はじめてのバッハ~初心者のためのバッハ講座

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

バッハの作曲法
 みなさん、こんにちは。三澤洋史です。今日は「はじめてのバッハ」と称しまして、バッハの音楽の入門講座をいたします。とはいっても、これまでにバッハの音楽を一度も聴いたことがないという人はいないでしょう。それに「G線上のアリア」とか 「メヌエット」とか「主よ、人の望みの喜びよ」とか、聴いていいなあと思う曲も中にはあるでしょう。
 でも、一方でバッハおたくの人達がいて、
「バッハはなあ、そんな簡単な音楽ではないぞ。なにしろ、著名な音楽家の中でもバッハだけは苦手という人は少なくないし、逆にバッハに一生を捧げる音楽家も少なくないんだ。」
なんて言うものだから、何かそんな単純な聴き方などしてはいけないのではないかと気後れがしてしまうことがあります。
 バッハおたくの中には、バッハの音楽しか聴かない人がいます。理科系の人に多いですね。ショパンの音楽なんか気持ち悪くて聴けないなんて言います。そういう人は、バッハの音楽の中にある理知的な要素に惹かれているのですね。フーガの技法のように、一般的な聴衆が気楽に楽しんで音楽を鑑賞することを拒否するような作品を、むしろ好んで聴きます。まるで数学の問題を解くように、その中に整然と書き記されたモチーフの論理的展開を知的に楽しむというわけです。

 これがバッハを難しくしています。事実、バッハは批評家シャイベなどから難しすぎると批判され、バロックから古典派の単純な作風に移り変わっていく時代の流れの中で、生きている内に取り残され、忘れられていくのです。
 でも、そうした面だけがバッハではありません。作品によっては、とてもロマンチックな曲もあるし、娯楽性の強いものもあります。バッハの音楽はとても幅広いし、これを理解しなければバッハは分からないのだ、なんて決めつける必要はありません。
とは言いながら、僕はあえて最初にみなさんが苦手そうなお話しをします。まずはこの曲を聴いて下さい。

ピアノ演奏  二声のインヴェンション第一番ハ長調
≪楽譜拡大表示≫
 これは、ピアノを習う人だったら必ず一度は弾かされるインヴェンションの最初の曲です。実は、このインヴェンションを弾かされたからバッハを嫌いになったという人が少なくありません。右手と左手がバラバラに動くし、一度止まってしまったらもう戻れません。なんてやっかいなのでしょう。
 でもこのインヴェンションの第一番は、驚くべき曲なのです。このインヴェンションという曲集は、バッハが自分の息子達に教えるために書いた練習曲です。でも、ピアノを弾くためだけの練習曲ではありません。作曲法の練習曲でもあるのです。
≪楽譜拡大表示≫
 ということで、一つの楽想をどのように発展させて曲を作り出すかという理想の作曲法をバッハはここで示したわけですね。バッハはこの方法で15曲からなる二声のインヴェンションと、やはり15曲からなる三声のシンフォニアというものを作りました。でも、その中には難い曲ばかりあるわけではありませんよ。たとえば三声シンフォニア第五番変ホ長調は、こんな曲です。
ピアノ演奏 三声のシンフォニア第五番変ホ長調
(曲を聴きながら)これも一応上の二つの声部はカノンの形をとっていますが、どうです、まるで午後の昼下がりにゆったりくつろいでスコーンを食べながら紅茶を飲んでいるようなやすらぎの表現!こうしたことがバッハの音楽の幅広さです。

ルターの精神~コラール
 さて、バッハの創作のモチベーションを語る上で、いくつかのはずせない要素があります。バッハが生まれたアイゼナッハという町は、宗教改革の旗手であるマルティン・ルターの町でもありました。バッハが通った小学校は、遠い昔にルターも通いましたし、アイゼナッハのすぐ近くにあるヴァルトブルグ城で、ルターはラテン語の聖書をドイツ語に翻訳するという偉業を成し遂げています。このあたりは、ルターのおかげでプロテスタントの中心地となりました。

