アッシジ祝祭合唱団出航!

三澤洋史 

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アッシジ祝祭合唱団出航!
9月2日練習初日

「ここから僕の人生における新しい航海が始まった!」
集まったアッシジ祝祭合唱団のメンバーが初めて声を出した瞬間、僕はそう思った。

 9月2日土曜日、初めてPadre Nostro混声合唱バージョンが練習場に響き渡った。この曲は、すでに過去2度ほど演奏されている。最初は、今や国際的ソプラノである中村恵理さんの独唱曲として作曲した。2度目は、東大OB合唱団であるアカデミカ・コール用に男性合唱曲として、ガラッと変わった印象になった。そして今回のアッシジ祝祭合唱団のために混声合唱曲として編曲し直した。

 僕は、JASRAC(日本音楽著作権協会)から音楽文化賞などをもらっていながら、「おにころ」などをはじめとする自分の作品をJASRACに一曲も届けていない。何故なら、作曲はするけれど、自分の作品を公に出版してもいないし、それで食べているわけでもないからである。
 そのことで気付いたことがある。バッハもよく自分の作品を使い回ししていた。領主から個人的な使用に限って依頼された世俗カンタータ(その機会以外には2度と演奏されない)を、場所の違った街での教会カンタータに転用し、さらにその中で自分として会心の出来だった曲を組み合わせて、ミサ曲に転用している。これも著作権の意識が発達した現代ではできないことだ。変な話、「自作からの盗作」扱いされてしまうからだ。

Padre Nostro


 音源を聴いていただければ分かると思うが、その練習初日の朝にいろんなところから集まった、まさに“寄せ集め”の人たちが、僕の行ったわずかな練習の間に互いに声を揃え合うことを試み、その後、休憩時間の前に「一度通してみましょう」と通した(実際には、途中で何回か止めたのを切り貼りしたが・・・)演奏である。
 もう一度言うけど、初日である。これからどんどん磨いて磨いて、練習の間にいろんな話もして、数々の祈りの曲に対する理解も深めて・・・そして、最終目標であるアッシジ目指して旅立とうというのである。
 もしかしたら、これを聴いて、
「ようし、私も!」
と思われる方がいるかも知れない。そしたら迷ってはいけない。すぐに申し込んでください!
 逆に気後れしてもいけません。パート別の丁寧な音取り音源があったり、役員達が優秀で、いろんなところで至れり尽くせりなので、自信のない人でも、取りあえず練習に加わってみてください。 募集はこのCafe MDR内で行っています

この演奏旅行のメリット
 前にも書いたように、この旅には大きなメリットがある。アッシジの聖フランシスコを洗礼名に持つ作曲家が直接指揮をして、練習中に、曲への想いや聖フランシスコへの想い、あるいは祈りの歌詞の意味の解説や、自分がどういう想いをそこに投入して曲作りをしたのか、などをとくとくと説明し、それらの想いを携えて、本丸であるアッシジの街の聖堂に乗り込んで演奏をするのだ。
 ヴェルディの「レクィエム」を演奏するのは素晴らしいけど、ヴェルディが皆さんの前に立って、作曲時の想いを説明してはくれない。休み時間に、作曲者と直接触れ合って話をしたり質問したりすることも通常では望めない。作曲家自身が指揮をして演奏会を行うことなんて稀なことでしょう。


本番会場となる聖フランシスコ聖堂


演奏曲目とキリスト教
 また、これらは“宗教曲”に分類されるけれど、僕は、キリスト教信者を対象に作曲しているわけではないし、クリスチャンだけに演奏して欲しいと思っているわけでもない。ましてや、自分の関わる合唱団の団員たちに信者になって欲しいなどとは全く思っていない。僕がそこにだわらないっていうのは、逆にカトリック信者としては(伝道の観点から)問題じゃね?、とも思うくらいだ(笑)。
 ただね、もし皆さんが、自分の心の中に“自然で自由で開かれた宗教心のようなもの”を持っているとしたら、それは嬉しいと思う感情はある。でも、もうそれで充分でしょうとも思っている。僕は、それをキリスト教という狭い枠組みの中に閉じ込めてしまう必要はないと思っているのだ。

