「創造主への賛歌」と開かれた宗教的精神

三澤洋史 

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「創造主への賛歌」と開かれた宗教的精神
 12月9日土曜日。久し振りにアッシジ祝祭合唱団の練習に行く。しかも、この日は“途中から立ち寄り”ではなく、最初から僕の練習日だから、酒井雅弘さんの発声練習の後、みっちり練習した。

 驚くことにアッシジ祝祭合唱団の皆さん、良く声も出るし、練習中の集中度も高く、音楽の飲み込みも早い。僕の音楽を練習してアッシジに持って行ってくれるだけで、もう作曲家の僕なんか有り難くて、これ以上何を望みましょうと思っちゃうくらいなのに、さらに、こんな密度の高い練習ができるんだから、感謝以外僕からは出てこない。

 ひとたび練習が始まると、合唱指揮者の習性で、僕の場合、自分の曲だろうが誰の曲だろうが構わず、いろいろが気になって、音程を整え、発音を規定し、言葉のニュアンスを決め、フレージングを整え・・・・で、気が付くと、見違えるように良くなっている。
 前回この曲をやった時には、前半のほんの最初の方だけだったが、気が付いてみたら、導入と最後の方のアカペラの部分も含めて、僕が頭の中で音をイメージしながら作曲していたものが、現実の音となってあたりに響き渡っているではないか!これは、作曲家じゃないと分からない感覚だね。

 もう、駆け出しの若者ではないので、
「ああ、こんなハズではなかった!」
という、譜面と現実とのギャップや、幻滅のような個所はないし、逆に、
「こんなに素晴らしかったんだ!」
という驚きもない。
 つまり、全てがほぼイメージした通りに響いている。それでもね、紙の上に書いた設計図と、それに従って作った三次元の実物とでは、目の前にした驚きは全然違うんだよ!

 さて、これにあと何を吹き込めばいいかというと、歌っている人たちの“想い”と“喜び”と“祈り”の感情だ。で、その想いは、この祈りを書き記した聖フランシスコその人から、各自の心に入り、そこから逆にほとばしる激しさを持って表出されなければならない。
 あははは、道は遠いよ!来年の7月に、この曲を持ってアッシジに乗り込んで行くまで、僕の指導の手綱は緩むことがない。
みんな、覚悟しろっ!
ま、楽しくやろう!

 だって、凄いよこの祈りは!誰でも考えつきそうで、誰も考えつかなかった天才的な祈り。でね、微妙にカトリック教会に対して挑戦しているのだ。

Lodato sii, mio Signore, 私の主よ、誉め称えられてあれ 
insieme a tutte le creature, 全ての被造物
specialmente per il signor fratello sole, 特に、兄弟である太陽によって
il quale è la luce del giorno, この兄弟は昼間の光
e tu tramite lui ci dai la luce, この兄弟を仲介して我々に光をもたらしてくれます
E lui è bello e raggiante con grande splendore: この兄弟は美しく、大きな華麗さをもって光り輝いていて
te, o Altissimo, simboleleggia. あなたを象徴しています、おおいと高き方よ


 lodareは「褒める、ほめたたえる、賛美する」であり、その過去分詞がlodatoである。つまり受け身の意味も入って「誉め称えられる」あるいは「誉め称えられている」。そして、そこに英語で言うところのbe動詞であるessereの、tuに対する命令形であるsiiが組み合わさっている。そのtuは勿論神様であるが、その神様に対して偉そうに「であれ!」と命令するのである。
 つまり、この言い回しは、まわりくどいんですが、要するに「誉め称えられてあれ!」ということなんだ。

 そして、その次から、神が創られた全ての被造物をひとつひとつ挙げて、
その被造物の素晴らしさを讃え、
それらを創ったのが、他でもない創造主なのだから、
結果的に創造主を讃えることになる、いわば間接的な賛歌の形をとっている。

 聖フランシスコは、別になんにも意図していなかったと思うけれど、この祈りの凄いところはね、これは、この地上で生きている人間であれば誰も否定することができない祈りだということだ。ここにはイエス・キリストをはじめとして、仏陀もマホメットも誰も出てこない。出てくるのは、この世の森羅万象と、そしてそれを創った創造主のみである。つまり各個人そのものと、森羅万象との直接的なつながりにこだわっていて、ここに教会の入る余地を意図的に作らないのだ。

 僕は、すでにこの「今日この頃」でも語っているし、先日の祝祭合唱団の練習でも言ったが、この祈りこそ、真の“世界平和”につながる祈りだと思っている。偉大な覚醒者は、みんな神の世界を説き、宇宙の秘儀すなわち“愛”であるとか“慈悲”であるとかを説き、そこに至る道として、祈りの生活とかを説いたが、本来そこには垣根なんて存在しないものなのだ。
 それなのに、ある者はマホメットを信じて、モスクの教えを信じて、一日に何回かの礼拝を行わなければ信者にあらずと決めつけ、覆いをかぶらない女性を差別する。それらはみんな人間が決めつけたことだ。
 キリスト教でも、いまだにカトリック教会とプロテスタント教会は分かり合えないし、仏教に至っては、お釈迦様の教えの中から一部だけ取りだして、禅宗と浄土系では全く相容れない、などという状況を作り出している。真面目で一生懸命な人ほど、他宗を攻撃する。

 全くナンセンスだ。僕は思うんだけど、みんな何教を信じていても構わないから、とりあえずフランシスコのところに来てごらん!そして、彼のIl Cantico delle creature「創造主への賛歌」に触れてごらん!彼のボーダーレスの感性に自分を同化させてごらん!
 それぞれの教義は置いといて、大空を見上げながら、大きく息を吸って創造主の息吹を、自分の体中に取り込んでみてごらん!

 また、
「そんな境地になれたらいいな」
と思われた方がいたら、ただちにアッシジ祝祭合唱団に入って一緒に練習してみて下さい。オーディションもなければレベルも問いません。
 けれど確実に約束するのは、来年になって毎週土曜日の10時から13時まで練習する中で、新しい覚醒が得られることです。僕も頻繁に練習に参加するし、僕の練習日でなくとも、自分の立ち上げた合唱団なので、気になって多分頻繁に出没することになります。

2023.12.11





© HIROFUMI MISAWA