Bayreuth 1999

三澤洋史 

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8月27日(金)
 とうとうバラッチと過ごす最後の日がやって来た。音楽祭の千秋楽は明日28日だが、28日は「トリスタンとイゾルデ」なので、男声コーラスの30名以外は実質的には今日が楽日だ。特に今日は「マイスタージンガー」なので、エキストラ・コーラスを合わせた総勢150人が開演前の声出し稽古に集まってきた。ピアノの周りにはシャンペンが沢山置いてある。
 バラッチが現れた。それだけでもう興奮した雰囲気。思い起こしてみると、6月20日の練習初日も「マイスタージンガー」で始まった。その圧倒的なボリュームと音色、そしてすでにその時点にして、いつでも本番が出来るかのようなクォリティーの高さに驚いたのが昨日の事のように思い出される。
ロストが前に出る。手に持っているのはバラッチの似顔絵が書いてあるティーシャツだ。その似顔絵のまわりに僕達みんなでしたサインが書いてある。それを「タンホイザー」をイメージした像と共にバラッチに送った。
 バラッチは、
「さあ、今日はここに僕が用意したシャンペンがある。もう今日は声出し稽古はしないで、みんなで飲もう。」
みんなピアノのまわりに集まってきた。ポン!ポン!という音と共にシャンペンが勢い良く開けられる。
「乾杯!」
バラッチは今日はもう泣いてはいない。晴れやかで、とても平和な顔をしている。28年もの間続いた「バイロイト音楽祭合唱指揮者」というプレッシャーから離れる安堵の表情なのか?ニコニコ笑ったその笑顔はもうバイロイトの支配者というより、ウィーンの素朴なおじいちゃんという感じだ。
 ああ、これから本番だというのに酔っぱらってきてしまったよ。合唱団員達も結構浮かれている。大丈夫かなあ。楽日なんだから演奏はちゃんとやろうね。

 「万歳!万歳!ニュルンベルクのハンス・ザックス万歳!」
オーケストラとコーラスが溶け合って劇場中に響き渡る。拍手。拍手。拍手・・・・。
僕は正装している。最後だからカーテンコールに出してもらえるのだ。マリーもバルサドンナも背広を着ているが、フリードリヒだけはいつものジーンズ姿でいる。
彼は僕達を見て、
「あれ?みんななんでそんな良い格好してんの?」
「最後だから舞台に出るんだよ。」
「ええ?ウッソー!どうしよう。オレ昨日ベルリンに行ってたから聞いてないよ。」
バラッチが僕達の会話を聞きつけてこちらに寄ってきた。
「さあ、みんなで出よう。カーテンの前だよ。」
 生まれて初めてバイロイト劇場のカーテンの前から聴衆を見る。みんな熱狂している。怒涛のようと言うけれど、まさに押し寄せる大波のように拍手と歓声が我々を包む。バラッチは、僕達一人一人と握手をした後でフリードリヒを前に送り出し、合唱指揮者のポジションをバトンタッチするのだという事をジェスチャーで示すような仕草をした。フリードリヒはジーンズ姿で恥ずかしそうにバラッチの挨拶を受ける。その格好がいかにもフリードリヒらしかったので、僕はマリー、バルサドンナと顔を見合わせて笑ってしまった。
 カーテンコールが終わると、ヴォルフガング・ワーグナー氏がカーテン裏にやって来て
バラッチと固い握手を交わした。そのままワーグナー氏のスピーチになる。バラッチの、長い間に渡るバイロイト音楽祭への貢献、高いクォリティーを維持する並大抵ではない努力、誠実でひたむきなその人柄。そうしたもろもろの事が述べられた後で、最後はワーグナー氏の本心から搾り出したような感謝の言葉でスピーチは締めくくられた。

 こうして偉大なる合唱指揮者、ノルベルト・バラッチはバイロイト音楽祭から去った。
2ヶ月以上に及んだ僕の滞在も終わり、バイロイトの街角にはすでに秋風が吹いてきていた。言いようのない充実感を心に持って僕は帰路についた。頭の中には別れ際にバラッチが僕の手を握って、
「お前とはまた絶対に会うからな。」
と言った言葉が響いていた。



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