Bayreuth 1999

三澤洋史 

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6月21日(月)
 今日もまたみっちりつまっている。10時から「マイスタージンガー」。ピアノはマリーが弾く。バラッチの細かい練習。生硬い声を極力嫌う。美しいピアノが、Kopf-stimme(頭声)を通して出てくるまで何回でも稽古する。休憩をはさんで第2幕「喧嘩の合唱」。ワーグナーの全ての作品の中で最も合唱の難しいこの個所を、バラッチはパート別に分けてていねいに練習してゆく。こういう時のバラッチはやさしく辛抱強い。あいまいだった所がどんどんクリアーになってくる。バラバラに見えていた所が必然性を持ってくる。明瞭なドイツ語の発音。リズミックな音型が正しくさばかれた時の爽快感。本当にいい合唱団だなあ。

 午後1時。練習が終わると急いで昼食をとり、いろいろな生活用品を調達しにスーパーマーケットに行く。昨日は日曜日だったのでお店がみんな閉まっていたし、たとえ開いていたとしても練習初日の緊張感の中でそれどころではなかった。石鹸や歯磨き粉のようなものは、水が違うので日本から持っていったものは充分に泡が立たず、役に立たないことが多い。クレンザーやトイレ用の洗剤などと合わせてカゴに入れる。その他に、ゴミの袋、スポンジ、ふきん、ありとあらゆる生活用品で乳母車式のカゴは一杯になった。

 午後3時。ヴィーデブッシュが「ローエングリン」の男声合唱の第2コーラスに練習をつける。ヴィーデブッシュは、バイロイトは今年で2年目。ブレーメン歌劇場の合唱指揮者だ。マリーと同じようにアマチュアを相手にするようにゆっくりとやさしく稽古をする。アカペラ(無伴奏)で歌わせる事が多いので、ピアノを弾いている僕は結構ヒマ。みんなの様子を観察する。こんなチンタラしている練習でもつまらなそうな顔をしている者は一人もいない。ゆっくりはゆっくりなりにきちんと歌おうとしている。なんか顔つきは日本の合唱団と随分違うぞ。みんな楽しそう。5時に終わるが、僕は6時からのバラッチの練習でまた弾く事になっているので、そのまま残って一人で練習する。

 午後6時。昨日全曲通してもらっていたおかげで、今日は自分でも随分落ち着いて弾いているのがわかる。ソロパートも勇気を出して歌ってみた。なんだできるじゃないの。もうこうなったらなりふり構わずやるっきゃない!

 バラッチが突然「パルジファル」をやろうかなと言い出した。ええ?そ、そんなあ。心の準備が出来てないよ。バラッチは僕の心のうちの一瞬の動揺を読み取ったのか
「パルジファル大丈夫かい?なんならヴィーデブッシュに弾かせてもいいよ。彼は昨年もやっているから慣れているし。」と言った。

 後ろを見るとヴィーデブッシュがいかにもやりたそうな顔をしている。さらにその後ろではオッペンアイガーが目を三角にしている。彼は僕ばかりバラッチのもとで弾くので面白くないのだ。でもこの時間は僕に与えられた時間だ。ここで他の人に遠慮なんかして引き下がったら男じゃない。
「やります。僕にやらせて下さい!」
「よし。わかった。」
その後は内心ひやひやドキドキの連続だったけれど、ヴィーデブッシュやオッペンアイガーに後ろを見せたくないので根性で弾いた。最後までボロは出さなかったぞ。ここはドイツだからね。日本人的遠慮の美徳は通用しないんだ。悪いけど僕はここでは日本人的いいひとは捨てるからね。

 家に帰ってソファーに深く身を沈める。昨年あんなに感動しながら見ていた「パルジファル」の合唱を弾いていたんだと思うと、後から胸が熱くなった。でも体は疲れている。なんとなく熱っぽい。それにのどが痛い。日本から出てくる直前、僕を除く家族全員が風邪をひいていたのを思い出した。さてはみんなの風邪がうつったな。こんな大事な時に全く何てこった!

 僕の大好きなトマトサラダ(トマトのスライスにオリーブオイルとワインビネガーをかけただけのもの)。ソーセージ。フランス産のくさいチーズにパン。 きゅうりのピクルス。これが僕の夕食。ビールは飲みたいけれど、風邪が悪化するといけないので今晩は止めとこう。食後にカモミールティーを飲んでベッドへ。まだ10時半。なんて早寝早起きのいい生活!実は単に時差ボケが直っていないだけだ。消燈。



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