ第一楽章)、再現部で、
「ああ、また同じように主題が次々に再現するのだろうな。」
と思っていると、いきなり思いがけない展開したりして聞き手を飽きさせない。
 ある時は(たとえばピアノ・ソナタ第六番ヘ長調)、主題を展開させるはずの展開部で、一度も出てこなかった新しいメロディーを登場させ、延々と奏させた。テンペスト・ソナタでは、ゆっくりなLargoと快活なAllegroを交互に演奏する部分を冒頭や展開部の始めに置いて、独特の陰影に満ちた空間を作り出した。悲愴ソナタのように長い序奏を置いたり、時には提示部と同じくらいの長さのコーダをおくとか、もう自由奔放、傍若無人。

ベートーヴェンのソナタ
 “ソナタ”という楽曲の定義に対しても、ベートーヴェンは新たな切り込みをした。彼はしばしば、“独立した複数の曲の集合”という概念を覆すべく、各楽章の関係を分かち難いものとした。
 たとえば、ワルトシュタイン・ソナタの第二楽章はINTRODUZIONEというんだ。何のイントロダクション(序奏)かっていうと、これはきっと、この楽章自体が終楽章ロンドへの序奏なのだろう。
 29小節もあるMolto Adagioのゆっくりな楽章だけど、キャラクターの強い両楽章にはさまれて思い惑うような断片的な曲という感じがする。結尾はきちんと終始しないで、終楽章のドミナント上にフェルマータして、そのまま終楽章に流れ込む。
 悲愴ソナタの第二楽章や、月光ソナタの第一楽章などは単独で演奏されたりもするだろうが、この曲だけは単独では成立しないだろうなあ。でも、だからといって曲としてすぐれていないとかいう意味じゃない。良い音楽だし、必要なんだ。逆に言うと、ワルトシュタイン・ソナタの三つの楽章は、それだけ内的つながりが強く、三つ合わさらないと、ひとつの曲にならないということなのだ。

 ハンマークラヴィーア・ソナタの終楽章冒頭は、ある意味不可解なブリッジの部分を持つ。おそらく、あの悲痛な第三楽章の後に続く音楽を探しあぐね、終楽章にふさわしいテーマを選ぶための試行錯誤をしているところを表現したのであろう。そして結局、あの長いフーガ主題に辿り着く。

ベートーヴェンのスケルツォ
 ベートーヴェンは、典雅なメヌエットよりも、諧謔的なスケルツォを好んで用いた。また、しばしば通常の第三楽章ではなく、第二楽章に置き、第三楽章をゆっくりな楽章にして最終楽章と対比させた。
 ベートーヴェンのスケルツォは、全く独創的で、イタリア語のscherzare(ふざける、からかう、戯れる)という意味合いを拡大解釈して、様々な種類の音楽的戯れを行う。速い三拍子の中で、シンコペーションを多用してリズムの遊びをしたり、不格好な舞踏を披露したりする(運命、第三楽章トリオのフーガ)。時には、物事に正面から向かい合うのではなく、裏側から眺め皮肉っぽい表情をたたえる。それが怒りになることもある。と思うと豪快な笑いになることもある。第九のスケルツォのティンパニーを聴くと、ベートーヴェンが世界を笑い飛ばしているのかなあとも思う。

フーガ〜変奏曲
 ラズモフスキー弦楽四重奏第三番終楽章のすさまじいフーガのように、終楽章などにフーガを取り入れることもベートーヴェンの特長。でもそのフーガは、バッハのフーガとは違って、上手にソナタ形式的展開をする。
 中期から後期のピアノ・ソナタにおいては、変奏曲もしばしば登場。また、月光ソナタあたりに端を発するが、第一楽章が静かでファンタジックな内容を持つ曲も登場し始め、しだいに後期の自由な作風に発展していく。こうして既成のソナタの枠組みから離れていく。最後には、ソナタの完成者どころか、ある意味、ソナタの解体者ともなっていく。

