第一部Bachまでの道のり
マルティン・ルター
本日のタイトルはバッハまでの道のりであります。しかし今日は単に音楽的発展という観点からではなく、バッハの創作の原点となっている宗教的な観点か
ら、その道を辿ってみたいと思います。
まず、本日私のレクチャーの中心的人物となるのは、バッハではありません。バッハは1685年に生まれ、1750年に亡くなっていますが、それよりも
200年前、1483年に生まれ1546年に亡くなっているある人物こそ、バッハに最も大きな影響力を与えた人なのです。その名はマルティン・ルター。
ルターの生涯
宗教改革で有名なルターの足取りを簡単に辿ってみましょう。彼はエアフルト大学の文学部に学んでいましたが、ある時落雷の体験によって死の恐怖と向かい
合い、それから死について深く思索するようになりました。彼は決心してエアフルトの聖アウグスチノ修道会に入りました。ここでひとつ大切なポイントがあり
ます。彼の宗教的出発は「死」と向かい合うことだったという事実です。
1504年、ルターは司祭となり神学の勉強を深くきわめます。彼は大学で講義をし、大きな会議に出席したりしてしだいに認められ、1511年にはヴィッ
テンベルク大学の神学教授になります。その頃から彼には神秘体験がしばしば訪れ、死や罪の問題についてますます深く思索しながら、しだいに自分の使命を
悟っていくようになります。
みなさんも知っている通り、その頃カトリック教会は免罪符を発行し、信者の罪を金で買おうとしていました。正義感の強いルターは、これに真っ向から抗議
し、1517年ついに有名な「免罪符に対する95箇条の提題」を発表します。これが宗教改革の事実上の始まりとなります。
1520年になると、ルターは次々と書物を発行します。その中の「キリスト者の自由」では、「人は信仰によってのみ義とされる」という説を主張。これが
バチカンの逆鱗に触れ、当時の教皇レオ10世は、60日以内にこの説を撤回しないと破門にすると脅しました。しかしルターは公衆の面前でこの書類を焼き捨
て、とうとう正式に破門されてしまいました。
追われる身となったルターはザクセン選帝侯の好意によってヴァルトブルク城にかくまわれます。この城の中でルターはエネルギッシュにも新約聖書をドイツ
語に訳し始めます。
宗教改革はルターが始めたわけではありません。それまでにも教会のやり方に反抗した人達はいたのです。でも不幸なことに、それらの人達は異端として退け
られ、時には魔女狩りのように火あぶりの刑になってしまったのです。
ルターの宗教改革が成功したのは、まず彼が教会的に見ても高い社会的地位を持ち、聖書や神学に対する深い知識を持つうえに熱い信仰心を持っていることが
広く知られていたからでしょう。その土台に立ってどこからみても正論を主張したので、弾圧する教会の内部にも密かに彼の説に同調する人も少なくなかったに
違いありません。それでも彼は命をねらわれましたが、彼をかくまう人も周りの人達も彼の味方だったわけです。
第二に時代性が挙げられます。ルターの教えは、教皇、皇帝に反感を抱く貴族達、自由を求める市民達、封建制の重圧に苦しむ農民達に支持されました。彼は
新しい時代の寵児だったのです。
1524年の農民戦争を境として、ルターは自分の宗教改革が政治的反乱の道具とされることには反対の立場をとるようになりますが、いずれにしてもルター
を異端児として簡単に葬り去れない土壌が社会には育っていたということは間違いありません。
宗教改革とカトリック教会
さてルターによって始まった宗教改革の波は、ヨーロッパ中に広がっていきます。そんな中、カトリック教会においても1545~1563年にかけてトレン
ト公会議が開かれ、宗教改革に対抗する様々なアイデアが協議されました。その中で教会音楽のあり方も議題にのぼりました。
その結果決定されたこととして、ラテン語の歌詞が明瞭に聞こえなければならないこと、その為には言葉の正しいアクセントやシラブルの長短が強調されなけ
ればならないとされました。
教会音楽は、広いドームの中にある様々な像、きらびやかな装飾、ステンドグラスの美しさなど共に、カトリック教会においては神の壮麗さを民衆にイメージ
させる重要な要素になっていました。ミサに出席している信者にとっては、背後のバルコニーから降り注いでくるパイプ・オルガンの響きや、聖歌隊の果てると
