日本モーツァルト協会
講演会「モーツァルトの宗教曲の魅力」

三澤洋史 

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導入

CD1 合唱つき歌曲 「今日こそ浸ろう、親愛なる兄弟よ」K.483
 最初にお聞きいただいたこの曲は、フリーメーソンの集会の開会式のために書かれた合唱つき歌曲「今日こそ浸ろう、親愛なる兄弟よ」です。作られたのは1785年の末と言われていますので、29歳の頃です。

        

モーツァルトは前の年の1784年12月にフリーメーソンに入団し、熱心に修行したため、すぐに親方の資格を得たと言われています。そしてフリーメーソンとの関係は、彼の晩年を通して死の時まで続いていたわけです。

 さて、本日の講演の議題はモーツァルトの宗教曲についてです。モーツァルトはカトリックに属していたので、宗教曲といえばまずミサ曲を思い浮かべる人が多いと思います。実際彼は20曲あまりのミサ曲を残しています。その中には有名な「戴冠式ミサ曲」や、「大ミサ」と呼ばれるハ短調ミサ曲、そして死者のためのミサ曲である「レクィエム」も含まれているので、これらを紹介しただけでも充分に一晩の講演に値するのですが、モーツァルトの宗教曲はミサ曲だけではありません。ミサ曲の他にも名曲が沢山あり、それぞれの曲を作っている時のモーツァルトのモチベーションは随分違います。最初に聴いていただいた曲が宗教曲の範疇に入るのか否かということについても意見が分かれるところですが、私は入れないわけにはいかないのではないかと思っています。

宗教曲のジャンル
 本題に入っていく前に、宗教曲になじみが薄い方に用語の説明をしたいと思います。そんな事とっくに知っていると思われる方もいらっしゃると思いますが、案外定義の受け取り方は曖昧なので、一度はっきりさせてみようと思います。

ミサ曲
 まずミサ曲です。現在では演奏会で音楽の部分だけが切れ目なく上演される事が多いのですが、元来は教会でミサの進行に従って演奏されることを目的に書かれました。ではミサとは一体何でしょう。他の祈りの曲とどう違うのでしょうか?
 ミサは、カトリック教会だけの礼拝形式です。ミサが他の祈りと違うところはミサは秘蹟である聖体拝領を含む礼拝だということです。秘蹟Sacramentとは、「神の恩寵を教会が信者に授ける儀式」として、教会では7つの秘蹟を有しています。分かり易いところでは結婚や洗礼なども秘蹟です。聖体拝領とは、キリストが最後の晩餐の時にパンを裂いて弟子に分け与えた時、
「これを私の体として食べなさい。そしてこれを私の記念としてこれからずっと行いなさい」
と言った言葉を受けて、ミサの中でキリストの体すなわち聖体を食するわけです。だから、他の祈りはただ信者達が自主的に集まって行うことが出来るのですが、ミサだけは、聖体を授ける資格のある司祭が行わなければならないわけです。

 おおざっぱにミサの流れを言いますと、まず信徒はミサに出席する時に、自らの罪を思い起こし、神に赦しを請うことによって魂のすす払いをして、この信徒の共同体に加わります。この時に祈るのが「主よ、憐れみ給え」すなわち「キリエ」です。そして続いて栄光の賛歌「グローリア」がきます。それから聖書を読み、司祭が説教します。その後、信徒ひとりひとりが自分の信仰心を確認し表明する信仰宣言の祈りが来ます。これが「クレド」と呼ばれる祈りです。
 後半は聖体拝領に向かって進んでいきます。途中で「聖なるかな、聖なるかな」という「サンクトゥス」が祈られます。そしてホスティアと呼ばれる聖体が司祭のもとに運ばれてきて、ただのパンがキリストの体へと変化する聖変化と呼ばれる厳粛なる瞬間が訪れます。この頃になりますと、各信者達は、共同体の中で神への信仰によって平和の一致をみるようになります。そこで「我らに平和を与えたまえ」と祈る「アニュスデイ」と呼ばれる祈りが来ます。そして聖体拝領が行われます。
 ミサの中での実質的な行為はこれで終わりますが、最後に司祭は信徒一人一人を教会から追い出します。つまり、この共同体の中での平和は成就された。これからは信徒一人一人が世の中に出ていって平和を述べ伝える人になりなさいというわけです。その時に司祭が、Misa estすなわち「ここでの事は終わりました。出て行きなさい」と言うのでミサとなったわけです。

