モーツァルト200がヘンデルを演奏する意味

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真  僕は、バッハを崇拝しヘンデルを愛するように、ベートーヴェンを尊敬しモーツァルトをこよなく愛す る。ヘンデルとモーツァルトは、人々に尊敬されるよりむしろ愛される作曲家として共通点を持つが、モーツァルト自身がヘンデルにかなり傾倒していたことは あまり知られていない。

 モーツァルトがヘンデルに親近感を持つのにはわけがある。バッハやベートーヴェンは、生涯を通じてほとんどドイツ、オーストリア、すなわちドイツ語圏から出たことがなく、活動の拠点もかなり限られていた。その作風もゲルマン的精神に支えられており、崇高かつ重厚なものであった。 それに対して、モーツァルトは幼少の頃から父親に連れられてイタリア、フランスをはじめとして各地を旅行し、外国語に精通し、グローバルな世界観を持っていたのである。
 そのモーツァルトが、ドイツ人でありながらロンドンを拠点に活動し、やがてはイギリス人として国籍を取得する国際人ヘンデルのおおらかな人間性とそのコ スモポリタンな作風に惹かれるのは、むしろ当然の成り行きともいえる。

 ヘンデルというと、現代では「メサイア」の他には「水上の音楽」くらいしか一般には知られていないが、当時は何と言ってもオペラ作曲家としてロンドンで 大活躍していたのである。彼は母国語であるドイツ語に始まり、英語は勿論のこと、オペラの歌詞であるイタリア語、さらにフランス語にも精通していて、それ ぞれの言語で同じくらい作品を残している。
 ヘンデルのオペラ・アリアは、「セルセ」の中の有名な「ラルゴ~なつかしの木陰よ」を聴いても分かる通り、メロディーがシンプルである。だがこれは当時 の歌手達がこのメロディーを題材にして自由に装飾して歌うための素材であり、今日のようにそのままの形で歌うことは稀であった。ヘンデルは、今日的に言うと、ジャズメン達がアドリブをする素材として理想的なスタンダード・ナンバーの作曲家として優れていたのである。
 一方モーツァルトも当時は有名なオペラ作曲家であった。しかしモーツァルトのオペラ・アリアにおいては、装飾はすでに音符に表されており、自由な即興を 許さないほどに完結している。その意味においては、モーツァルトはヘンデルのオペラから学び取ったものは少ないように見える。むしろモーツァルトが手本にしたのは、ヘンデルのオラトリオの手法である。

 ヘンデルの宗教曲は、バッハのそれと違って凝縮性よりも拡散性を持ち、信仰の厳しさよりも神の寛容をより表現していた。曲想も、対位法的に厳格に進行し ていく部分と、和声的に進行していく部分とがはっきりと分けられていて、明快かつ親しみ易く、それでいて巨匠の風格があり、万人に受け入れられやすい要素 を備えていた。
 モーツァルトは、音楽を理解しないザルツブルクのヒエロニムス・フォン・コロレド大司教より、「30分を超えるミサ曲を書いてはいけない。」と言われていて、作曲家としての技巧を凝らしつつ、音楽に親しみやすさを失わない努力を強いられていた。またモーツァルト自身も、普段から自分の作品について、「普通の人もそれなりに楽しませ、かつ耳の訓練された者にはその段階に応じて満足が得られるような」作風であると自負していただけに、宗教曲も決して堅苦しくならずに書くためには、ヘンデルの知恵を盗む必要があったのではないか。

 特に「メサイア」は、あれだけの大曲であるにもかかわらず、わずか二十日間あまりで書き上げられたと言われている。その背景には、その頃作っていたイタ リア語による二重唱曲の内から数曲を合唱曲用に転用した事実がある。この二重唱曲は、イタリアらしいコロラトゥーラに満ちた世俗的な手法を用いて作曲されていて、詩の内容もほとんどが恋の歌である。二声の重唱を四声の合唱曲に直しても水増しした感じにならないのがヘンデルの隠れた凄さだと僕は思っている。

 私事になるが、僕は学生の頃、尊敬する作曲家の作品を研究するのに最も有効な方法として、しばしば作品を丸ごと写譜した。そうすることによって、作曲家の和声進行の癖や響きの秘密などをかなり細かく知ることが出来るのだ。かの大バッハもヴィヴァルディをはじめ、沢山の先人達の作品を写し取っており、それがバッハの筆跡を持って存在する故に、しばしば偽作か真作かの議論の的となっていたのである。
 このモーツァルト編曲「メサイア」のスコアでも、モーツァルトがヘンデルの手法を骨の髄まで味わいつくし、その置き土産としてモーツァルトの時代の古典 派的管弦楽法で彩られたこの編曲を残したのだということが手に取るように分かる。同時に、このモーツァルト版「メサイア」というものは、モーツァルトの感 性を通しての「メサイア」の姿である。勿論モーツァルト編曲だからといってモーツァルトの曲には聞こえないが、その響きの中にモーツァルトのヘンデルへの 深い尊敬と愛が感じられる。

 モーツァルトの宗教曲を活動の中心に据えるモーツァルト200合唱団が、モーツァルト編曲版の「メサイア」上演に行き着くのは当然の結果である。そしてこの「メサイア」を演奏した後、再びモーツァルトの宗教曲に向かうならば、我々は随所に彼がここから何を学び取り、自らの作品に投影していったのか見るこ とが出来るだろう。それによって我々の演奏の内容も少なからず変わってくるだろうと僕は信じている。



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