ベートーヴェンの音楽語法
 対位法を駆使し、構築性に溢れたベートーヴェンであるが、同時に彼はハイドンやモーツァルトなどよりずっとメロディーの歌謡性に富んでいる。英雄交響曲の葬送行進曲を聴けば分かるが、メロディーラインは時にとても長く、ひとつの雰囲気に浸っている時間はモーツァルトとは比べものにならないくらい長い。それによって、より個人的な想いの発露を可能にしている。
 つまりバッハの音楽の中の“悲しみ”が、普遍的な“人間の悲しみというもの”の表現ならば、ベートーヴェンのそれは、より“ベートーヴェン個人の悲しみ”なのである。そうした個人性は、まさに彼の時代の後を継ぐロマン派のロマン派たるゆえんなので、ベートーヴェンが“ロマン派への橋渡し”と位置づけられている事に、この歌謡性は大きく貢献しているのである。
 この歌謡性と対位法的凝縮性とを交互に用いることでコントラストを作り出すのもベートーヴェンのお得意だ。それに彼のスフォルツァンドとシンコペーション!和音の強打ひとつで、彼は聴衆を全く違う世界に突然放り込むのだ。そしてあっけにとられている我々の前に魅力ある歌謡的な旋律を提示してみせる。それがシンコペーションで強調されたかと思うと突然中断。また別の音楽がやってくる。
 こうしたダイナミックの強調や突然の中断による均衡の破壊は、ベートーヴェンより前には決してなかったものだ。ベートーヴェンは一度均衡を破り、綱渡りのような状態の中で新たな均衡を示して見せた。まさにアンバランス中のバランス!もう聴いている者は息をもつけない。だからモーツァルトと違ってティータイムのバックグラウンド・ミュージックにはなり得ないし、聴き過ぎると疲れて風邪も悪化する!


ポリーニの演奏と後期ピアノ・ソナタ集

ポリーニのベートーヴェン
 ベートーヴェンに凝ったきっかけを作ったのは、府中の中古CD屋さんで安く売っていたマウリツィオ・ポリーニの弾く「ベートーヴェン後期ピアノ・ソナタ集」。
 学生時代、一時期ポリーニに凝ってずいぶんレコードを集めた。「これ以上、何をお望みですか?」というたすきの文句につられて買ったショパン・エチュードを始めとして、プレリュード、ポロネーズ集など、目が回るくらい素晴らしいテクニックに唖然としたものだったが、ベートーヴェン後期ピアノ・ソナタは、ポリーニには合わないんじゃないか、と勝手に思っていた。
 まだ音楽がよく分かっていなかった時だから、いろいろ先入観が多いのだ。たとえばベートーヴェンを演奏するなら、バックハウスとかケンプのような内面的で偉大なピアニストでないと駄目だと思い込んでいた。
しかしこの歳になってくると、人間が鷹揚になってくるというかいい加減になってくるというか、視野が広がってくるというか、より客観的で混じりけのない目で物事が見れるようになる。するとね、ポリーニのベートーヴェン後期、なかなかいいじゃないかと思えるのだ。むしろケンプは良いピアニストには違いないのだが、早いパッセージが始まると、そのテクニックのなさにがっかりしてしまう。ゆっくりな場所のメロディーの歌わせ方など素晴らしいのだけれど、残念ながら今ではあまり聴きたいと思わない。
 そこへいくと、ポリーニのテクニックはもとより完璧なので、たとえばハンマー・クラヴィーア・ソナタの終楽章のフーガなどは、めちゃめちゃうまい。でも彼の良さはそれだけじゃない。その造形力とバランスの良さは比類がない。彼は曲を冷静にアナリーゼし、繰り返しの鑑賞に耐えるベートーヴェンの建造物の揺るぎないたたずまいを我々の前に提示してくれた。

 ただ、なにもかも良いわけではない。中期までのソナタでは、スフォルツァンドなどの衝撃が時に強すぎて、ベートーヴェンの音楽の対比は表現出来ても、流れが欲しいところでは衝撃が邪魔してしまう。フォルテの音の立ち上がりの素晴らしさは誰にも真似ができないほどなのだけれどね。
 彼は、基本的にロマンチストではなく冷静な人間なので、熱情ソナタのような曲での強烈な情念のほとばしりは、残念ながら彼からはあまり感じられない。それよりもそういう場面では、むしろテクニックの凄さに驚かされてしまって興味が別の方に行ってしまうのだ。ベートーヴェンの音楽は構成力だけが素晴らしいわけではなく、このバッハにもモーツァルトにもなかった“激情”こそが彼の真骨頂なのだから、これが物足りないということは、ある意味ベートーヴェン演奏において致命的とも言える。
 
