うとうここまで来たか
(究極のワーグナー体験をめざして)

三澤洋史 

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聴衆に助けられた!
 もう最終章の「神々の黄昏」に辿り着いたか、というのが正直な感想。「ラインの黄金」の演奏終了直後の聴衆の反応に驚いたのが、まるで昨日のように感じられる。長年温めてきた自分のワーグナー観には少しのブレもなかったし、この演奏を評価してくれる人は必ずどこかにいてくれるに違いない、という自信のようなものはあったものの、ここまでダイレクトな受容がなされるとは思っていなかったのだ。
 終演後。お客様達の意見を聞いて私はもっと驚いた。日本のワグネリアンのレベルって、こんなに高かったのか!彼らは、私が聴いて欲しいところを全て聴き取ってくれていたし、感じて欲しいところを全て感じてくれていた。
 その時、私は確信したのである。この聴衆と一緒なら、私は、神が私に与え給うた愛知祝祭管弦楽団という手兵を使って、「神々の黄昏」まで迷うことなく走り切ることが出来る・・・と。
 だからまず、ここに集まってくださった皆様に、私は心から御礼を言いたい。ここまで辿り着いたのは、皆様のお陰です。ありがとうございます!

ストーリー・テリング
 私のワーグナー演奏の根本的な発想は、かつてトーキョー・リングを演出したキース・ウォーナーが、立ち稽古の間に口癖のように言っていた「ストーリー・テリング」である。つまり私は語り部になりたいのである。
 話がそれるが、私には杏樹という5歳の孫娘がいる。仕事が早く終わって、杏樹が寝る時間までに家に帰り着いた時には、私は必ずといっていいほど、お布団で彼女に絵本を読んであげる。それから部屋を暗くして、即興で作ったお話しをしてあげる。むしろ杏樹は、そちらの方を絵本よりも楽しみにしている。
 そんな時の私は、登場人物のキャラクターに合わせて声を変え、喋りのトーンを変える。すると彼女の頭の中で、私が今適当に作った物語がリアリティを持って動き回っているのが分かる。恐そうな魔女や怪物が出てくる場面では、彼女は布団に頭から潜り込む。楽しい場面では大きな声を出して笑う。時には布団の中でこびと達と一緒に踊っている。
 実は、私は、これと全く同じことを「ニーベルングの指環」の舞台上で行っているのである。ワーグナーの楽劇が、まさにそれを目指していると信じているから。

ドラマを描く
 ワーグナーは「描く」音楽に徹している。それは「素人っぽい」と言ってしまっても差し支えないほど素朴な発想から来ている。たとえば、北欧神話を題材にした「ニーベルングの指環」は、本来冒険物語である。恐れを知らない英雄が、大蛇と戦い、指環を得て、炎の岩山に行って、そこに眠る絶世の美女をくちづけによって目覚めさせる、血湧き肉躍る物語である。
 そこにワーグナーが目を付けたわけだが、さすがワーグナー!一筋縄ではいかない。彼なりの深読みした解釈が加えられている。人間の欲望が、差別や抑圧などの不条理を次々と作り出し、挙げ句の果てに世界を滅亡に向かわせる展開。すなわち同じく北欧神話「エッダ」からのラグナロク(世界の終末)の物語の焼き直しである。
 こうした物語がつまらないはずはない。そこにワーグナーが第一級の音楽を用いて、周囲の情景や登場人物のキャラクターなどを描き出しただけでなく、それぞれのシーンの陰に潜む象徴的な意味や、主人公の深層心理まで表現するわけであるから、それが比類なき総合芸術となることは必至である。

 楽劇というと、なにやら物々しい感じがするけれど、ワーグナーが言うMusik Dramaは英語でミュージックドラマ、すなわちこれはとどのつまり劇(ドラマ)であって、イタリア・オペラのように、“劇を伴った歌”ではないのである。
 それなのに、世の中に出回っているワーグナー演奏の多くは、音楽に傾きすぎて、私には「劇としてつまらない」と感じられる。これでは元も子もない。しかもその音楽は、しばしば重厚過ぎるのである。
「ワーグナーは哲学的、宗教的、精神的なので、重厚に演奏しなければならない」
と勘違いしている人が世の中になんと多いことか。
 私の音楽作りは、意図的な重厚さを避けている。といっても軽いばかりでもない。全てドラマの要求する通りに演奏するだけである。むしろ、私はドラマの使徒であり、語り部どころか、黒子に徹していると言っていいかも知れない。
 ただ、ドラマを際立たせるための意図的操作は皆無とは言えない。たとえば、話が軽妙に進んでいく場面は、その後に来るしみじみとしたシーンや情熱的なシーンとのコントラストを考えて、あえて音楽をサクサクと前に進めることはある。本当に味わって欲しい場面が来る前に聴衆が飽きてしまっては残念であるから。