もなき多声音楽に身を任せていると、まるで天国にいるような気持ちを味わうことが出来たのです。
しかし宗教改革のルターは、そうした外面的華美に走ることよりも、民衆をもっと積極的に礼拝に参加させようとして、コラールというもの、今風に言えば賛
美歌ですが、を作って一緒に歌わせたのです。
これが民衆の心を爆発的に捕らえました。後れをとったカトリック教会は、だからといってルターの真似をするわけにもいきませんので、せめて音楽を居眠り
のおかずにするのだけはやめて、きちんと歌詞を伝えて内容を味わってもらおうと決心したわけです。
パレストリーナ
その決定のお先棒を担いだのがパレストリーナです。法王庁の楽長を長らく勤めていたパレストリーナは、誰よりもこのトレント公会議の決定を忠実に実践し
ました。その結果、彼は「教会音楽の父」として偶像的存在に祭り上げられます。
パレストリーナという名前は本名ではありません。ローマ近郊パレストリーナに生まれたので、地方名で呼ばれているのです。マグダラのマリアが「マグダ
ラ」と呼ばれているように、あるいは、静岡県清水市出身の「清水の次郎長」、森町出身の「森の石松」のように、こうしたことはよくありますね。
修道院などで集団で祈る時、はじめはただ言葉を合わせて唱えるだけでしたが、しだいに言葉の抑揚に合わせた簡単なメロディーが生まれてきました。これが
単旋律のグレゴリオ聖歌のはしりです。それは次第に発展していき、やがて壮麗な多旋律音楽になりました。その頂点にパレストリーナの音楽があります。パレ
ストリーナは音楽史という山脈においてバッハの前に立つひとつの大きな峰であります。
ひとつの旋律が生まれると別の声部がその旋律を模倣します。さらにそれを別の旋律が模倣して、次々とめくるめくように音楽が展開していきます。それがひ
としきり過ぎると、前の音楽にオーバラップして次の歌詞が新しいテーマに乗って歌われます。こうして永遠にとぎれることなく音楽が流れていきます。
それでは、いよいよ演奏に移りましょう。パレストリーナ作曲、「ミサ・ブレヴィス」から、キリエ、グローリア、クレドです。
演奏 Missa
Brevis Palestrina作曲
母国語による聖書と礼拝
ルターの宗教改革が音楽にもたらした成果は二つあります。まずはそのひとつである母国語による聖書の理解と、やはり母国語による礼拝について触れましょ
う。
カトリック教会の「カトリック」とは普遍的という意味で、世界中どこにおいても普遍的であろうとします。キリストがユダヤ教という地方宗教の殻を破り、
国を超え民族を超えて世界宗教へと発展していった歴史を考えると、これも当然の流れでしょう。
普遍性は至る所にあらわれていて、教義の普遍性と同じくらい重要なのが言語の普遍性でした。ミサを初めとして典礼で用いる言葉は、どこにおいてもラテン
語が用いられていました。
しかしたとえばドイツにおいてラテン語に精通するためには、特別な教育が施されなければなりませんでした。一般の信者は、司祭の話すことの意味も分から
ず、ただ呪文のようにそれを唱えていたのです。しかしルターは、神への礼拝は自分の言葉で行うべきであるという信念を持っていました。
また、彼がヴァルトブルク城で新約聖書をドイツ語に訳したのには、ドイツの民衆に広く聖書を読んでもらいたい意図があったためでした。みんなが聖書を
もっと理解すれば、免罪符などを発行した教会の過ちがどこにあったか自分達で判断できたはずですし、もっともっと神様の言葉を身近に、日々の糧として味わ
えるはずだと思ったのです。
新約聖書に続いて1534年旧約聖書が刊行し、いよいよ聖書全訳が完結すると、そうしたルターの意図はしだいに民衆に浸透していきました。
それと共にドイツではしだいにドイツ語による祈りの曲が生まれてきました。その旗手となったのは、ハインリヒ・シュッツです。
ハインリヒ・シュッツ
ハインリヒ・シュッツはルターに遅れること約百年、そしてバッハが生まれるちょうど百年前の1685年に、この世に生を受けました。やはりルターと同じ
く中部ドイツのチューリンゲン地方の生まれです。
彼はヴェネツィアに渡って、バロックの扉を開いたとされているダブル・コーラスの大家、ジョヴァンニ・ガブリエーリに師事し、新しい風をドイツにもたら
しました。本日演奏されるDeutsches Magnificatも
8声のダブル・コーラスです。彼は、後年もまたイタリアに遊学し、モンテヴェルディなどのイタリア・バロックの新しい潮流に触れています。
