Bayreuth 1999

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

7月10日(土)
 どうせ朝の練習はマリーにピアノを取られるだろうと思って指の練習をしていかなかったら、急にマリーが、
「パルジファルの練習を、バラッチが、今日は本番のように副指揮者に振らせながら稽古をつけたいと言い出したので、私は中くらいの高さに位置するコーラスを振り、フリードリヒは、天井に位置するコーラスを振る。三澤君はピアノを弾いて頂戴ね。」
と言う。心の準備が出来ていなかった事もあるが、今朝はなんか頭がボケてて、とんでもない所に飛んだり、変なテンポで出たり、どうも全然さえない。団員達は無責任に面白がっている。バラッチが僕の肩をたたいて「まあまあ落ち着いて。」と言う。
休憩のときに彼に、「済みません。調子が出なくて。」とあやまると、
「これはバイロイトの気候のせいだよ。私も昨夜よく眠れなくて、今朝は体調があまりよくない。」
と慰めてくれた。でもそういう訳でもないんだけれど。とにかく何をやってもダメな日って言うのが、僕の場合だと一年に一日くらいある。今日がまさにその日だ。
後半は、クソ!ここでこの不調に負けてはKlavier Tiger の名がすたると思って、「さまよえるオランダ人」を気を入れて弾いた。

 それよりも、午後の「さまよえるオランダ人」の本舞台の通し稽古が問題続出だった。まず第三幕の有名な男声合唱とそれに続く混声の場面が全然合わないのだ。それに加えて、合唱練習室でマイクで拾って舞台上のスピーカーで流す「亡霊の合唱」の音が、どうにもならない薄っぺらなひどい音で、バラッチの機嫌が最悪になっている。
 下手側の塔でペンライト・フォローをする僕に向かって、バラッチが突然叫ぶ。
「三澤!もう一階上に登ってそこで振れ!」
「は、はい!」
階段を譜面とペンライトを持って登る。バラッチにタイミングが合わないことを咎められた団員の誰かが、言い訳で下手のフォローが低すぎて見えないとか言ったらしい。でもいざ三階に登ってみると高すぎて意味をなさない事が一目瞭然だ。一度通してみて、女性が下手袖に引っ込んでくる所がまるで役に立たなくなってしまっているのを確認すると、僕は下に降りていってバラッチに言った。
「これでは高すぎると思います。女性の退場に支障をきたします。」
「お前はつべこべ言わずに自分のやる事をちゃんとやっていればいいんだ!」
ひゃあ~!こ、怖~い。でもその後すぐに女性たちが、
「下手のヒロのところが高すぎて見えないわ。」
「そうよ、そうよ!これじゃあ歌えないわ。」
と口々に言ってくれたので、バラッチは再び大きな声で叫んだ。
「三澤!」
「はい!」
「また下に降りるように。」
「了解。」
なんだい。悪かったねの一言もないね。まあ機嫌悪いから仕方ないか。
それからバラッチは、なんだか知らないがフリードリヒにやつあたりしている。
 練習が終わって合唱アシスタントの控え室でバルサドンナといたら、フリードリヒが来た。陽気な彼にしてはめずらしく沈んでいた。
「全く今日の大将ったら、怖くて取り付く島もなかったね。」
と肩を大きくすくめて見せる。彼がよくやるお得意のポーズだ。そして帰ろうとする僕とバルサドンナを引き止めて言う。
「どうだい、このまま帰るのもなんか気分悪いからさあ、三人でビールでも飲んでかない?おごってあげるから。」
ということで、フリードリヒのおごりでカンティーネでビールを飲むことになった。
 三人で飲んでいると、昔録音技師をしていたという団員がやって来た。
「ねえねえ、あの亡霊の合唱、すごい音だねえ!一体どんなマイク使ってんの?」
「見に行く?」とフリードリヒ。
「うん。」
フリードリヒと彼の二人で合唱練習室に見に行ってすぐに戻って来た。
「ああ、ダメだこりゃ!」
「どうしたの?」
「超旧式、ボロボロのガタガタだ。全合唱に対してたった一本立っているだけだし、しかもモノラルだよ。信じられないなあ、これが天下のバイロイトかい?ミキサーは何をやってんの?」
「何とかならないの?」
と僕が聞くと、フリードリヒが答える。
「もう何年もこれでやってきて、オランダ人のプロジェクトは今年が最後だよ。」
「でもマイク買うくらい出来るでしょう?」
「そんな時、バラッチは音のひどさを合唱団やマリーのせいにしてしまうのさ。この劇場ではねえ、生の音を使ったレベルは世界一だけれど、PAへの意識のなさも世界一なんだ。とにかく生音が全てなんだよ。僕達が塔の上で使っているヘッドフォンだってひどいもんだろう。ソニーやパナソニックの国の住民である君には耐えられないだろう。」
確かにフリードリヒの言う通りだ。30年前くらいの旧式のモニターテレビと、音の割れまくっているヘッドフォンで我々は作業しているのだ。一度僕が使っているモニターテレビが目の前で壊れたので、技術の人を呼んで取り替えてもらった事があった。きっと新しいモデルが来ると思ってワクワクしていたら、同じのが来てガッカリしたことがあった。30年前に百個くらい買いだめしていたのかなあ。
「去年はどうだったの?本番では少なくても今日よりはマシだったんでしょう?」
「おんなじさ。」
「何だって?」
「毎年オランダ人ではバラッチの機嫌が悪くなって、ひどいひどいと言いながら公演が終わるのさ。」
「救いようがないね。」
「そうさ、救いようがないのだ。チャンチャン!さあ帰ろうぜ。話したら少しは気が紛れたわ。」
フリードリヒは一人で元気を取り戻している。
「チャオ!また明日。」
すっかり暗くなった帰り道を、僕はトボトボと歩く。劇場前の公園を抜け、住宅街に入ると家々に明かりが灯っている。ドイツの家庭では、夜の照明は蛍光灯なんかつけないで、最低限の明るさの電灯を灯す。間接照明などで雰囲気を出し、夜は夜ならではの暗さを楽しむのだ。道を歩いていると、そのほんわかした明かりがなんともいえない家庭の温かさを僕の心に染み込ませる。それぞれの家庭では、それぞれ違った形で家族がくつろいでいるのだろう。そういえば、僕ももう随分しばらく家族団欒を味わっていない。遠く離れたドイツの地で一人ぽっちだ。いいなあ、家族って。会いたいなあ、みんなに。
別別に僕が何か悪い事をした訳でもないのに、何となく充実感に欠けた今日の稽古。でも明日はまた日が昇る。きっといい日になるだろう。家に帰ったら久し振りにお祈りでもするかな。何を祈るんだ?日本にいる僕の家族が幸せでありますように。日本のみ~んなが幸せでありますように。ドイツでもみ~んなが幸せでありますように。地球上のみ~んなが幸せでありますように。

Friede auf der Erde! (地上に平和を!)
Dona Nobis Pacem! (われらに平和を与えたまえ!)



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