Bayreuth 1999

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

7月16日,17日(金,土)
 「パルジファル」のオケ付舞台稽古が始まった。
シノーポリの棒は素晴らしい。それに昨年と振り方が大分違う。打点がよりはっきりし、左手が昨年のように泳がなくなった。レガートの時の彼の棒は、器用なさばき方とはいえないが流れるようで、誰にも出せないようなつややかな響きをこのオーケストラからひきだしている。
僕が昨年、最初にこの劇場に足を踏み入れた時聴いた響きが頭の中に蘇ってきた。そうなのだ。この響きなのだ。この響きを僕はバイロイトのオケの響きかと思っていたが、それはむしろ、ここのオケとシノポリとの共同作業が生み出した響きだったのだ。
柔らかくて神秘的なこの響きは、「パルジファル」という作品の本質に迫っている。音楽というのはやっぱり理屈じゃないな。こうやって「音」で表現するということなんだ。「パルジファル」の素晴らしさは、やっぱりこの作品の持つ独特の「音」に集約される。「トリスタン」とも「マイスタージンガー」とも違う「パルジファル」のみが持つ世界。音楽は再現芸術であるから、演奏家は譜面の中から作品が要求する「音」を探し出さなくてはならない。そうした「音」をイメージとしてはっきりと持ち、表現出来る者が一流の芸術家というものなのだろう。どんなに沢山のレパートリーを持っていたって、どんなに難しい曲が振れたって、一つの曲をその神髄に迫って表現出来なければ一流の仲間入りは出来ないのだ。
 
 事務局のハイトブリンクが妙なアルバイトを持ってきた。あるワグネリアンの歯医者の誕生パーティーでピアノを弾いてくれという。この歯医者はバイロイトでは有名人で、滞在中の歌手達やスタッフ達がよく行くという。バラッチもかかりつけなのだそうだ。
 このプロスナー氏という歯医者は毎年テーマを決めて誕生パーティーをやる。昨年はスペインがテーマでスペイン人の歌手達が呼ばれていったそうだが、今年はアジアなんだそうだ。僕の他には井垣さんと、シンガポール人のメンが呼ばれている。要望は、とにかくアジア的雰囲気を盛り上げて欲しいとのこと。何だか知らないが面白そう。

 24日は劇場はオフだが、合唱のコンサートがあるという。市内にある有名な辺境伯歌劇場でワーグナーの合唱名曲を演奏する。僕も何曲か伴奏する事になっている。練習の時みたいに適当に音を省いて弾くわけにいかないから練習しなければ。

 舞台稽古も峠を越えて、もうすぐゲネプロに突入する。ローエングリンのオケ付舞台稽古がうまくいってからというもの、ここのところバラッチの機嫌がずっといい。
僕達は、最初の頃のひたすら音楽稽古をやっていた時のしんどさから比べると、今はまるで夢のように楽な日々が続いている。でも照明塔の上からのペンライト・フォローはとても責任が重い。本指揮者を見る事を禁じられている合唱団員が、訴えるような目でこっちを見ている。こっちの棒がずれたりしたらもう大変だ。
 一度「パルジファル」第三幕の神殿の場面でヴィーデブッシュの振っていた側の合唱がズレた事があった。バラッチはわざわざシノポリの振っているオケを止めて大声で怒鳴る。
「マリー!どうしたんだ?何が起こったのだ?」
「私のせいではありません。でも反対側の照明塔のペンライトがちょっとズレました。」
「誰だ左側の塔にいるのは?」
「・・・・・。」
「誰なんだ?答えろ!」
バラッチが顔をかなり赤くして鋭い口調で叫ぶのでみんな怖くて硬直したままだ。
マリーが答える。
「ヴィーデブッシュです。」
ああ!こわーい。もしそれが自分だったらなどと考えると心臓が縮まる。
ちょっと慣れてきたところだっただけに、やっぱり厳しいところだなあと改めて実感する。



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