 ルターは、宗教改革を行っていく中で、二つの大きな実質的な改革を教会にもたらしました。それまではカトリック教会しかなかったわけですが、カトリックとは普遍的という意味で、そのシンボルとして普遍的な言語といわれたラテン語を世界中どこでも使用していました。ミサと呼ばれる礼拝もラテン語で行われれば、聖書もラテン語で書かれていて、各国の言葉に訳されることはありませんでした。ですから、一部の聖職者や知識人にしか読めなかったのです。カトリック教会が堕落しても、照らし合わせてどこが間違っているか指摘する基準となる聖書が読めないのでは、誰も分からないのです。
 ルターは、まず聖書をドイツ語に訳して出版し、誰でも読めるようにしました。それと礼拝の中の言葉をドイツ語にし、みんなで礼拝に参加できるようにしたのです。

 それともうひとつ。礼拝の中で使われる音楽は、それまでプロの音楽家が教会の二階のバルコニーから歌い、会衆はただぼんやりそれを聴いているだけでした。しかもそれはラテン語で歌われていたのです。それをルターは、会衆が参加できるように改革しました。
彼は、その当時流行っていた流行歌に宗教的な歌詞をつけて替え歌とし、これを会衆に歌わせました。これがコラールの誕生です。
 コラールは賛美歌のことです。誰でも歌えるような単純なメロディーを持ち、これをオルガンなどで伴奏しました。歌詞は勿論みんなが歌えるドイツ語です。ルターは沢山の替え歌を作っただけではなく、自分でも作曲の才能があり、沢山のコラールを作りました。こうしてドイツ語による礼拝とコラールはまたたく間にドイツのプロテスタント教会に広まっていったというわけです。

 そうしたルターのプロテスタンティズムの息吹は、約二百年後のバッハにまっすぐ受け継がれています。たとえばこういうコラールがあります。

ピアノ演奏  マタイ受難曲の第40番コラール
 このコラールのメロディーは癒し系のキャラクターをもっています。ミで始まるメロディーは三音高位と和声学ではいいますけれど、そうした性格を持っていると言われています。さらにミファソソファミレというラインは、ベートーヴェンもミミファソソファミレと第九などで使っていますが、ひとなつこい性格を持っていますね。
 このコラールを使ってバッハは不滅の名作を残しました。ちょっと冒頭の方を弾いてもらいましょう。
ピアノ演奏  「主よ、人の望みの喜びよ」の冒頭
≪楽譜拡大表示≫
 このメロディーは、一見先ほどのコラールと関係ないように見えますね。でも後でこういうコラールのメロディーが出てきます。そしてそれと合わせるようにこんな風になります。
ピアノ演奏
≪楽譜拡大表示≫
 つまり、バッハはあらかじめこのコラールのメロディーにマッチするように別のメロディーを考え、あとで合体させたわけですね。このコラールのメロディーも素敵ですが、バッハの作曲したメロディーのなんて美しいことでしょう!こんな風にコラールのメロディーを一フレーズずつ出しながら、あらかじめ用意した別の音楽とからめて演奏するやり方をコラール幻想曲、コラール・ファンタジーといいます。
では、全曲を聴いてみましょう。
ピアノ演奏  「主よ、人の望みの喜びよ」全曲
 ところで、この曲は元来ピアノ曲ではないのです。カンタータ第147番という中の曲ですが、ピアノ曲としての方が有名になっています。通常、声楽曲というと歌詞がないと様にならないのですが、音楽としてすでにジャンルを超えて充実しているため、声楽曲でも器楽曲として聴けるし、自由自在なのです。

バッハは、コラールを使っていろいろな表現をしています。次にお聴きいただくのは、バッハの初期の傑作カンタータである第131番「深き淵より」の中にあるバスのアリアですが、それにソプラノのコラールがかぶさってきます。バスの独唱は、
「主よ、あなたがもし罪に目をとめるならば、誰が立っていられるでしょう。でもあなたには許しがあるのです。」
と歌いますが、同時進行するコラールは、キリストの十字架のことを語っています。キリストが十字架によって我々に許しをもたらし、我々の苦悩の慰め主となったことを、二つの異なった歌詞の音楽を同時進行させることによって表現しているわけです。では聴いてみて下さい。
CD1 カンタータ第131番「深き淵より」から、第2曲