 実際に、何人かのお客様が、これまでにこう言ってくれたのは嬉しかった。
「いつもは退屈な、『ワルキューレ』第2幕がとても面白かったです。特に『死の告知』の場面は、初めて惹き付けられました」
「『ジークフリート』って、要するに冒険物語なんですね。第1幕が楽しくて、あっという間に終わってしまいました」
「三澤さんの演奏するワーグナーを聴いて楽しかったので、家に帰ってCDを聴いてみたら、つまらなかったです。こういうワーグナーだけあればいいです」
こまかい分析や理屈はいらない。まさにこうした聴衆を私は求めていたのである。

ワーグナー時間
 とはいえ、「ワーグナー時間」には慣れておいてもらわなければならない。「ラインの黄金」の冒頭では、変ホ長調の和音が136小節に渡って鳴り続ける。これについてブラームスは、
「これは要素だけだ。音楽的には何も意味がない」
と批判したが、これは反対に、ワーグナー的に言えば最大の褒め言葉である。
 つまり、ここでワーグナーが表現したかったのは「悠久の時」というものなのである。ワーグナーは、自分のドラマを音楽で描くためなら、ブラームスがベートーヴェンから習った「テーマの発展、展開」という作曲の根本原則をも平気で無視する。それどころか、時間を湯水のように使うことを厭わず、時間稼ぎや間延びした空間でさえ、ワーグナーはあえて音楽表現として使う。
 それを聴きながら貧乏揺すりして、
「まだあ?」
と思うような人は、まずあきらめて欲しい(笑)。それから、ゆったりとした心を持ち、音楽の流れる空間に身を任せることを薦める。すると、あなたのワーグナー鑑賞は、新しい地平に辿り着くのである。

ライト・モチーフを皮膚感覚で
 「ニーベルングの指環(リング)」が、これだけ長大な作品でありながら音楽的統一性が保たれているのは、全作品に渡って、共通したライト・モチーフによって縦横無尽に貫かれているからである。それを、一作毎に楽員のみんなに、それぞれの情景の内面的な意味を説きながら練習及び公演を続けてきた。
 それが「神々の黄昏」まで来ると、すでに膨大な数のライト・モチーフのストックとなっている。もし、「ラインの黄金」からやらずに、いきなり「神々の黄昏」だけ演奏したら、その全てを楽員達が把握するのはどう考えても不可能である。

 しかしながら「継続は力なり」!「ラインの黄金」で覚えたライト・モチーフは、次の「ワルキューレ」に受け継がれるが、その意味づけは深くなり、より象徴的なものに変容している。そして新しく加えられたモチーフと相まって新たな展開を見せていく。それはなんというエキサイティングな体験だったであろうか!こうして4年かけて、ゆっくりゆっくり彼らは自分たちの体に取り込んできた。

 ワーグナー自身が何もテンポ指定を変えていないところでも、ライト・モチーフが変わると心象風景が変わる。それぞれのライト・モチーフには、固有のテンポ感というものがある。それが現れる毎に、前の小節とわずかながらのテンポ・チェンジが行われる。それを、楽員達がほとんど無意識に行うようになっているのは驚きである。
 たとえば「剣のモチーフ」は基本的にアレグロの性格を持つ。一方、「大蛇になったファフナー」のモチーフは、重苦しいイメージである。これが交互に出てきた場合、小節毎に聴衆に気付かれないくらい極小であるがテンポが変わる。これをちょっとでもオーバーにやると不自然になるし、全くインテンポでいくとキャラクターが際立たず面白くない。この加減は指揮者のタクトでも表せない。楽員のひとりひとりから滲み出てくるものでないと無理なのだ。
 恐らく、我が国のどんな上手なプロ・オケであっても、ライト・モチーフが皮膚感覚になるまで体に染みこんでいなければ、今、愛知祝祭管弦楽団が行っているようなレベルでのテンポ・チェンジとそれぞれのライト・モチーフのニュアンスを表現することは、絶対に不可能であると断言する。これは過信や傲慢ではない。事実である。

