Bayreuth 1999

三澤洋史 

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7月12日(月)
 「ローエングリン」がオケ付舞台稽古に入った。
バラッチは舞台にコーラスを乗せる前に必ず声出し稽古をする。今朝はバルサドンナがどうしても弾くんだと言ってピアノの前に座った。バラッチの練習には彼独特の流れがあって、それにうまく乗れないでもたもたしていると彼の機嫌がだんだん悪くなる。バルサドンナは途中までいい感じでいっていたんだけれど、一度バラッチの指し示した場所の意味が分からなくて練習を中断させてしまった。僕はあわててバルサドンナの所へ走っていって、
「ほらここだ!」と助け舟を出 してあげた。
「じゃあみんな、頑張るように。Toi Toi Toi!」
と言ってバラッチは合唱団員を舞台に送り出す。この瞬間は僕の好きな瞬間だ。この声出し練習とその後のToi Toi Toi はゲネプロや本番の間もずっと続くという。親が子供に「ほら行きなさい。」と言って押し出してやるように、手塩をかけた自分の合唱団を広い世界に送り出してやるバラッチの真心が伝わってくるようで、何故か感動的だ。
 みんなが居なくなってポツンと一人バルサドンナがピアノの前に座っている。
「初めてにしてはよくやったじゃないか。」
と僕は彼の肩を後ろからポンとたたいた。
「どこだか分からなかったから、小さい声で女声合唱の入る所からですかと聞いたのに、バラッチは答えてくれなかった。」
みると目に涙を一杯にためている。な、泣くなよ!おい、男だろ。
「だめなんだよ、バラッチには聞いたって答えてはもらえないんだよ。肌で感じるんだよ。わかる?」
バルサドンナったら、泣いたりして、よっぽど悔しかったんだろうな。分かるよ、その気持ち。僕はその瞬間とても彼の事が好きになった。同じ情熱で結ばれている者同士の連帯感みたいなもの。僕だってここまで来るまでに何度も何度も口惜しい思いをしたり、眠れない夜を過ごしたことがある。人はよりよくなりたいと思っている限りこうしたつらい目に必ず遭う。それは誰もが通らなければならない道なのかも知れない。

 オーケストラ付舞台稽古は大変だった。パパーノの棒がものすごくオケをあおって早振りするので、コーラスが早く出てしまうのだ。僕は上手の照明塔でマリーのペンライトフォローを見ている。反対側にはフリードリヒがいる。
「あの野郎!なんて棒を振るんだ。こんなの合わせられっこない!」
などとマリーは悪態をつきつつフォローしている。僕にやらせてもらえればもうちょっとうまくいくんだけどなあ。

7月13日(火)
 第三幕の有名な「結婚行進曲」はオーケストラピットの中で歌うことになった。マリーがパパーノの棒をペンライトフォローするというので安心していたら、フリードリヒに、
「マリーがピットで助けて欲しいと言っているのですぐ行くように。」
と言われた。
急いで地下に降りてピットに入る。ピットの中はコーラスの人達で溢れ返っていた。マリーのライトが見えない人達がけっこういて、中継が必要であった。気がついたら僕はソプラノのど真ん中に立っていた。
「まあヒロ、あんたソプラノ歌うの?」
なんてみんなからかう。みんな背が高いから僕の目の高さには沢山の胸元が壁のように立ちはだかっている。
例のフランス娘のラレンカが僕を見つけて、「ハーイ、ヒロ!」と言いながら抱きついてきた。「うっぷ!」よ、よせよ。そうじゃなくたって女性達の胸の谷間に囲まれているんだから勘弁してよ!
「ヒューヒュー、色男。」
一段下で僕のペンライトを見るべき男達が僕に向かって変な声を出している。
「シー!」
オケの団員が我々の方をにらんだ。
あ、ほらオケに怒られちゃったじゃないか。真面目にやろうよね、みんな。

 休憩後、第二幕に戻る。この間壁が倒れた場面に来た。ディーナーは今日は絶好調。素晴らしい声だ。まっすぐ通って、どこまでも柔らかく、包み込むようなリリックソプラノ。見ると壁がなくなっている。あの事故によって演出プランが変わっちゃったんだ。
ワーナーの演出では、水と火がとても効果的に使われている。エルザとローエングリンのシンボルは水。生命の源であり救済の象徴だ。オルトルートとテルラムントは火。暗い情熱の象徴。
 たとえば第一幕では、舞台の真中に本当の水を張った池があり、そこからクリスタルの白鳥が浮かび上がる。第一幕ラスト・シーンはとても変わっている。エルザがローエングリンと会えた喜びのあまりその池に飛び込むのだ。
 第二幕では、一人かがみこんで沈んでいるテルラムントのところに、松明を持ったオルトルートがやって来て、さっき池があったあたりのところに焚き火を起こす。
 第三幕では、エルザとローエングリンが乗っている寝室のセットの周りのワクに水が張ってある。このセットは、二人がローエングリンの秘密をめぐって破局を迎えると、大きく傾き、ワクの水をセットの前にポッカリ開いている穴倉にザァーッと滝のように落とす。
 本物の水や火を舞台で使うことは、様々な煩わしさやリスクを伴いはするものの、見る者に何か原始的な本能を呼び覚ますような独特な効果を与える。そしてドラマが立体的になるのだ。

 朝、晩の舞台稽古にはさまれた午後の合唱稽古で、バルサドンナがピアノを弾こうとしたら、例によってマリーが座っている。パルジファルを少しやって、バラッチが急にトリスタンをやると言った。マリーは、「あ、譜面を取って来なくちゃ。」と立ち上がったので、すかさず僕が、「あ、僕持ってますからやります。」とピアノ椅子に滑り込んだ。
 トリスタンは量が少ないのですぐ終わった。バラッチが、「さあ、ローエングリンをやるぞ!」といったのでマリーが再び立ち上がったが、僕はそれを知っててわざとバルサドンナに「来いよ!」と目と指とで合図した。バルサドンナが譜面を持ってピアノの方に突進してきた。マリーは仕方なくまた座った。バラッチは僕達のやり取りを微笑んでみていた。
 マリーったら、いくら最年長だからって何もかも自分が取っちゃうなんてずるいよ。練習が終わってバルサドンナが僕に握手を求めてきた。
「ありがとう、Hiro!お前は親切だなあ。」
「お前の為にやったんじゃないよ。マリーが自分ばかり弾くからちょっと流れを変えようと思ってさ。」
 オッペンアイガーとヴィーデブッシュは、あと一週間足らずで任期が終わる。こうなるとバラッチも冷たいもんで、どうせ本番要員としては使えないのだからとあてにされなくなり、ほとんど仕事がもらえない。
 ヴィーデブッシュは、
「あと何日でオレはアルプスでバカンスさ。」
とここのところ毎日嬉しそうに言っているが、反対にオッペンアイガーの顔は日に日にさえない。



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