 宗教が人間にとって本当に必要だったならば、それがイスラエルだけに限られてもたらされるなずがないじゃないか。全世界に広がるまで、あんなに長い時間がかかってしまうものであるはずがないではないか。
 逆に言えば、世界中何処にでも宗教はある。プリミティブなもの、高度に発達したもの様々ではあるが・・・それは人間の中に宗教心が内在し、この世の現実的な価値観だけで生きることに人間が満足出来ない証拠なのだ。
 どんなに富を積み、全ての欲望を満足させることに成功しても、老いや死は万人に訪れ、病気や事故や様々な制約の中で、人は自分の思うように生きられないものだ。そこを納得し、“どんな状況の中でも満ち足りた人生を生きたい”という願望と宗教の存在は決して無関係ではない。だから巡り巡って、宗教的なものを必要としない人はあまりいないのではないか、というのが僕の結論ではある。

芸術家、宗教家をつなぐインスピレーション
 たとえば僕の音楽に触れて、抵抗感を持たない人は、すでに宗教的なものを内に持っている人であると僕は思う。僕が作曲をする時、僕のちっぽけな脳細胞がそれをひねくり出しているのではない。個人の脳は単体であるパソコンで、いわゆるインスピレーションと呼ばれるものはインターネットのようなものである。より深くて広い情報量を持っているのだ。
 よくいろんな芸術家が、
「降りてくる」
という言葉を使うじゃない。まさにそれで、これは体験した人じゃないと分からないが、本当に、フッと湧いてくるのである。
「俺がみんな考えたんだ。凄いだろう!」
と思う人は、実はたいした作品は創れない。素晴らしい作品を産み出せる人ほど謙虚なのだ。
 水道のホースにゴミが詰まっていたら水は通らないだろう。インスピレーションが湧いてくる人にひとつだけ共通点があるとしたら、欲や邪心を捨てて、心のホースを空っぽにしておける人だということ。
 「俺が創った」のではなくて、もっと高い世界から“なにか”が入ってきたのだ。その高い世界の“なにか”は、崇高で広くて、自分自身もその“なにか”に癒やされるのだ。

 そうした“超自然的なものと関わる”という意味では、芸術と宗教は似ている・・というか同じ源泉から来ていると思うが、芸術家と宗教家との違いはある。芸術家はしばしば現実的には奇異な振る舞いをすることが多い。これは仕方ないよね。非現実的な世界とのやり取りをしていると、現実的な世界なんかどうでも良くなってしまう。
 宗教家もね、そういう危うさは持っているのだ。でも、最終的には“自分の生き方を問い人に示す”というのが宗教家の使命だから、そこが芸術家と袂を分かつポイントである。

 さて、そうした中で、聖フランシスコという人は、芸術家と宗教家とをつないでいる。彼の意識は、全ての現実的制約から解き放たれた、真に自由な人で、「太陽の賛歌」に代表されるように、太陽、月、星、大地、風、火など、僕たちと共にこの世に創られた全てのものの素晴らしさを讃えつつ、それを創造した創造主に惜しみない感謝を送る。

 僕も、芸術家のはしくれでありながら、残りの人生を聖フランシスコのように生きたい。フランシスコ修道会の3つの指針がある、それは清貧、貞潔、従順である。言い換えれば、無欲に生き、身を清く保ち、自分の成すべき事を淡々と行っていくことである。簡単そうでなかなかできないことではあるが、とどのつまり、人生それでいいじゃないか。

 ということで、みなさん!僕に付いて来たら、何か良いことが起こりますよ。ワクワクする楽しいことがあなたを待っていますよ。


20230902 アッシジ祝祭合唱団発足


2023.9.4





© HIROFUMI MISAWA