 さてミサ曲ですが、このように音楽はミサの中で偶然的にちりばめられていますので、これをいっぺんに演奏会で演奏するのは、当初の目的からははずれているわけです。それとミサ曲の歌詞を並べてみると、言葉の数がとてもアンバランスであることが分かります。キリエは言葉数が少ないですが、グローリアとクレドはとても言葉が多いです。そしてサンクトゥスとアニュスデイはまた言葉が少ないのです。
 こんな風に、オペラの台本のようにあらかじめ通して演奏するようにテキストが書かれているわけではないし、ドラマの激しい展開があるわけではないので、作曲家にとっては決して作りやすいとは言えませんが、ミサ全体ではある流れがあります。それは懺悔で始まり、平和への祈願で終わるという点です。つまりミサは究極的には世界平和に向かっているわけです。

ミサ以外のカトリック礼拝曲
 その他にカトリック教会では様々な祈りがありまして、たいていそれはテキストの最初の言葉をとってタイトルとされます。たとえばTe DeumはTe Deum Laudamus「主よ、あなたを誉め歌います」ですし、Regina Coeliは「天の女王よ」つまり聖マリアへの賛歌です。また連?と呼ばれるリタニアという祈りや、夕べの祈りであるヴェスペレなどがあります。これらは基本的に祈りの曲だということを念頭に置いてください。つまり本来、参加しているひとりひとりが心の中で神に向かって祈るのを、演奏者が代表して演奏行為の中で行うというものであって、“聴衆の前で披露する”という行為とは一線を画すということなのです。

オラトリオ
 さて、カトリック教会の礼拝曲から離れたところでは、オラトリオとかカンタータ、あるいはモテットという言葉があります。オラトリオは元々は「祈る場所」という意味ですが、オーケストラ、合唱、独唱を伴う大規模な宗教曲で、たいていはある物語性を持っています。ハイドンの「天地創造」などはその典型的な例です。語源とは裏腹に、この言葉で祈るためではないので、礼拝音楽ではありません。つまり先ほどの祈る曲と違って、演奏者は聴衆の前で披露し、聴衆は第三者としてそれを受けるということです。
 モーツァルトは宗教的ジングシュピール「第一戒律の責務」や宗教劇「救われたベトゥーリア」という作品を残していて、多くの学者はこれらをオラトリオに分類しています。でも、そんな事言ったら、同じジングシュピールである「魔笛」だって、オラトリオに分類出来てしまうような気がします。オラトリオは物語性はありますが、演技をつけて劇場で上演するためのものではなく、コンサート会場で上演することを想定されています。
 ヘンデルの「メサイア」は、物語性は希薄ですが、祈りの曲ではなくコンサート用の宗教作品と言うことでオラトリオに分類されています。バッハの「マタイ受難曲」や「ヨハネ受難曲」は「受難曲」というカテゴリーに分類されているのですが、私自身は、物語性を考えるとこれは内容的にはオラトリオと呼んでいいのではないかと思っています。ただ、当時の演奏のシチュエーションとしては、教会の中でコラールなどは会衆が一緒に歌って参加していたので、上演形態を考えると微妙なのでしょう。現代のように演奏会場で第三者的な聴衆の前で演奏されるならば、まぎれもなくオラトリオなのですが・・・・。

カンタータ
 カンタータは、マルティン・ルターが始めた宗教改革後、ルター派の礼拝のために作られた音楽です。考え方としてはミサ曲のルター派教会ヴァージョンということでしょうか。やはり管弦楽、合唱、独唱を伴っています。言葉の語源はSuonare「響く、演奏する」というイタリア語が、楽器で演奏される音楽Sonataになったように、Cantare「歌う」という言葉が発展して歌われる音楽Cantataになったわけです。ですから基本的にはカトリック教会にはカンタータはありません。
 バッハにはクリスマス・オラトリオと呼ばれる作品がありますが、これは実質的には降誕節の6つのカンタータを一つに集めたものです。では何故オラトリオと呼んでいるのかというと、これを6日間に分けてルター派教会の礼拝の中で実用的に用いれば、れっきとしたカンタータなのですが、バッハは、後々これを降誕という一貫した物語性を持つひとまとまりの作品として、教会から離れて上演されることを望んでいたようです。それであえてオラトリオと名付けたと推定されます。この辺の所にジャンルの境界線が見えるではありませんか。
 ちなみに、モーツァルトが晩年いくつかカンタータを残していますが、それはみなフリーメーソンの為の作品です。