即興的なバッハの面
 二つの異なったメロディーが同時進行し、異なった歌詞を歌って、双方から一つの真実を表現するなんて素晴らしいです。それにバッハは音符をあやつる大天才ですね。こんなバッハだから、とても理論的な人で、音楽を厳格な理論にのっとって書いていると思われるでしょう。ところがそうでもないのですよ。次にパルティータというピアノ曲の一節を聴いて下さい。

ピアノ演奏  パルティータ第二番の一節
≪楽譜拡大表示≫
 この音楽は、どこかとりとめのないような印象を与えますね。そうです、この二度と繰り返すことのないメロディーは、全く即興的に作られていて、あたかもジャズ・プレイヤーがアドリブで演奏しているようです。こうしたことをやらせてもバッハの腕は第一級です。
 この音楽は右手と左手が一声ずつ、つまりわずか二声の音楽ですが、実に豊かに聞こえませんか?ここにバッハの音楽の秘密があります。
「バッハの音楽の中には全てがある。」
と、よく音楽家の人が言います。実際にはこのように二声の音楽なのですが、僕もこの音楽の中に様々なものを聴きます。
 バロック音楽の時代は、別名通奏低音の時代とも呼ばれます。この時代に近代の和声法が確立され、バスの声部の上に和音進行を組み立てるようになりました。一番偉い王様がバス。華やかな女王様はメロディーであるソプラノ声部。それから内声は和音の音を埋めました。バスの進行もメロディーの流れも和声進行の法則にのっとっています。それで、その和声進行が頭にある人には、このバスとメロディーしかない音楽の背後で流れる和音の流れが見えるのです。つまりバッハの音楽には、聞こえないものが聞こえるというわけです。
 この時代にはバス声部を受け持つのはチェロとかファゴットという低音楽器。それに一オクターヴ下をコントラバスが重ねていました。その低音には数字がついていて(今で言うコードネームのようなものです)間の声部はチェンバロやオルガン奏者が即興で勝手に和声をつけていました。僕がこのパルティータを聴くと、たとえば次のような音が頭の中で響くのです。

CD2 バロック・アンサンブル風 パルティータ



 このやり方って、なんだかジャズみたいではありませんか。メロディーは即興的だし、和音も勝手につけていいのです。音楽ってベートーヴェンの時代くらいから、楽譜に書いてあること以外やってはいけない、という風に堅苦しくなってしまいましたが、バロック時代は、まだまだとても自由だったわけです。だから僕は、このパルティータから、こんな音も聞こえてくるのです。

CD3 ジャズ風 パルティータ



 でもね、だからといっていつもこういう風に具体的に和音をつけて演奏されるのがいいとも限りませんよ。僕はバッハをピアノという楽器で演奏するのが好きです。ほんとうは時代考証を考えるとチェンバロで演奏するべきかも知りませんし、僕自身、チェンバロの演奏を聴くのは嫌いではないのですが、ピアノには想像力をそそる面があります。心の眼を開いて聴くと、バッハの音楽からはいろんな音色が聞こえ、実際には鳴っていないいろんな音が聞こえてくるのです。

 さあ、それでは今の曲が入っている、パルティータを聴いてみましょう。最初に荘重な部分があってものものしく序曲という感じで演奏されますが、すぐに先ほどの音楽が、心に染みいるように入ってきます。これがひとしきり即興的に演奏されると、いきなり緊張感を孕んだフーガが始まります。フーガのことは後で説明しますので、まずは先入観なしに、音楽を楽しんで下さい。ではパルティータです。
ピアノ演奏  パルティータ第二番 演奏

音楽史の分岐点
 バッハは現代の私達からみると、音楽史の始まりのように思われますが、大学などで音楽史の授業を受けたことのある方は分かると思いますが、その前に長い時代があり、バッハは音楽史の真ん中に位置しています。そして、それまでの流れがバッハという湖に流れ込み、そこで「現代の我々の感覚に通用する」ものに変えられて、今度はバッハから流れ出るのです。
その流れ込んだものの中に、世俗音楽の要素があります。それは、ひと言で言うと、リズムと名人芸です。
たとえば次のアリアを聴いて下さい。

