Bayreuth 1999

三澤洋史 

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6月23日(水)
 午前10時。合唱練習室に行ったら、バラッチがピアニストとして再び僕を奪ったので、ヴィーデブッシュは一人で「花の乙女達」を弾きながら稽古をつけなければならなくなった。そういえばマリーは昨日から、自分の所属しているプラハ国立歌劇場で本番がある為、プラハに帰っている。だから現在のところアシスタントは、僕とヴィーデブッシュとオッペンアイガーの三人だけだ。しかもオッペンアイガーがああだから現場は大変だ。バラッチは、オッペンアイガーにもう一度チャンスを与えて、今晩のヴィーデブッシュの練習にピアノを弾かせることにした。それを聞いたヴィーデブッシュは僕に向かって顔をひん曲げて見せた。

 バラッチの練習では、ピアニストは大きく弾き過ぎないように常に注意していなければならない。合唱団が、ピアノに依存することなく自分達で音程をきめ、響きを作っていけるようにだ。一度通す時はきちんと弾いて曲の感じをつかむようにするが、部分練習に入ると左手で和音をおさえ、右手はかるくコーラス部分をなぞる。ピアノなしで無伴奏合唱曲のように歌わせる事もしばしばだ。ここの合唱団は、通常のオペラコーラスのようではなく、宗教曲をやる合唱団のような響きがする。バラッチの音程に対する配慮は、もうこれは異常と言ってもいいくらいで、ひとつの和音をきめるのに、時によっては10分でも20分でもかける。そのことによって生まれる澄みきった響きは、バイロイトという特別な地で、ある種の宗教性を帯びるのかもしれない。それにこうして作っておかないと、モニタースピーカーのない舞台において、音程をキープすることが困難になるのだろう。おそらく合唱団員は、舞台上で歌いだしたならもうオーケストラの音など、自分達の歌声そのものによって何も聞こえなくなるに違いないから。

 バイロイトに来てから始めて知ったのだが、今年は「マイスタージンガー」のテレビ録画が行われるのだそうだ。まだ練習が始まったばかりだというのに、もうすぐ収録に入るんだって。6月中に撮り終わってしまうらしい。それで今日の午後から早くも立ち稽古が始まった。昨年は「すごいすごい!」と驚いているだけだったが、今年は合唱練習室で出来ていた事を、みんなが本舞台で出来なくなっていたりすると、「全くみんな何やってんだ!」と思っていたりする自分が不思議だ。

 立ち稽古は、午後4時からの第一幕と、午後8時からの第3幕、歌合戦とに分かれていた。第1幕は、冒頭のコラールが終わると徒弟以外はフリーになる。その間を利用して、午後6時からヴィーデブッシュが歌合戦のエキストラ・コーラスの練習をつける。ピアニストはオッペンアイガー。敗者復活戦だ。でも相変わらずたよりない。練習が終わった直後、ヴィーデブッシュがオッペンアイガーに分からないように僕にウィンクをした。

 午後8時の歌合戦の立ち稽古は、本体の合唱団とエキストラ・コーラス、それにダンサーと助演の子供達もまじえて、第3練習場で行われた。ヴォルフガング・ワーグナー氏が稽古場に入ってくると、さっとみんなの中に緊張が走る。「Achtung!」(注意して!あるいは、みんな聞け!)といういつもの口癖で練習が始まる。かくしゃくとしたワーグナー氏、今も健在。80歳になるというのに練習場を走り回ってみんなの位置決めなどを精力的に行っている。

 立ち稽古になると、我々合唱アシスタントはもうピアノを弾く必要はない。アシスタント・コンダクターが変わりばんこにピアノを弾いたり指揮をしたりしている。僕はというと、オッペンアイガーと一緒に両サイドに分かれて、すこし高い所に上って、合唱のフォローのために振っている。演技がつくと、当然のことながらそれに気をとられて合唱が遅れたり合わなくなったりする。ふと見るとバラッチの顔が赤くなっている。バラッチが今どんな気持ちでいるのかを知りたければ、彼の顔を見るのがいい。怒ると本当にゆでだこのようになる。今はというと、まあ中くらいに赤いからそんなに心配することはないだろう。合唱のフォーメーションや歩き方などは、結構バラッチが仕切っていたりする。そんな時ワーグナー氏は、後ろに座ってニコニコしている。バラッチは本当にワーグナー氏に信頼されているようだ。そんなバラッチが今年で居なくなったならバイロイトはどうなるのかなあ。
午後10時解散。みんなくたくた。



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