モテット
 そして、モテットです。モテットの語源は、言葉という意味のフランス語le motから来ています。イタリア語でもMottoという言葉があって「これを我らがモットーとする」などと我々日本人も使います。言葉が発展して音楽となったもので、基本的には無伴奏の合唱曲を指していました。
 モテットはモテット様式で書かれています。ひとつのフレーズにひとつの主題が与えられ、これがひとくさり発展します。すると今度は次の言葉に次の主題が与えられて発展し、次々と進んでいきます。基本的に言葉通りに進んでいくので、最初の主題が再現したりすることはなく、ある意味とりとめがなく進んでいって言葉が終わると共に曲も終わるというものでした。
 ドイツではハインリヒ・シュッツやバッハによって発展し、近いところではブルックナーやフランスのプーランクなどが無伴奏合唱曲のモテットを書いています。

 モーツァルトは2曲だけモテットを残しています。どちらも有名な曲で、今日も後でお聴かせしようと思いますが、2曲ともちょっとモテットの原則からハズれています。ひとつは「アヴェ・ヴェルム・コルプス」で、ハズれている理由は伴奏がついている点です。実は、バッハのモテットにも伴奏譜がついていて、完全な無伴奏ではないのですが、大事なことは無伴奏でも演奏し得るほど合唱の声部にウェイトがかかっているか否かという点です。「アヴェ・ヴェルム・コルプス」も、弦楽器の伴奏部分はとても控えめで、演奏しようと思えば無伴奏でも演奏可能です。
 しかし次の「エクスルターテ・ユビラーテ」になると話は違います。この曲はモーツァルトがイタリア旅行に行った時にミラノで書かれています。現在ではソプラノ独唱によって歌われますが、当時はカストラートによって歌われる目的で書かれました。悩ましいのは、モテットと言っていながら、全然モテット様式で書かれていませんし、華やかなコロラトゥーラの技巧を伴った独唱と管弦楽のための音楽で、とても従来のモテットの範疇に収まりません。
 モーツァルトはオーケストラ付きコンサート用アリアを多数残していますが、この曲はまさにその形式にピッタリです。唯一、他のコンサート用アリアと違うことは、歌詞がイタリア語ではなく、教会で使用されていたラテン語で、内容が宗教的であるという点でしょう。こういう曲があるから、私たち聴衆はジャンルの区別がつかなくなるわけですね。

ザルツブルク時代
 さて、モーツァルトの宗教曲について語る時、ほぼ今の用語の説明で足りるジャンルの中に全て留まっています。その中で最も数の多いザルツブルク時代のミサ曲をはじめとするカトリック教会用の作品を見て行きましょう。

 モーツァルトの父親であるレオポルト・モーツァルトは、ザルツブルク大司教宮廷に仕える宮廷作曲家であり副楽長でした。彼はモーツァルトの才能をいちはやく発見し、これを伸ばすべく英才教育を施すと共に、幼いモーツァルトを連れてヨーロッパ各地に旅行に出ました。モーツァルトが最初のミサ曲である「孤児院ミサ」KV139を書いたのはウィーン旅行中で、わずか12歳でした。まずその「孤児院ミサ」を聴いてみたいと思います。

CD2 孤児院ミサKV139よりGloria Cum Sancto Spiritu
CD3 孤児院ミサKV139よりAgnus dei

 この孤児院ミサ曲と同じ時期に書かれた作品がKV65などの番号なのに、この曲が139番という番号を持っているのは、長い間もっと後の時期に書かれたのだと信じられていたからでした。それほど、このミサ曲は優れていると思います。
 この曲を書いた後、13歳のモーツァルトを大司教ジークムント・フォン・シュラッテンバッハは、コンサートマスターに任命しました。ただまだ13歳だったため給料は支払われず無給でした。でもこの大司教はモーツァルトの才能をとても喜び、彼を擁護しました。