CD4 ヨハネ受難曲 ソプラノのアリア
 この曲のリズムは楽しそうで、踊ることも出来そうです。実はこれはヨハネ受難曲の中のアリアです。現代の眼からみるとあまり感じないかもしれませんが、こうした真面目な宗教曲をこんな風に舞曲で作曲するなど、当時としては不謹慎きわまりないことでした。でも時代の流れに敏感なバッハは、こうしたダンス・ミュージックで宗教曲を書いたわけです。
 スイングがなければジャズじゃない、とよく言われますが、バッハの音楽は、舞曲を取り入れるというだけではなっく、全ての曲において躍動するリズムに満ちています。ビート感と言ってもいいでしょう。バッハの音楽がジャズになりやすいのは、こうした理由からきています。

名人芸
 もうひとつの要素、名人芸ですが、これがバッハの音楽を本当に生き生きとしたものにしています。今でもヨーロッパの街角ではストリート・ミュージシャンがいて、様々な音楽を演奏していますよね。日本でもいますが、日本ではあまりみんながお金をあげないので、それで生活することは難しそうです。でもヨーロッパでは本当に生活できます。まあ、上手ならの話ですけれど。よく見ていると、下手な演奏をしている人の所にはお金が集まりません。すごくはっきりしています。でもこれが、ヨーロッパの世俗音楽の原点です。
 音楽史の表舞台はなんといっても教会音楽にあって、音楽史は教会音楽を中心に語られてきました。何故かというと教会音楽は楽譜という形で残っているからです。世俗音楽の世界では、超絶技巧を披瀝し、絶大な人気を誇っているミュージシャン達がいましたが、それらの人達は即興演奏を行っており、それを楽譜に残して後生に残そうとは考えていませんでした。
 でもバロック期になると、イタリアを中心に協奏曲コンチェルトなどが流行し、そうした名人芸が譜面に書かれるようになってきたのです。
 バッハもその流行を取り入れました。そして、例によって超一流のパッセージを書き記していくのです。たとえばバッハの最高傑作に数えられる、6つのブランデンブルグ協奏曲の第三番ト長調はこんな明るい表情を持っています。

CD5 ブランデンブルグ協奏曲第三番 第一楽章
これは協奏曲といっても、ひとりのソリストがオーケストラと対峙するのではなく、弦楽合奏の中で、それぞれの楽器が競い合って演奏します。同じパッセージがいろんな楽器に渡り歩いていくのは、とても楽しいですね。
こうした世俗音楽から来た音楽の作り方は、お遊びのような雰囲気を持っているので、宗教曲にはふさわしくないと普通は考えるでしょう。でもバッハは、こうした技法をお堅い宗教曲で積極的に取り入れていくのです。次にお聴きするのは、バッハが最後に残したロ短調ミサ曲という大作です。
 Quoniam tu solus sanctus「主のみ聖なり」というバスのアリアは、ホルンの技巧をあますことなく表現しています。それを伴奏する二本のファゴットも楽しいです。宗教曲でこんなに楽しくていいのでしょうか?それから「聖霊と共に、父なる神の栄光の内に、アーメン」というくだりが来ますが、ここは合唱にとっては演奏可能かどうかのギリギリの技巧が聴かれます。このミサ曲は、僕に言わせると、まさにクレイジーな音楽です。

CD6-7 ロ短調ミサ曲 主のみ聖なり~聖霊と共に

 このように、名人芸を披露し、リズムに満ちていることによって、それまでの教会音楽、世俗音楽両方から流れ込んだ音楽の要素が、バッハにおいて融合し、今日の我々が聴いても血湧き肉躍る音楽に仕上がっているわけですね。学者達の中には、バッハの宗教性を特に評価していて、バッハの作曲における宗教的モチベーションを強調して語る人がいますが、僕にはバッハという作曲家は、もっと現実的でしたたかだったような気がします。つまり、活躍するフィールドが宗教的な土壌だったので、バッハは、どのスタイルの音楽においても、書きたい音楽を書いていたと思うのです。

