Bayreuth 1999

三澤洋史 

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7月18日(日)
 事件だ!事件だあ!
ローエングリンのHaupt Probe(ゲネプロ前の総練習)で合唱とオーケストラのタイミングがうまくいかない。パパーノがオケを止めて「僕の棒を見て下さい。」と合唱団に言う。
合唱団は困っている。バラッチから指揮者は見るな、塔のペンライトのみをたよりに歌え、としつこく言われているからだ。
バラッチのどなる声が塔の上から聞こえる。
「馬鹿野郎!そういう訳にはいかねえんだよう!」
パパーノは一度引き下がる。
「分かりました。もう一度。」
でもまた合わない。パパーノは、
「一度だけためしに僕の棒だけで歌ってください。塔のペンライトやめて下さい。」
僕のそばでマリーが立ち上がる。
「あの馬鹿,何てこと言うんだ。バラッチをわざと怒らすつもりだな。バラッチが来てから28年間、こんな事はなかったよ。ああ、何てこった!」
 オケと合唱の合わない本当の原因は分かっている。今日になって初めてバラッチが左側の塔でペンライト・フォローをしたのだ。バラッチは昨日までペンライト・フォローはアシスタント達にやらせて、自分は客席でバランスを見たり音楽面でのチェックを入れていたりしていた。彼は癖のあるパパーノの棒に慣れていないのだ。それともう一つは、マリーがバラッチの棒を見ていない事にある。
 両サイドのフォローはずれやすいので、必ず片方の人は反対側の人に合わせなければならない。特にバラッチが一方の塔に入った時は、たとえバラッチがずれてもそのバラッチに合わせるべきなのである。そうすればオケとコーラスがずれたとしても、少なくともコーラスの中でバラバラになることは避けられる。ところがマリーは彼特有の義務感にかられて、バラッチがずれたと思うとそれを自分の手で救おうとするものだから、逆に合唱団の中に混乱を生じさせてしまい、ますます合わなくなってしまったのだ。
 そんな事は知らないパパーノは、昨日まで合っていたのにどうして今日になっていきなりずれるんだと不思議に思っている。バラッチはバラッチで、今までどんな大指揮者の元でも守りつづけてきた「塔の上のフォローだけをたよりに歌わせる、いわゆるバイロイト方式」をこんな若造ごときに覆されてたまるかって感じで例によって顔を真っ赤にしている。
両者の思惑がすれ違ったまま今にも爆発しそうな物凄い緊張感を孕んで、再び音楽が始まった。両側の塔からのフォローなしだ。僕の居る右側の塔ではマリーがまだブツブツ言っている。バラッチの居る左側の塔の中は不気味に静まり返っている。意外と前半はうまく合っている。だが予想していた通り演技に身が入ってくると指揮者など全く見えない者が出てくる。後半はなんとなくグチャグチャしていたが、困った事にトータルで見ると最初より合っているようだ。
「やばいぜ、合っちゃった。どうなるんだ?」
合唱団が舞台上でざわざわし始めた。
「休憩!」
突然パパーノが叫んで引っ込んでしまった。
さあ、その後のカンティーネのみんなの様子ったら!眉をひそめる者、この状況を妙に喜んでしまっている者。まるでハチの巣をつついたよう。
その後、第三幕の為の声出し練習が合唱練習場である事になっていたが、みんなの中には、
「今ごろバラッチはパパーノを殴っている頃だ。」
とか、
「バラッチはもう怒って家にかえってしまって、今日はきっと練習中止さ。」
などと勝手に話を作ってしまって、しかもそれを自信たっぷりに言う者もいて、危うく騙されるところだった。
 バラッチが現れた。みんなは彼の顔つきがあまりに冷静なのであっけにとられた。
開口一番、
「みんな状況は把握しているだろう。非常に難しい練習だったが、どうか冷静に。これまで通り塔のペンライトをたよりに歌うように。パパーノとはきちんと話をつけてきたから。」
バラッチがあまりに冷静なので一同拍子抜けした。あからさまに「なあんだ、つまらない!」という顔をしている者もいた。でもこんな時のバラッチは偉いな。ふだんはほとんど本能のままに生きているんじゃないかと思えるような人なのに。もしかしたら本当にパパーノを一発殴ってきたのであんなに涼しい顔をしてい るのかしら?
その後の第三幕のオケ付舞台稽古は、さっきの騒ぎが嘘のように超スムーズに進行してすぐ終わってしまった。
パパーノもバイロイトの伝統を無視するなんて向こう見ずなことをしたものだけど、あの年でバイロイト・デビューなのにあそこまで自分を貫けるのも凄い。ああいう人材は日本にいたら多分つぶされるだろうな。彼の作る音楽に僕は100%同調するわけではないし、僕から見ていても「若気の至り」という部分がある のは否定できないが、少なくてもオケは彼についていこうと努力しているし周りの視線も基本的に彼に冷たいわけでもない。
若いパパーノ。大人のバラッチ。やっぱりヨーロッパは器が広いのか。いろいろ考えさせられた一日でした。



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