ヒエロニムス・フォン・コロレド大司教の時代
 ところがその後、フォン・シュラッテンバッハ大司教が亡くなると、代わりに就任したのが、モーツァルト・ファンには悪名高きヒエロニュムス・フォン・コロレド大司教です。1772年すなわちモーツァルト16歳の時です。この時から1781年に25歳でウィーンに向かって飛び出すまでの期間は、モーツァルトにとってフォン・コロレド大司教との軋轢に悩まされた精神的に苦しい時期になります。
 モーツァルトが仕えなければならなかったフォン・コロレド大司教は、前任者と違って音楽を理解せず、それどころか神童としてちやほやされるモーツァルトを嫌っていたようでもあります。彼は、大司教でありながらミサが長くなるのを嫌って、モーツァルトに「ミサ全体で45分を越えるようなことにならないように」という命令を出しました。ということでこの頃のモーツァルトのミサ曲は、どれも20分程度の長さしかないわけです。
 私はカトリック信者なので、ミサというものがどのくらい長くかかるのか知っています。たとえば平日のミサで音楽はなにもなく、司祭の説教もないという最短のミサでも30分はかかるのです。日曜日のミサは音楽が入りますが、司祭の入場や節目節目に歌うのは素朴な聖歌、また「主よ憐れみ給え」などのミサ曲の部分は、普通に唱えるのとあまり変わらないようなシンプルな典礼聖歌が歌われます。それでも一時間かかるのです。それを考えると、モーツァルトに音楽を書かせておきながら全体を45分で終わらせようというのが、いかに無茶な制約かが分かります。なんとやる気のない大司教だったのでしょうか。
 こうした制約の中でモーツァルトは12曲ものミサ曲を書きます。ではどうしたのでしょうか?まあ、はっきり言って、唱えるのとさほど変わらないような速さで言葉を運んでいくしかありません。言葉の少ないキリエなどは1,2分で通り過ぎ、言葉の多いGloriaやCredoでは合唱と重唱を巧みに交互させたり、声部間で互いに呼び交わすように作ったりしながら、言葉をどんどん運んでいってさっさと終わらせています。しかし天才は転んでもただでは起きません。それでも実に様々な工夫を凝らし実に魅力的な音楽を作り出しています。その良い例を次に聴いていただきたいと思います。
 これは俗に「小クレド・ミサ」と呼ばれているKV192ヘ長調のミサ曲のCredoです。

CD4 小クレド・ミサ曲KV192

この繰り返されるCredoのモチーフは、みなさんどこかで聴いたことがあるでしょう。そうです、後にジュピター交響曲の第四楽章で使われるフーガ主題です。

CD5 交響曲第41番ジュピターより第4楽章

ミサ・ロンガ
 さて、こうした短いミサ曲を書かせられていたモーツァルトに、一曲だけ珍しい曲があります。ミサ・ロンガすなわち「長いミサ」と呼ばれるKV262ハ長調のミサ曲です。これは何らかの理由でコロレド大司教が君臨する大聖堂ではなく、聖ペーター教会のために書かれたミサ曲です。
 この曲の中で特筆すべきことは、この時代のモーツァルトの対位法の技法が味わえるということです。バッハのロ短調ミサ曲など聴いても分かる通り、ミサ曲では、たとえば言葉の少ないキリエなどでも同じ言葉を何度も繰り返し、それをフーガのような対位法的処理をすることでいくらでも引き延ばせるのです。そしてそれがとりも直さず作曲家の腕の見せ所となっていたのです。
 通常はコロレド司教の制約の中で、モーツァルトにはその対位法を駆使することが出来なかったわけですが、このミサ・ロンガで、その日頃のうっぷんを晴らすべく、見事な対位法を見せてくれます。今日は簡単なアナリーゼをしてみたいと思います。

CD6 ミサ・ロンガKV262 Gloria Cum Sancto Spiritu

 まずグローリアの結尾であるCum Sancto Spirituは、見事な三重フーガです。主題群ABCが揺るぎないコンビネーションを形成しています。際立っているのはA主題の末尾に何気なく現れているX動機です。

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このシンコペーションのキャラクターが、フーガの後半で巧みに活躍させて特徴を出しているというわけです。

CD7 ミサ・ロンガ KV262 Credo Et Vitam Venturi Saeculi

 Credoの結尾、Et Vitam Venturi Saeculiのフーガは、モーツァルトが書いた全てのフーガの中でも最上の部類に属すると思います。

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このフーガが変わっているところは、主題Aに対し属調で応答A’が出現した時に現れる対旋律Bが、主題Aのモチーフそのままの形である点です。そのため、カノンのようにも聞こえるし、最初から主題がストレッタで現れたようにも聞こえます。

俗か聖か?
 さて、フォン・コロレド大司教の支配下のザルツブルク時代も終わりの方に近づいてきますと、モーツァルトの作風も円熟してきて、次のウィーン時代との共通性も生まれてきます。その顕著な例として、ザルツブルク時代最後の二つのミサ曲からアニュスデイの一節をお聴きいただきたいと思います。まずは有名な戴冠式ミサ曲KV317のAgnus Deiです。