バッハとドラマ
 次は、バッハの音楽のドラマ性についてちょっと語ってみたいと思います。前回の東京バロック・スコラーズの講演会では、音楽学者の樋口隆一先生をお呼びして、ヨハネ受難曲の魅力について語ってもらいましたが、その中で樋口先生は、
「ヨハネ受難曲の冒頭の合唱曲は、当時の民衆からしてみると新しすぎて、あまりに劇的でみんな眼を回したのではないか。そこでライプチヒの市当局からにらまれ、もっと穏やかな曲に第二稿で書き直したのではないか。」
とおっしゃっていました。樋口先生も僕と同じで、あまりバッハの宗教性を強調しないので好きです。これからその劇的なヨハネ受難曲の冒頭を聴いてもらいますが、管楽器が半音でぶつかり、弦楽器が16分音符で奏する不安な前奏に続いて、合唱が「主よ!」と叫ぶように入ってくるくだりは、確かに衝撃的です。

CD8 ヨハネ受難曲 冒頭
 どうですか、みなさん。ドラマチックですね。バッハは、オペラこそ書きませんでしたけれど、彼のカンタータも、受難曲もみんな、当時一番新しかったオペラの手法を取り入れて曲を書いています。

バッハのフーガ 
 さて、いろいろなバッハの面を聴いてきましたが、最後はまた冒頭のインヴェンションの延長に戻って、やはりなんといってもバッハの作曲家としての稀有な力量をあますことなく発揮したフーガで締めくくりたいと思います。
 バッハがケーテンの宮廷に勤めていた時代に、ハ長調、ハ短調、嬰ハ長調、嬰ハ短調というように、音階にある12の調全ての長調と短調で一曲ずつ作曲した、24曲からなる曲集を作りました。こういうところがバッハらしいですね。他の作曲家だったら作りたい調性と作りたくない調性があったりして、途中で嫌になってしまうだろうと思いますが、律儀なバッハはそれぞれの調の上に前奏曲とフーガを書き、これを一セットにまとめました。これが有名な平均率クラヴィーア曲集です。
 どうしてそうしたかというと、現代のピアノの調律の仕方は平均率というのが当たり前ですが、実は平均率はその頃初めて出てきた調律の方法です。

(平均率の説明~1オクターヴの中の12の音が均等に配置されている。純正調の調律からみるとどの調性においても同じくらい狂っているといえるが、そのためにどの調性にいくことも可能になった・・・・etc.)
 バッハは、この24の曲からなる平均率クラヴィーア曲集をなんと二つも作ったのです。これらは第一巻と第二巻と呼ばれます。なんとも偏執狂みたいな人です。今日はその第一巻から、第三曲目の嬰ハ長調の前奏曲とフーガを聴いていただきたいと思います。
フーガの主題の説明
≪楽譜拡大表示≫
 このエネルギーに満ちたフーガの前に置かれた前奏曲ですが、僕はこの曲が大好きです。特にこれをチェンバロではなく、ピアノで聴くのが好きです。きらきらと光があたりにこぼれているような愉悦感というか、色彩感というか、この曲を聴いていると幸せになるのです。こうした自由な楽想と、その後の厳格なフーガの対象も見事です。でもフーガでもバッハのような卓越した名人の手にかかると、窮屈な感じは全くしないで、実に自由奔放に聞こえます。

バッハの凄さ
 僕は断言しますが、バッハの中には、これまで人類が辿り着いた作曲における最も高い技術が見られると思います。バッハこそは、あらゆる作曲家の中で最も進化した人類、最も優れた作曲家であると信じます。そのバッハの作品に触れることは、僕にはこの世に生まれた目的のひとつにすら思えるのです。
 マタイ受難曲のような大曲に接しなくても、こうした短い曲の中にも、そうしたバッハの凄さが光っています。このような曲は、バッハ以外誰にも書けません。では聴いて下さい。平均率クラヴィーア曲集第一巻から、前奏曲とフーガ嬰ハ長調です。

ピアノ演奏  平均率クラヴィーア曲集第一巻 前奏曲とフーガ嬰ハ長調



Cafe MDR HOME

© HIROFUMI MISAWA