シュッツはドレスデン宮廷楽団の楽長として活躍しましたが、ドイツでは1618年、三十年戦争というカトリックとプロテスタントの戦争が起こります。同
国民が宗教の対立を巡って悲惨な戦いを続けていく間に、民衆の心はしだいに荒廃し、よりどころを失っていきました。ドレスデン宮廷楽団も、その戦争のあお
りを受けて閉鎖。シュッツはデンマークを初めとして各地を転々としました。
結局、カトリックはバイエルンを中心として南ドイツに集まり、プロテスタントはプロシアを中心として北ドイツに密集することで落ち着きます。
1648年に三十年戦争が終わると、シュッツはドレスデンに戻り、大いなる情熱を持って楽団の再建を図ります。彼は、
「すべてのプロテスタントの礼拝堂の中で、光りと輝き、ほめたたえるように」
と言って、音楽におけるプロテスタンティズムにその後の人生を捧げました。
シュッツの作風について、著書「ハインリヒ・シュッツ」を著したエッゲブレヒトは、「ドイツ的」「プロテスタント的」「人文主義的」という三つの特徴を
挙げています。その中で特に「ドイツ的」という点が、シュッツをしてルターからバッハへの橋渡しの役目を担っているのです。
マグニフィカート
有名なマグニフィカートという祈りは、あのバッハでさえ、ラテン語の歌詞に作曲しました。当時のルター派教会ではキリエ、グローリアなどはラテン語で唱
えられていましたし、有名なお祈りの文句もラテン語でやる風習が根強く残っていたのです。しかし、シュッツはあくまでルター訳のドイツ語聖書にこだわり、Deutsches
Magnificat
と呼ばれるドイツ語のマグニフィカートを作曲しました。作曲はドイツ語にこだわったものの、作風はイタリアで学んだ新しい技法で作曲しました。互いに呼び
交わす二つのコーラスの山びこのような効果は、先ほどのパレストリーナなどには決して見られなかった世界を私たちに見せてくれます。
マグニフィカートという祈りは、ルカによる福音書の記述に基づいています。イエスを身ごもっているマリアは、洗礼者ヨハネを身ごもっているエリサベトを
訪問します。マリアの挨拶を聞いた時、エリサベトの胎内の子がおどりました。エリサベトは聖霊に満たされて言います。
「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。」
この言葉はアヴェ・マリアの中に取り入れられていますが、それを受けてマリアが言った言葉が、マグニフィカートなのです。何故マグニフィカートと言うか
というと、
「わたしの魂は主をあがめ」
という最初の言葉が、ラテン語で、
Magnificat
anima mea Dominum
というからです。だから本当はDeutsches Magnificat
という言葉には矛盾があるのですが、Requiemなどと同じようにMagnificatも固有名詞化してしまっているので、このような言い方が成り立つ
というわけです。
加えて、シューベルトがドイツ語につけられた自由詩による礼拝音楽をドイツ・ミサと名付けたり、ブラームスがドイツ・レクィエムを作曲した背景には、
シュッツのこうした命名の仕方が影響しています。
それでは、1672年に亡くなったハインリヒ・シュッツが1671年に作った最晩年の傑作、Deutsches Magnificatを
お聴き下さい。
演奏 Deutsches
Magnificat Heinrich Schutz作曲
ルターとコラール
マルティン・ルターの宗教改革が音楽にもたらしたもうひとつの成果として、コラールがあります。ルターは、教会が堕落した背景には、教会が民衆を無知で
受け身なままにとどめておくことによって従順さを保とうとした点にあったと考えました。そこで民衆をなるべく積極的に礼拝などに参加させようと思い、その
ひとつとしてコラールというものを創り出しました。
バルコニーの上から聞こえてくる多声音楽に身を任せているのではなく、みんなで参加して歌おうということです。その為、メロディーはなるべく簡単で覚え
やすいものでなければなりませんでした。
ルターは、彼自身音楽の素養もあり、「我らが神は堅き砦」や「深き悩みの淵より」など自分で作詞作曲もしましたが、同時に当時の流行歌などに宗教的な詩
をつけて替え歌にしてみんなに歌わせました。
今、みなさんが教会に行くと、信者達が賛美歌を歌っているのが当たり前のような光景になっていますが、この伝統はルターが始めたものなのです。
