聖フランシスコの生涯を追い掛けて

三澤洋史 

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聖フランシスコの生涯を追い掛けて
 僕は、自分の洗礼名が聖フランシスコであるにもかかわらず、聖フランシスコのことをどこまで知っているのか、と問われたら、はなはだ心許ない。高校生の頃に、フランコ・ゼッフィレッリ監督の「ブラザーサン・シスタームーン」を映画館に観に行って、めちゃめちゃ感動したことと、桐生市にある聖フランシスコ修道院のブラザーと仲良くなり、数日間泊めてもらって修道士達と生活を共にしたことで、勝手に自分の洗礼名を聖フランシスコに決めただけだ。
 聖フランシスコが実際にどんな生涯を送ったのか、知っていたことはいくつかある。映画では描かれていなかったが重要なこととして、晩年(といっても彼は44歳くらいまでしか生きなかったが1181~1182 ?に生まれ、1226没)、イエスが十字架上で負った傷が祈っている最中に彼の体に与えられた(聖痕)、ということがある。でも、そのくらいで、実際、彼が生きていた時、どんなことがあってどんな生活をしていたのかという具体的なことを僕は何も分かってはいなかった。


聖フランシスコの映画

 そこで、最近はいろいろ調べている。まず「ブラザーサン・シスタームーン」のDVDを買ってみたが、それは英語バージョンとイタリア語バージョンが両方入っているものであった。ところがイタリア語バージョンといっても、それは出演者がイタリア語で喋るのではなくて「イタリア語吹き替えバージョン」。なあんだ、とは思ったが、観てみたら、驚くことに前半の映像が全然違うのだ。
 みんなが知っている英語オリジナル・バージョンでは、戦地から戻って熱に浮かされながら過去を振り返るというものであるが、そうではなくて過去の享楽的生活がそのまま描かれているのだ。どうしてそうなっているのかは分からない。どっちがいいか比べてみたが、僕には英語オリジナル・バージョンの方が、はるかに説得力がある。
 ともあれ、吹き替えではあるが、出演者の口元とイタリア語が上手にシンクロしているということもあり、あの美しい映像の中で、出演者達がイタリア語で喋っているのは、予想以上に僕にイマジネーションを与えた。何より、彼の母親がフランス人であって、よくフランス語で喋っていたということが映画で伝わってきた。イタリア語の中で響くフランス語がとても新鮮だったのだ。
 フランシスコの父親ピエトロ・ディ・ベルナルドーネはアッシジの大きな呉服商を営んでいて、彼が商用でフランスのプロヴァンスに旅した時、ある女性を見初め、イタリアに連れてきたという。母親ジョヴァンナにちなんでジョヴァンニ(ヨハネ)と名付けられたが、フランス好きの父からフランシスコ(小さなフランス人)と愛称で呼ばれていたという。その母親から教わったフランス語の歌を、フランシスコは修道生活に入っても、よく歌っていたそうである。


ヨルゲンセンの著書

 またデンマークの詩人ヨルゲンセンという人の書いた「アシジの聖フランシスコ」(平凡社)という書物も読んでみた。その中で大きな収穫があったのは、僕が今年の4月に作った「創造主への賛歌Cantico delle Creature」が、聖フランシスコの最晩年、すなわち聖痕が与えられ具合が悪くなった後に書かれた詩であること。しかも最初は大地を褒める詩の個所まで書かれ、その後、自分の病が進行するにつれて、病と艱難を耐える人たちへの想いを綴ったくだりを書き、さらに自分の死期を悟った時には、次のような詩を加えたという。
(以下本文から)

フランシスコがほんとうのことを知りたがっているのを知った医者は、
「わたしの見立てでは、9月末か10月初めまで生きられます」
と、はっきり答えた。
フランシスコは一瞬黙っていたが―両手を上げて、
「では歓迎します。姉妹死よ!」
といった。
このことばが彼の心の詩の泉を掘り当てたように、彼は太陽の歌にこの最後の節を書き加えた。
Lodato sii mio Signore, 賛美されますように 私の主よ
per la nostra sorella morte corporale, 姉妹である わたしたちの肉体の死によって
dalla quale nessun essere umano può scappare, この姉妹から 生きとし生けるものは 誰一人として逃れることはできません
guai a quelli che moriranno mentre sono in peccato mortale, 死に至る罪のうちに死ぬ者は なんと不幸なことでしょう
Beati quelli che troveranno la morte mentre stanno rispettando le tue volontà. あなたのみ旨を尊びながら 死にあずかる者は なんと幸いなことでしょう
In questo caso la morte spirituale non procurerà loro alcun male. その場合 スピリチュアルな死は この人々に何の危害をももたらしません


 ああ、この詩に作曲しておいて良かった、と心から思った・・・というか、むしろこの曲に僕はアッシジに行くために作曲する運命にあったのだ、とさえ思った。

 でも、まだまだ僕には聖フランシスコについて分からないことが沢山ある。「清貧、貞潔、従順」をモットーにしたフランシスコ修道会であるが、彼の生き様は、あまりに単純で・・・・単純すぎて、かえって掴みづらいのだ。彼は彼で完結している。しかし、それ故に他者からみると「何が普通と違うの?」という疑問が湧いてくる。
 いや、それは、まだまだ僕の認識が足らないのだろう。その単純さに最終的には戻ってくるのは分かっているよ。瞑想だってそうだ。無になるからこそ、豊かな恵みに目覚めるのだから。

 まあ、急ぐことはない。来年の夏アッシジに行くまで、僕の聖フランシスコへのアプローチは続く。それまで身も心もなるべくきれいに生きようと決心している今日この頃である。

2023.12.18





© HIROFUMI MISAWA