CD8 戴冠式ミサ曲KV317 よりAgnus Dei

お聴きになって分かる人も多いと思いますが、この曲はオペラ「フィガロの結婚」の第三幕の伯爵夫人のアリアDove sono I bei momenti「あの楽しい日々はどこへいったの?」に似ています。

CD9 オペラ「フィガロの結婚」よりDove sono I bei momenti

次にザルツブルク時代の最後のミサ曲であるミサ・ソレムニスKV337から、これもAgnus Deiです。

CD10 ミサ・ソレムニスKV337 よりAgnus Dei

こちらも「フィガロの結婚」の伯爵夫人のもうひとつのアリア、すなわち第二幕冒頭のPorgi amorに似ています。

CD11 オペラ「フィガロの結婚」よりPorgi amor

 宗教曲の一番大事なAgnus Deiにオペラからの一節を用いるとは何事ぞということで、これまでにもさんざん言われ続けてきました。では、本当にモーツァルトの宗教曲の創作態度は不謹慎であるのでしょうか?
 私はそうは思わないのです。まず、これらが書かれたのは、「フィガロの結婚」の書かれる6年も前なので、モーツァルトがオペラ・アリアを転用してAgnus Deiを書いたのではないということです。
 モーツァルトは「フィガロの結婚」を書くにあたって、夫の心変わりを嘆く伯爵夫人の心情にとてもシンパシーを持っていて、元々のボーマルシェの原作にはない二つのアリアを挿入したと言われています。その伯爵夫人の孤独な心境を表現しようとした時に、神の子羊、すなわち弟子達に見放されて世の罪を取り除くために十字架にかかった生け贄の子羊キリストの孤独感と結びつけたとしても何ら不思議はありません。
 しかもパロディーといっても、この場合はメロディーの最初が似ているだけにしか過ぎません。バッハが、世俗カンタータをそっくりそのまま教会カンタータに転用しているのよりはずっと控えめです。
 というか、これまで宗教曲に使った手法を全く世俗曲には使わないとか、その逆に、宗教曲だから世俗曲の表現方法を意図的に避けているという作曲家はひとりもいませんでした。ジャンルにこだわるのは、我々俗人であって、芸術家の前には真実のみ存在しているのではないか。私にはそう思われます。

リタニアとヴェスペレ
 ザルツブルク時代には、ミサ曲以外にも沢山の礼拝のための曲が生まれました。ある意味、それらの曲の方がミサ曲よりも制約が少なく、モーツァルトがのびのびと書いていると思われます。良い曲が沢山ありますのでいろいろ紹介したいのですが、その中で二つの作品だけは聴いていただきたいと思います。

 まずは聖体の主日のためのリタニアKV243です。1776年モーツァルト20歳の頃の作品です。リタニアは連?と呼ばれ、司式者(たいていは司祭ですが)と会衆が交互に交わす連続的な応答祈祷のことです。内容は様々で、司祭がいろんな聖人の名前を呼ぶと、会衆が「我らを憐れみ給え」と答えるというやり方で進んでいきます。今日はそのリタニアから、Pignus futurae gloriaeを聴いていただきたいと思います。「未来の栄光のために人質になられた方よ、我らをあわれみたまえ」と祈る曲です。

CD12 Litaniae de venerabili altaris sacramento KV243より
Pignus futurae gloriae 

 次にお送りするのは、晩?あるいは晩課と呼ばれるVesperae夕べの祈りです。モーツァルトは2曲ほど作っていて、どちらもとても良い曲なので、是非皆さんにお薦めなのですが、今日は特に有名な証聖者の盛儀晩課Vesperae Solennes de Confessore in C majorKV339の中から、Laudate pueri「主の僕らよ、主を賛美せよ」とLaudate Dominum「全ての国よ、主を賛美せよ」を聴いていただきましょう。作曲は1780年、戴冠式ミサやミサ・ソレムニスのようにザルツブルク時代最後の頃の作品です。