一方、バッハの受難曲やカンタータなどの中で聴かれるコラール、あるいはオルガン曲のコラール前奏曲のメロディーをバッハの作曲だと思っている人が多い
と思いますが、コラールは基本的にバッハの作曲ではありません。当時教会の礼拝で歌われていたルターをはじめとする様々な人が作曲したコラールのメロ
ディーなのです。
コラールは、そのメロディーが鳴ると、信者達が「ああ、あの内容だな。」と分かるほどに、メロディーと歌詞が民衆に浸透していました。バッハは、そうし
たコラールを使うことで民衆と共にあろうとしたのです。
しかし作曲家が自分の腕を振るおうとする時、コラールを扱うということは必ずしも気が進むものではありません。何故ならコラールはみんなが歌えるように
単純に書かれていますが、作曲家が独創的なことをやろうとすると、その単純さが障害になってしまうのです。
それに対し、バッハは二つの方法でコラールを使いながら自分の腕を披露することに成功しました。ひとつはこのメロディーを定旋律として、それを自由な音楽
で彩る、いわゆるコラール幻想曲という形式で作曲することです。これは若きバッハに影響を与えたというオルガンの名手ブクステフーデの得意とする分野でし
た。コラール幻想曲では、コラールとは全く違うメロディーで曲が始まり、それがひとしきり展開されると、その音楽に平行して定旋律が高らかに流れます。こ
うして単純さと複雑さが同居出来るわけです。
このやり方でバッハは様々な分野でコラールを有効に使いました。オルガン前奏曲に始まって、カンタータ、モテット、そしてマタイ受難曲の冒頭や第一部の
終曲などの大規模な曲に至るまで、このコラール幻想曲の形式で書かれています。
もうひとつは、コラールのメロディーはそのまま歌うのですが、その和声付けハーモナイズに凝る方法です。バッハは、受難曲の途中などで同じコラールを何
度も使いながら、その状況に合わせて様々な和声付けをしました。バッハの和声付けは誰の耳にもすぐ分かります。メロディーに対し他の声部が細かい音符でデ
リケートに動いていくのです。
さて、このレクチャー・コンサート第一部のラストは、バッハがマタイ受難曲で頻繁に使った有名な受難コラールの原曲とバッハの編曲とを聞き比べしてみた
いと思います。はじめにコラールに組み込まれる前のハンス・レーオ・ハスラーの原曲です。これは宗教的な詩ではなく単なる恋歌で、当時流行していた歌だっ
たのです。
「私の心はやさしい乙女のために乱れ悩んでいる。昼も夜も憩いなくため息をついては泣いているのだ。」といった内容のものです。ではお聴きください。
演奏 Mein
G'mut ist mir verwirret
次にバッハがマタイ受難曲のクライマックスで使ったコラールです。茨の冠をかぶせられ、打たれ唾を吐きかけられ、辱めをうけたキリストの姿を嘆く悲痛なコ
ラールに変わっています。
演奏 O
Haupt voll Blut und Wunden
休憩
第二部Bach
モテット
モテットとはMottoすなわち「言葉」というイタリア語に
由来します。元来カトリック教会にて、聖書の言葉を使ってラテン語で歌われる無伴奏合唱曲のことを指していました。しかしシュッツの頃からドイツ語による
モテットも多数作られてきます。モテットはモテット様式に従って作られています。それはひとつの文に対し、ひとつのテーマを設定して、それを模倣発展さ
せ、また次の文に新しいテーマが与えられると、それを模倣発展させていくというような、考え方だけでいうとパレストリーナの方法とも共通点があります。
しかし、バッハのモテットは、パレストリーナやシュッツとは随分印象が違います。なぜでしょう?勿論パレストリーナの複雑な対位法は踏襲され、シュッツ
に見られるドイツ語へのこだわり、そしてイタリア様式も流れ込んでいますが、そのどれにもない大切な要素がバッハにはあります。それは何かというと「世俗
のリズム」です。
世俗のリズム
西洋音楽史を語るとき、グレゴリオ聖歌がその源泉であるという説は間違ってはいませんが、それだけでは不十分です。本当は世俗音楽について語られなけ
ればならないのですが、世俗音楽は基本的に「楽譜に書かれない」即興演奏を中心とした音楽なので、書物にしにくいのです。中世からトルヴァドール、ミン