時間は最大の調味料
一方、ソリスト達の稽古は公演の何ヶ月も前から行う。今年は4月から始めた。私は自分でピアノを弾き、それぞれの歌手と共に何度も何度も練習を重ねた。相手はプロであるから、まだ時間があると思って、
「まだ、あまり音が取れていません」
と言って辞退しようとするのを、
「初見でもいいからおいで!喜んで音取りしてあげるし、ドイツ語の発音だけ確認して帰ってもいいから」
と、まるで詐欺師のように言葉巧みに呼んで稽古をつける。本当に初見に近い状態で来ても、私は決して怒ったりしない。それどころか、何もないところから一緒に作っていくことに無上の喜びを覚えている。
 そして、私の信条は、このコレペティ稽古を経た後でないとオケ合わせをやらないし、オケ合わせをやった後でも、また再び何度でもコレペティ稽古をする。ハーゲン役の成田眞さんは合計何回稽古をやったか分からない。ブリュンヒルデ役の基村昌代さんは、すでにオケと合わせた後、名古屋からわざわざ泊まりがけで東京まで来た。私は2日間に分けて、ブリュンヒルデの歌唱箇所全部を丁寧に稽古した。

そのコレペティ稽古の前に、私は全ての歌のパートをピアノを弾きながら自分で歌ってみて、自分の歌えないテンポは決して選ばないでおく。それから彼らと摺り合わせをするわけであるが、自分の解釈やテンポを相手に伝えると同時に、逆に彼らの呼吸を読み、それと同化しようとする。
そうした共同作業から、互いにとって最良の表現がふつふつと湧き出てくる。まさにそれは世界中で、私と彼らのコンビネーションでしか生まれ得ない一期一会のものである。既成演奏のレコ勉などというものから、なんと遠く隔たっていることか。

 オケ合わせになっても、愛知祝祭管弦楽団はアマチュア・オケであるから、何度でも合わせられる。東京在住のソリストも名古屋に何度も来る。そのオケ合わせの際、私はソリスト達に、即座にフル・ボイスで歌わせることをしない。
「まず、オケだけ練習するから聴いていてね。次に歌う時には、その響きの中に自分の声を溶け込ませるように静かに歌い始めること。自分の声が潜っても全然構わない。ピアノとは全然響きが違うから、いきなり対決しようとすると喉を痛める。それに、今オケが大きくても全然心配しなくていい。本番では必ず聞こえるようにしてあげるから信じて!そして、同じ箇所を何度もやるから、出したいところだけ出せばいい」
 こう言うと、彼らは間違いなく、無理に声を張り上げたりせずに良い意味でリラックスして歌い始められるので、結果的に最も良い発声で公演に臨むことが出来る。一方、その間にこちらでは、最終的にどのバランスでオケとソリスト達を構築しようかと密かに作戦を練っている。
 オーケストラというものは、最初の段階から、
「もっと小さく!」
とピアノを強制してしまうと、萎縮してしまって良い音で鳴らない。だから、彼らにも練習の段階では、一度しっかりと音を出させておきたいため、あえて抑えない。歌手、オケの双方にとって、このやり方がベストであると私は信じている。     

「時間は最大の調味料である」
と言われる。ウィスキーでも何でも、時間をかけて、損得抜きでじっくり熟成させなければ辿り着かないものは世の中少なくない。その反面、現代の世の中は、すぐ結果が出せないものはハジかれ、経済最優先の短絡的な世界観が支配している。
 実は、ワーグナー自身が、偉大なるアマチュアリズムの権化である。上演の見通しもないまま、構想から何十年もかけてこの作品は作られ、自分が建てたバイロイト祝祭劇場での「リング」全曲初演を成し遂げた時は大赤字であった。それでもめげずに「パルジファル」に取りかかり、バイロイト音楽祭を継続させようとする非常識さ!鈍感力!そんな彼の労力を時給に換算することがどれだけ愚かしいことか分かるであろう。

 私は断言できるのである。我が国で、本物のワーグナー演奏を成し遂げるためには、アマチュアリズムの極致である愛知祝祭管弦楽団が行っているこの方法しかないのだ。プロ・オーケストラだって、ライトモチーフの講演会から始まって、何度も何度も説明しながらきめ細かく練習を行うこの方法でやれば、日本人の能力からすれば、バイロイトをも超えるワーグナー演奏は充分可能だ。ただ問題は、それをあえてやるかどうかなのだ!

