Missa pro Pace「平和のためのミサ曲」

三澤洋史 

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自作を練習することの歓び
 その日練習した曲の3コマの内、2コマが自分の作曲した音楽というのは嬉しいね。他の作曲家だったら必ず、
「ここ何を考えて作曲したんだか理解できない」
という個所があるのだが、それがないので全くストレスがないし、第一スコアを勉強しなくていい。一音一音に至るまで、全て自分から絞り出された音楽で、しかも何度も何度も推敲して体に染みついているからね。ただ唯一の弱点は、人間としての作曲家に対してあまりリスペクトを持てないこと。だって、作った奴がどんな奴だか、よーく分かっているからね。

 午前中の練習では、アッシジ祝祭合唱団のメンバーが、みんなとても熱心で、かつ上手なので、毎回感心してしまう。今年に入って、いよいよ聖フランシスコ聖堂の演奏会のメインプログラムであるMissa pro Pace「平和のためのミサ曲」の音取りをアシスタントがしてくれていたので、今日はKyrieとGloria全曲を練習した。

自分はバッハにはなれない
 Cum Sancto Spiritu後半のフーガが難しいので、ここできっと引っ掛かって時間がとても掛かるだろうなと覚悟していたら、どうしてどうして、すんなり進んだので驚いた。以前、別のところで書いたので、お読みになった方もいらっしゃるかも知れないが、僕は合唱団の方達に向かってこう言った。
「このフーガは、途中までは同じだったのですが、本当は全然別の曲に仕上がるはずだったのです。たとえば芸大作曲科の学生が書くような模範的なフーガに・・・・でもね、書いている途中で、ある時突然思ったんです。『これ全然面白くねーな』と。その時、同時に思いました。『あ、自分って、バッハにはなれないんだな』と。
 どういうことかというと、たとえばヘンデルって「メサイア」の中でも、And he shall purifyというテーマを元にフーガで厳格に始めても、必ず途中でthat they may offer unto the Lordのような和声的な部分って来るじゃないですか。For unto as a child is bornの対位法的な曲でも、途中でWonderful, Counsellorのような、聴衆が感情移入しやすいキャッチーな曲を入れないでは済まないんです。
 それをお客様へのサービスと言ってしまったら軽薄のように思われるかも知れないけれど、作曲している最中の作曲家って、まず自分が第一の聴衆なんです。どんなに作曲技法として完璧なものを書いたとしても、これを一聴衆として聴いた場合、つまらなかったら仕方がないじゃないですか。
 作曲家だから、プロがシビアに見ても遜色ないものに仕上げなければならない一方で、僕は、一般の人が普通に聴いて『いいな、楽しいな』と思える曲を書かなければと感じて、後半を変えたのです。
 その点、バッハは素晴らしいのです。突出しているんです。人のこと考えないで、あくまで自分の理想を追求するんです。分からない人は別に分からなくて結構って考えているのです。でも、じゃあヘンデルはバッハより下か?と言ったら、そんなことはありません。それはタイプの違いなのです。で、自分はバッハが大好きなのだけれど、作曲する立場に立った時には、ヘンデルに近いんだなあ、と発見したわけなんです」

 フルトヴェングラーはこう言った。
「芸術というものは本来非大衆的なものである、しかしそれは(あえて)大衆に向かって放たれるのだ」
 この意味は深いなあ。ウケを狙うということではなく、非大衆的なものであるが、同時に専門家達の間だけで満足することなく、あえて大衆に向かって提示され、隠された真実に人々を誘ったり、何かを気付かせたりする芸術の使命をフルトヴェングラーは語っているのだろう。

2024.2.5





© HIROFUMI MISAWA