CD13 Vesperae Solennes de Confessore KV339より
Laudate pueri
CD14 Laudate Dominum

エクスルターテ・ユビラーテ
 最初のジャンルの話に出てきましたが、変則的なモテットの代表選手としてExsultate jubilate KV165を、ザルツブルク時代の作品紹介の最後に取りあげたいと思います。作曲年代はだいぶさかのぼって、第三次イタリア旅行の最中です。モーツァルトは1772年3月に着任してきたフォン・コロラド大司教によって、8月に有給のコンサートマスターに任命されますが、10月下旬には長いイタリア旅行に出てしまいます。そして翌年1773年モーツァルト17歳の頃にミラノでこのモテットが作られました。まずは冒頭を聴いていただきましょう。

CD15 Exsultate jubilate KV165より第一楽章Exsultate jubilate

 なんて素晴らしい曲でしょう。ただ冒頭でも言った通り、もしこれがラテン語でなく宗教的内容でもなかったら、コンサート・アリア以外の何物でもありません。こうした変則的なタイトルの付け方は、現地のイタリアの影響を受けたものと思われます。この曲の第四楽章のアレルヤは、あまりにも有名です。

CD16 Exsultate jubilate KV165より第四楽章Alleluja

ウィーン時代
 さて、これでザルツブルク時代に別れを告げて、いよいよウィーン時代に移って行きますが、実はウィーン時代になると宗教曲自体の数がぐんと少なくなります。大司教に仕える教会音楽家から自由な作曲家に変わったことで、宗教曲を作曲する義務がなくなるからです。
 モーツァルトの興味は当然のごとく宗教曲だけに限らず、オペラやピアノ協奏曲など様々な分野に移って行きます。一方、ウィーン時代から作られた作品は、注文を受けたか自主的に作ったかに関わらず、全て彼の自由意志によるものなので、作品ごとにモチベーションが全く変わってきます。
 ミサ曲はわずか2曲だけ。しかもその2曲とも未完成です。まずはその最初の曲であるミサ曲ハ短調KV427に触れてみましょう。

CD1 ミサ曲ハ短調KV427からKyrie eleison

 ウィーンに渡ったモーツァルトは、ウェーバー家に寄宿していました。ウェーバー家といえば、かつてモーツァルトが失恋したアロイジアの家族です。父親は写譜屋でマンハイムに住んでいましたが、そのアロイジアがオペラ歌手としてウィーンの劇場と契約したことを機に、一家はウィーンに移り住みました。このアロイジアの妹であるコンスタンツェとモーツァルトはしだいに仲良くなり、1782年8月4日にシュテファン大聖堂で二人は結婚式を挙げます。ところがこの結婚にザルツブルクにいた父親レオポルトは真っ向から反対していました。モーツァルトは父親の反対を押し切る形で結婚し、それ以来二人の関係は最悪のものとなっていました。
 しかし、ちょうどモーツァルトが作曲したドイツ語のジングシュピール「後宮からの誘拐」がウィーンで大成功し、ザルツブルクでも上演されることになったため、モーツァルトは故郷へ錦を飾るべくコンスタンツェを連れてザルツブルクへ旅立ちます。その飾る錦をもっと立派なものにしようとモーツァルトはあることを企てます。それは長くて立派なミサ曲を作って、そのソプラノ・ソロをコンスタンツェに歌わせ、まるでフォン・コロレド大司教にあてつけるように、結婚の誓いとして聖ペータース教会に捧げたのです。父親との和解も、これで一挙に取り戻せるとモーツァルトは期待しました。こんな風に、このハ短調ミサ曲のモチベーションは多少動機不純と言えましょう。
 ところが作曲は上演日に間に合わず、未完成で残りの部分は以前作ったもので間に合わせて上演されました。その後も、未完成の部分は放置され、とうとうハ短調ミサ曲は、完成を見ることはありませんでした。