ネ・ゼンガーといった吟遊詩人たち、あるいは大道芸人達を中心として高度な超絶技巧を持った世俗音楽が発達していました。沢山の名人が出ていたと言われて
いますが、彼らは基本的に一代限りであり、後の世の人達がそれをたどることは困難なのです。現代なら録音という方法があるので、チャーリー・パーカーや
ジョン・コルトレーンがどういう即興演奏をやっていたか分かるのですが、当時はそういうわけにはいきません。
しかし、ある時からそれが譜面に書かれるようになりました。それがバロック期なのです。ブランデンブルグ協奏曲という曲がありますが、あれは記譜された
世俗音楽的名人芸の世界なのです。物凄いヴィルティオーゾの世界です。そしてその超絶技巧を支える強烈なリズムこそ、世俗音楽のもつエネルギーなのです。
バロックとは通奏低音の時代ともいわれますが、通奏低音のリズムの推進力は世俗音楽から影響をうけたものです。加えて、舞曲のリズムがあります。バッハの
カンタータや受難曲などのアリアは全て舞曲で書かれているといっても過言ではありません。
そうした世俗音楽のリズムと名人芸の世界が、このモテットの中にも入り込んでいます。それまでの常識から考えると、こんなふざけた方法で宗教的作品を書
くなどけしからん、というところなのです。
これからお聴きいただくSinget dem Herr nein
neues Lied「主に向かいて新しき歌を歌え」も弾ける様なリズム感に支えられています。もうどこから見てもバッハ・ワールドです。
二重合唱の呼び交わしはシュッツから受け継いでいます。
第二曲目では第二合唱によって歌われるグラーマン作詞のコラールを、第一合唱が美しく彩ります。ではバッハの世界を十分に味わってください。
演奏 モテット Singet dem Herr nein neues Lied「主に
向かいて新しき歌を歌え」
音楽による説教
このモテットの中のコラールでは、こんな言葉が聞かれます。
「我々は塵に等しく、刈り取られる草のよう。落ち行く花びらや枯れ葉のようでもある。ただ風が吹きすぎるだけで、跡形もなく消えてしまうのだ。」
こうした厭世的とも言える歌詞をバッハは好んで使いましたが、それは「死」を見つめることによって信仰の世界に入ったルターの精神を受け継いでいるもので
あります。
さて、バッハの聖書へのこだわりとコラールへのこだわり。すなわちルターの精神を最も忠実に受け継いだ作品として、私は今回の演奏会の最後にJesu,meine Freude「イエスよ、わが喜び」を取り上げま
した。この作品はフランク作詞、クリューガー作曲の有名なコラールと、新約聖書のローマ人への手紙による自由な合唱曲が交互に現れるという変わった構成と
なっています。ここまでいくと、もはやモテットとはいったい何かという問いを発するのさえためらわれるような、形式の破壊が見られます。
しかし、ルターの信条である、「キリストへの信仰により人は神によって義とされる。」という教義が、コラールをはさみながら次々と明かされていくのを味
わっていくうち、我々はバッハの中に燃えているルターへの熱い思いをひしひしと感じるのです。
ローマ人への手紙第8章は、パウロの思想の核心でもあります。パウロは人間の罪の問題に深く向き合います。人間はどこまでいっても罪の中にある存在であ
り、これを自分で解決することは不可能であるという結論に達します。そこで、キリストを信じ、キリストの中に生きることによって、体は罪ゆえに死ぬけれ
ど、魂はキリストの聖霊が自分の中に宿ることによって義とされ、命の道に入る、と説くのです。
その聖句と「どんな困難の中においてもイエスを信じることで自分には喜びがある。」という内容のコラールが同時進行して、我々を強い確信に導いていきま
す。
このように、このモテットは、音楽と歌詞の両面からによる説教なのです。また音楽的に見るとコラールの扱いは後半になるとしだいにコラール幻想曲風に発
展していき、作曲技法的に見ても大変興味深いものであります。
バッハは、器楽曲も勿論素晴らしいのですが、彼の声楽曲に触れる時、私はバッハこそがルターの教義の音楽的成就と映るのです。バッハの出現によってル
ターの宗教改革は完成したのです。実はこのことを伝えたくて、私はこの演奏会を開きました。
それではお聴きください。モテット Jesu, meine Freude
「イエスよ、我が喜び」です。
演奏 モテット Jesu, meine Freude 「イエスよ、我が喜び」