Bayreuth 2003
序章

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

6月20日(金)
 ニュルンベルクからバイロイトへ向かう列車はまるで弾丸のように走る。パソコンのディスプレーを見つめる僕の視線の両端に、大きく開いた両側の窓から、森の緑がまるでCG映像のように猛スピードで駆け抜けてゆく。木々が接近しているので余計列車が速く感じられるのだ。
めまぐるしい森の木々がふっととぎれると、遠くに間が抜けたような田園風景が広がる。雲はどんよりと低く厚く、6月のフランケン地方の村々を支配するように覆い被さっている。
時折、雲間から太陽が気まぐれに顔を出す。すると現れては過ぎ去ってゆく丘や草原の緑はまるで驚いたように鮮やかに輝く。太陽が雲に隠れると再び灰色の中に沈んでゆく。そんな光の戯れはそこで遊ぶ牛や羊たちもまきぞえにして、彼等も一緒に輝いたりくすんだりする。彼等にとっては、日が空けて日が暮れる循環のみが全てであって、音楽祭もこれから始まる僕の多忙な日々も、今の僕のほのかな緊張も理解するべくもない。
 再び不用心に猛スピードの森の木々が飛び込んでくる。今の僕の心情にはこの速さの方が合っているようだ。こうしてどんどん近づいてくる。あの緑の丘が・・・。夏の間だけ味わう事の出来るあの夢のような日々が・・・。
僕がバイロイト祝祭劇場で仕事するのは今年でもう5年目。早いものだ。初めはノートに鉛筆で書き付けていたバイロイト日記も、こうして今はパソコンで作っている。
 合唱アシスタントという仕事も5年目ともなると慣れたものだし、すでに知り合いも沢山いる。けれどいつもこの地を訪れる時は、何か甘酸っぱいような、胸を締め付けられるような不思議な緊張感が僕を包み込む。ここでは、日本で自分がこれまで築いてきた地位や自分への評価から離れて、再び白紙の状態になって自分自身に向き合う事を余儀なくされるからだろう。言い換えればそれは一年に一度の自分への挑戦と言ってもいいし、自分が一体何を求めて音楽家として生きているのかということを原点に帰って探る心の初期化と言っても良い。

 バッハフィッシャー家は僕を心から出迎えてくれた。今年は訳があっていつもの家には21日の昼からしか入れないので、親切な夫婦の家に一晩だけお世話になる事にしたのである。
バッハフィッシャー氏はバイロイトの税務署に勤めている。彼の奥さんは也恵さんという日本人である。結婚して10年くらいになるが、祝祭劇場から西に10分くらい歩いたところの丘の上に住んでいる。二階のバルコニーから見る景色は最高で、眼下にはバイロイトの町の景色や遠くのなだらかな丘陵がはるかに見渡せる。
 也恵さんは日本から着いた僕といろいろ話したかったようだったが、僕は取るものもとりあえず劇場に行った。
劇場には西門から入るが、事務局は反対側の東門の四階にある。祝祭劇場では反対側に行くのにステージの真下の地下道を通って行かなければならない。ひんやりとしたこの地下道を通っていると、
「ああ、また今年もここに来たんだな。」
と急に実感が湧いてきた。
 通行証をもらうために事務局に顔を出したら事務局長のトーマス・バイラーが妙な作り笑いをしながら僕に近づいてくる。
「三澤さんがここにいるなら、頼んじゃおうかな。もしかしてやってもいいなって気になってくれるならでいいんだけど・・・・。」
「何だい?」
「今晩のエキストラ・コーラスの練習ね、フリードリヒが自分でピアノ弾きながら稽古つけることになっているんだけど、やっぱりピアノ伴奏者がいた方がいいと思うんだ。ね、あなたもそう思わないかい?」
「で、僕に伴奏をやってくれっていう訳ね。」
「いやいや、契約によればあなたの仕事は明日からなので、あなたには付き合わなければならない何の義務もないのですよ。嫌なら嫌って言ってくれていっこうに構わないのです。」
「やるよ。やりますよ。別に予定はなにもないしね。あるわけないじゃないの。日本からこのためだけに来ているんだもの。で、何時から?」
「19時から。嬉しいなあ。ありがとう!」
気持ちの悪い笑い顔を後ろに感じながら僕は事務局を出た。せっかく也恵さんが夕食を一緒に食べましょうねと言ってくれているのに、悪いなあと思いながら、どっちみちフリードリヒがエキストラ・コーラスに練習をつけるんだったら知らん顔は出来なかっただろうと自分に言い聞かせた。

 也恵さんは、
「三澤さんが夕方用があるんだったら、あたし達も出かけます。実はお呼ばれがあったんだけど、三澤さんが来るからお断りしていたんです。」
と言った。僕は逆に良心の呵責を感じずに済んでよかったなと思った。
也恵さんが車を出してくれて、電話やレンタルピアノの手続きを済ませて家に戻ってくると、もうご主人が帰宅していた。
優しい人で、本当に也恵さんが彼に大切にされているのがよく分かる。いろいろな人生があるけれど、地球上のどこにいても、愛する人がいる所がその人の本当の居場所なんだなと二人を見ていて思った。

 「さまよえるオランダ人」のエキストラは第三幕の幽霊船の合唱だ。大抵は舞台裏で歌ってマイクでひろい、イフェクターをかけて幽霊らしい音にする。舞台裏で歌う時はオーケストラの音は当然聞こえづらくなるので、一度歌い出すと自分たちの声以外何も聞こえない。ちょっとずれただけでも途中で修正がきかなくなり、場合によっては全体をだいなしにしてしまうことだってある。
だからエキストラ・コーラスは何度も何度も繰り返し練習する。もういいと思ってもさらにもう一歩、もう一歩としつこいくらいに練習しないと心配なのである。
フリードリヒは例年通り要領良く合唱をまとめていく。あいまいなところがはっきりしてきたり、出来ないところが出来るようになるのを見るのは、職業柄とはいえ気持ちが良いものである。僕も何の抵抗もなくバイロイトでの仕事にスッと入っていけた。かえってこういう形で入っていった方が過度に緊張しなくてよかったのかも知れない。



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