 これが未完成で終わってしまった事については二つの原因が挙げられると思います。まず聖ペータース教会での上演に間に合わなかったことで、その後何が何でも完成しなければならないという必然性がなくなったこと。モーツァルトは、依頼を受けて報酬を得る仕事であれば、必ず期日までにきちんと完成させて届けるきちんとした職業音楽家でしたが、今回は全く自主的に無報酬で作ったので、未完成によって失うものはなかったのです。
 もうひとつは作品の規模です。モーツァルトはオペラ・ブッファのように台本が興味的な展開をしていればいくらでも音楽を書ける人ですが、この曲に関しては、劇的展開を持たないミサ曲の割には頑張って大風呂敷を広げ過ぎた感があります。だから、このままのスタイルでAgnus DeiのDona Nobis Pacemまで作曲する意欲を途中で失ったと思われます。
 ただ、この作品のすでに作曲された部分に関して言うと、これまでのザルツブルク時代のミサ曲とは全く作風を異にしていて、独創的でインスピレーションに溢れ、素晴らしいの一言につきます。そしてモーツァルトがこの曲を嫌で放り出したわけではないことは、あることによって証明されています。
 それは、後に彼はこの音楽をそのまま使って「悔悟するダビデ」というイタリア語のカンタータを作っているのです。まさにその点に関しては、パロディの名人であるバッハも真っ青という感じで、実にうまく着せ替えが行われています。ですから曲自体は本人も気に入っていたし、自信を持っていたと思うのです。
 私は最近、名古屋で「悔悟するダビデ」を演奏しました。ハ短調ミサ曲のGloriaまでの部分しか使っていないし、別のアリアが挿入されているとはいえ、ハ短調ミサ曲のアイデアを持ちながら、ひとつのまとまった内容を持つ作品として完成しているという意味では、決して無視できない作品だと思います。

 ハ短調ミサ曲に戻って、この曲の構成については、バッハのロ短調ミサ曲によく似ています。Gloriaを例に取ってみると、ザルツブルク時代のミサ曲がGloria全体で3分から5分以内で一気に演奏されていたのとは異なり、Gloriaだけで8曲に分かれていて、25分くらいかかります。歌詞のひとまとまり毎に1曲に仕上げ、それぞれ異なった雰囲気の音楽で各曲が作曲されているのです。だからとても長くなったのです。
 さて、Gloriaまでは完成したのですが、CredoになるとEt Incarunatus estまでで筆を折ってしまいます。しかしながら、そのEt Incarnatus estこそが、これまでにないモーツァルトの新しい境地を切り開くものとなりました。それを聴いていただきたいと思います。

CD2 ミサ曲ハ短調KV427からEt Incarnatus est

 未完成に終わったとはいえ、これだけの長さを持ち、これだけの深い内容の音楽をただ働きで行ったモーツァルトですが、結局ここまでしても、コンスタンツェとの結婚をめぐって父親との和解はうまくいかなかったようです。可哀想な気がしますが、その後コンスタンツェが悪妻の典型のように言われるのを見ると、もしかしたら父親の目の方が正しかったのかも知れません。

シンプルな宗教曲の作品目録
 その後のモーツァルトの作品目録はいたって簡単です。これからはフリーメーソンの曲が増えてきますが、元々フリーメーソンではカトリック教会のような大規模な楽曲は望みませんから、冒頭でお聴かせしたようなシンプルな歌曲やカンタータが並びます。その中で最も有名な曲は、フリーメーソンの為の葬送行進曲KV477です。入団した次の年の1785年に会員の追悼式の為に作曲されました。


CD3 フリーメーソンの為の葬送行進曲KV477

モーツァルト最後の年の宗教曲
 さていよいよ、モーツァルトの最後の年1991年に行きましょう。この年の6月バーデンで、短いけれど不朽の名作が作曲されました。それはモテットAve Verum Corpus KV618です。
この曲は名作と言われていますが、ではどこがそんなに素晴らしいのでしょうか。それは、これだけシンプルな構成なのに、その転調のテクニックと、それによって生まれる雰囲気の変化が素晴らしいのです。

CD4 Ave Verum Corpus KV618

 モーツァルトが生前に完成させた最後の作品についてはいろいろ議論があるようですが、一般的にはフリーメーソンの為の小カンタータ「高らかに僕らの喜びを告げよ」KV623であると言われています。1791年11月15日に完成され、18日にモーツァルト自身の指揮で初演されました。その2日後に彼は病床に伏し、19日後の12月5日に亡くなるわけです。

CD5 フリーメーソンの為の小カンタータ
「高らかに僕らの喜びを告げよ」KV623より
CD6 レシタティーヴォ

レクィエム・コード
 そしていよいよモーツァルトの宗教曲の中でも紛れもなく最高傑作であるレクィエムが来ます。この作品に関する様々な逸話や、モーツァルトの死に関する様々な疑問について語る時間はありません。でも、この作品が作曲技法的に、これまでの作品と全く違う次元の高さを持っている点について、今日は解明してみたいと思います。そしてそれはとりも直さず、この曲が一体どこまでモーツァルトの手によって作られたのか、反対にどこまで弟子のジュスマイヤーの創作なのかという疑問にも、ある結論を出していくことになると思うのです。

