Bayreuth 1999

三澤洋史 

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さあ練習
 さあ練習が始まった。「マイスタージンガー」からだ。第3幕の歌合戦でハンス・ザックスが登場する場面を、エキストラコーラスも加わって歌い始めた。凄い!な、なんと言うコーラス!もうほとんど出来上がっているじゃないの。日本だったらもうこれで本番ができるよ。見ると大部分の人は譜面を持っていない。げー!これを一体どうに料理するのだ?しかし我らがバラッチは初日なのに容赦しない。音程、タイミング、発音と語尾、ダイナミックにフレイジング、曲想、と実に細かくチェックを入れてゆく。一秒たりとも無駄のない緊張感に富んだ素晴らしい練習だ。

 ピアノを弾いているのはマリーだ。練習プランによると僕も午後の「ローエングリン」で弾く事になっているので、僕よりあまりうまく弾かれたら嫌だなあと思っていたけれど、その心配はなかった。マリーは、そのフランクフルトソーセージのような太い指で微笑ましいくらいに不器用に弾いていたので、僕はホッと胸をなで下ろした。そのかわり彼はソリストの個所を歌う時は、素晴らしい美声で朗々と歌った。ピアノスコアの音はだいぶ省いているけれど、長年やってきているだけに慣れてはいる。

 10時半からは第2幕「喧嘩の合唱」。ヴィーデブッシュが弾く。彼もまたピアノの腕はマリーといい勝負。二人には悪いと思ったけれど僕は嬉しくなってきた。「これならいける。」なんだか勇気がもりもり湧いてきた。


 午後3時。「ローエングリン」の練習が始まった。僕はピアノの前に座っていた。緊張で指先が冷たくなっている。ミスタッチでもして合唱の邪魔をしてはいけないと必死になってピアノと格闘していたら、バラッチがニコニコ笑って僕を見ている。「大丈夫だから落ち着いて」と言っているようだった。マリーみたいにソリストのパートを歌ってあげたいのだけれど、き、緊張して声が出ない。何を僕が躊躇しているのかっていうと、ドイツ人の前でドイツ語で歌って間違えでもしたら恥ずかしいと思っているのだ。馬鹿野郎!そんなクソ羞恥心なんぞ棄てちまえ!

 午後5時。ともあれ、最初の大仕事が何とか終わった。ボロは出さなかったし、バラッチは満足してくれたようだった。一度アパートに戻って、ベッドにころがりこんだ。まだドイツ語が耳に慣れていないので、練習の間のバラッチのドイツ語を聞き逃さないようにするので神経を使った。ああ疲れた!目を閉じるとバラッチの顔がグルグル回っているし、耳にはまだ「ローエングリン」がエンドレスで回っている。


 午後7時。リフレッシュして再び合唱練習室。「マイスタージンガー」の初心者稽古。マリーが指導して僕がピアノを弾く。同じ個所をゆっくり何度でも繰り返す。バイロイトでもこんな練習をするんだなあ。細かい所をつっついているとあっちこっちボロが出てくる。バラッチの全体練習が緊張感を孕んだものだけに、逆にこうした落ち着いた練習が必要なんだ。その為にアシスタントがいるわけか。ピアノを弾いている僕も、今は随分リラックスしている。

 こうして第1日目が終わった。振り返ってみると10時から1時、3時から5時、7時から9時となんと7時間も練習したよ。とんでもないタイムスケジュールだ!この調子でいったら街に買い物にも行けやしない。ああもうくたくた。長い一日だった。一週間分くらい仕事した気分。でもまあ初日にしては上出来かな。
 おやすみなさい。



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