 テンペスト・ソナタの終楽章のようなアルペジオで流れるような曲は、ゴツゴツして居心地が悪い。叙情的な箇所での左手の伴奏はいつもそう。彼の場合、全ての音がいつも聞こえていて、音をぼかすということがないのだ。それが彼のピアノ演奏の美学なのかも知れない。ぼかされないで音が全部そのまんま聞こえることは、曲の構成力を際立たせるけれど、構成力を際立たせても仕方のないファンタジックな曲では、何のたしにもならない。だから僕は、彼のシューベルトやドビュッシーは聴きたいと思わない。
 彼の弱音は、美しいが甘いわけではない。硬質で、どちらかというと冷たい。だが、それがプラスに作用する時もある。彼の月光ソナタを聴いた時、その冷たいリリシズムに戦慄を覚えた。衝撃的でもあった。この曲には、普段みんなが思っているような温かい情感を入れすぎない方がいいということが分かった。この曲だけでなくて他の曲でも、彼の冷たさが逆に意外な魅力を引き出している場合が少なくなかった。僕はそれに気づいた時ハッとした。まさにそれこそが“ポリーニの叙情性”というものなのではないだろうか。

 自分でベートーヴェンのピアノ・ソナタを弾いたことのある人は分かるが、気をつけないとベートーヴェンでは、すぐ肩に力が入ってしまって音がきたなくなってしまう。かといって、モーツァルトと同じように、力を抜いて弾いたらベートーヴェンらしくなくてつまらない。ケンプは上手なところに逃げていて、あまり力を入れずに叙情性を強調した。バックハウスは、あくまでかっちり弾いて構築性を強調した。そのために叙情性がやや犠牲になった。
 ポリーニのようにフォルテでもピアノでも、音がピンと立ってしかも力まないで美しいままでいるというのは普通あり得ない。しかもそのままで彼なりの叙情性を表現している。あまり気がつかないけれど、それにはもの凄いテクニックの裏付けを必要とする。ポリーニは、彼なりの美学を以て、ピアノ演奏における技巧のひとつの極致に辿り着き、それを我々の前に提示してくれているのだ。

ベートーヴェン後期ピアノ・ソナタ
 ベートーヴェン後期ピアノ・ソナタの特徴は、中期までの時期にあれほどこだわってその可能性を徹底的に追求した“ソナタ形式”から意識が離れていくところにある。その代わりに、彼独特の美意識と論理によって、時に幻想曲風に、また時に変奏曲やフーガなど、かつて使い古された楽曲様式を頼りに曲が進んでいく。
 もはやどんな制約からも解放されて、自らの思いのままに作曲出来る自由を獲得したベートーヴェンの澄みきった境地がここに聴かれる。ある種、“悟りの境地”である。まさに“苦悩を突き抜けて歓喜へ至る道”をベートーヴェンは自ら体現しているのだ。そうして獲得した歓喜とは、もはや何ものも妨げるものがない絶対的な歓喜なのである。言葉で言うとわざとらしいのだが、これは全ての人間に与えられた啓示だ。ベートーヴェンの後期の作品は、チャイコフスキーなどは毛嫌いしているけれど、これにハマッたら抜けられない。
 構成力の堅固な中期とは打って変わって、ゆったりした叙情的な部分が多い後期ピアノ・ソナタは、それだけにポリーニには合わないのではと僕は思っていたが、彼はその期待を嬉しく裏切ってくれた。彼は淡々と弾きながらも、単なる情緒やロマンチシズムを超えたベートーヴェンの真のリリシズムを探り当てている。彼の欠点であるはずの冷静さや冷たい弱音は、ここでは不思議と全てマッチして、その結果、意外と“甘くない癒し系音楽”に仕上がっている。

 ポリーニという音楽家は、精神的カリスマ性を持った巨匠と呼ばれることは今後もないだろうな。そうしたタイプの演奏家ではない。しかし彼は限りなく音楽に誠実で、音楽の核心に常にまっすぐ向かおうとしている“永遠なる求道者”と呼ばれるであろう。

 あと、僕が好んで聴いているもの。それはアルバン・ベルク弦楽四重奏団の演奏する、三つのラズモフスキー弦楽四重奏曲と、後期弦楽四重奏の数々。アルバン・ベルク弦楽四重奏団は、恐るべきテクニックを持った素晴らしい弦楽四重奏団だ。ベートーヴェンを味わうためには、何の楽器であれヴィルトゥオージティ(超絶技巧)は不可欠だと最近思うようになってきた。ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲に関してもいろいろ言いたいことはあるのだが、また次の機会にしよう。でもひとつだけ。
 彼の最後の16番ヘ長調の、シンプルな中の隠された作曲技巧と、全ての世の煩いから解放された愉悦感は何にも代え難い。ピアノ・ソナタとはまた違った晩年のベートーヴェンの心情の発露。まだ知らない人は知るべきです。


2008.2.17

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