 まず、この曲全体を貫いて二つの重要なモチーフがあります。ひとつはレクィエム主題といわれるもので、D Cis D E F G F E Dという順次進行です。この主題はモーツァルトが全く新しく考え出したものではありません。古くからいろんなところで使われていた、いわば定番ともいえるモチーフであって、モーツァルトも意識してその古さに挑んだというわけです。

CD7 Requiem KV626の冒頭

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レクィエム主題

≪楽譜拡大表示≫
バッハ-フーガの技法の主題
バッハ カンタータ第4番 キリストは死の縄目につながれの主題
そしてレクィエムへと


 これはD Cis Dという最小単位でも認識されています。ブラームスがこの三つの音のモチーフを使い、第二交響曲を作ったことは有名です。この主題はレクィエム全体を通していろんなところに顔を出します。たとえばDies Iraeですでに次のように現れています。

CD8 RequiemからDies Irae

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またアニュスデイでもこのように隠れた主題として全体を支えています。

CD9 Agnus Dei

 さて、レクィエムにはもうひとつ、とても重要なモチーフがあるのです。それは冒頭のレクィエム主題を支える低音部にまず現れます。

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 レクィエム主題の順次進行とは対照的な、F E G Fというジグザグの進行を頭に置いて下さい。

これも至る所に現れます。たとえばRecordareの歌のパートです。

CD10 Requiem LV626よりRecordare

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 それから後半の奉献唱の時に歌われる「アブラハムとその末裔達のように」のフーガ主題もそのジグザグの運動性を持っています。

CD11 Requiemより Quam Olim Abrahae

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さらにサンクトゥス及びベネディクトゥスのフーガ主題も、このモチーフの発展したものです。

CD12 Requiemより Osanna in Excelsis

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 どうです、みなさん!この曲は実はもの凄く綿密に作られていて、それまでのどの作品とも全く違うのです。ですからサンクトゥス以降は弟子のジュスマイヤーによる全くの創作であると言われていますが、その可能性は、私はないと思います。もし、スケッチのようなものが残っていないことでそう思われるのでしたら、むしろジュスマイヤーがそのスケッチを処分した可能性を探った方がいいと思います。

 モーツアルトはウィーンに出てきてから、ハイドンのオラトリオ「天地創造」や「四季」の台本作家として有名なヴァン・スヴィーテン男爵と知り合います。そして彼から、ヘンデルやバッハの作品を紹介され、これらに親しみ影響されることになります。
 モーツァルトのヘンデルへの親近感は顕著でした。実際ヘンデルとモーツァルトとは、とても似ています。両者とも旅を通してインターナショナルな感性を養い、複数の国を渡り歩くことによってフレキシブルな価値観を持っています。モーツァルトがヘンデルの「メサイア」を編曲し、今日モーツァルト版として残っている事は、あまりにも有名です。
 ところが、モーツァルトが晩年どんどんハマッていったのは、開放的なヘンデルの方ではなくむしろ閉ざされたバッハの世界の方でした。向かうところ無敵のように思われたモーツァルトも、こと対位法の職人的技法に関しては、バッハに到達できないというコンプレックスを抱いていたようです。
 モーツァルトが、このレクィエムでこんなに強固な構成を持っているというのも、この曲自体がある意味バッハへのオマージュとして作られたのではないかと私には思われるのです。

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 二つ目のジグザグ主題は、モーツァルトが絶筆になったと言われるLacrimosaである変化を遂げます。それがバス声部に埋め込まれたBACH、すなわちバッハの名前が暗号化して作品の絶筆となった部分に記されることになるのです。これはモーツァルトのバッハへのオマージュではないかと私は考えています。
 BACHという音名を作品の中に記して絶筆となるというやり方は、すでにモーツァルトよりも40年も前に、ヨハン・セバスチャン・バッハ自身がフーガの技法によってやった方法でした。フーガの技法では、新しいBACHの音名によるフーガ主題が出現したところで絶筆となっているのです。
 モーツァルトもそれを真似したと考えたら、考えすぎでしょうか?この暗号の伏線となるジグザグのモチーフは、すでに冒頭のバス声部に出現しているのです。そして、先に述べたように様々なところで重要な役割を担わせて印象付けてから、絶筆になったと言われるラクリモーザの最後の部分で声部の中に忍ばせたとしたら、これはどう見ても確信犯でしかないのではないか、私にはそう思われて仕方がないのです。

みなさんはこれについてどう思われますか?

CD13 Requiem よりLacrimosa




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