練習は嘘つかない
 「これでいいと満足しているわけではない。しかし、我々はできる限り精一杯のことをやっている」
これが愛知祝祭管弦楽団の誇りである。本番では、ミスもあるかも知れないし、アクシデントも起きるかも知れない。でも、我々には、かけがえのない練習のひとときの積み重ねがある。最良の演奏が「練習でのある瞬間」ということも珍しくない。
 勿論、本番に焦点を合わせて練習はしているが、たとえば、フィギュア・スケートの選手が、いつも本番にベスト・パフォーマンスをするとは限らないだろう。パーフェクトの演技は、むしろ「ある日の練習のある瞬間」なのではないか?だからこそ大切なのだ。練習が。練習では何度失敗してもいい。だから失敗を恐れずチャレンジアブルであれ!

 私の練習は楽しいとみんな言ってくれる。当然といえば当然だ。私が命を懸けているのは、むしろそっちの方だから。
「どうやったら団員達が興味を持ち続けながら練習に参加し続けられ、それでいながら毎回の練習から最大の成果を上げることが出来るか?」
ということに最大の注意を払っているのである。
 それ以前に、私自身が最も練習をエンジョイする人間である。だってそうでしょう。1年もかけて練習するのに、それがつまらなかったらまるで地獄のようではないですか。だから笑いの絶えない練習場にしたいのだ。それに、その雰囲気は、必ず本番で客席に伝わるのである。
 極端に言うと、本番はその結果に過ぎない。だから本番でベスト・パフォーマンスが出来なくても気にしない。それより、時間をかけて、労力をかけて培ったものは、必ず本番で現れるのだ。曰く言い難し雰囲気や、なんともいえない味わいや、あたりに漂うオーラ。これが愛知祝祭管弦楽団のウリである。

 といいながら、その一面で私の練習は厳しい。特に団員に「本番さえよければいいのだ」と思って練習に力を抜くなどということが見られたならば決して容赦しないし、「自分は弾けるから」と練習をサボることなどもってのほかだと考えている。
 管楽器奏者が、休みの小節を数えるのを間違って入ってきた時には、数え間違いを怒るのではなく、
「どうして周りの景色を無視して、数を数えるだけで入れるのだ?どうして、そんな非音楽的な感性をもって練習に臨むのだ?」
と、そもそも「数えて入るという行為」に対して怒る。つまりその奏者が、どう曲と関わっているかという態度を問うのである。
「CDを何度でも聴いて、音楽を体に染みこませて、数えなくてもいいようになってから練習に来なさい!」

 「ジークフリート」第2幕第3場は、ミーメとアルベリヒとが洞窟の前で、ジークフリートが大蛇と戦って得た指環などの宝物を狙っている場面。互いに鉢合わせをして言い争いをする。ここの音楽は「リング」全体の中でも最も難しく、音もまるで無調音楽のようだ。
 ところが、あろうことか、本番でキュー出しする舞台監督助手のミスで、わずか数小節の速い前奏が始まっても、まだ升島唯博さんと大森いちえいさんの姿が見えない。私は、
「歌い出しを出損なったら、もうこのやり取りが一段落するまで二人とも出れないだろう」
と思った。しかもこの前奏も数えにくい音楽で、仮に出ても間違って歌い出したら、ひとしきりはそのまま掛け合いを続けてしまうだろう。うわあ、絶体絶命!
 次の瞬間、遅れて大森さんが入ってきた、走りながらだから、どこから入るか分からないだろう。私は左手で大森さんにストップの合図を送り、それからアインザッツの瞬間に「どうぞ!」と大きく指揮した。大森さんはハアハアいいながらもいつもの練習の時のように落ち着いて入り、続いて升島さんも歌った。お互い息が切れていたが、かえって指環を取ろうと焦っている風に感じられて、妙に臨場感があった。
 公演後、大森さんはしみじみ私に言った。
「マエストロ、練習は嘘つかないですね」
「その通り!」
 実は、この場面は、コレペティ稽古を数え切れないほどしたし、オーケストラともしつこく何度も合わせたのである。難しいだけに、二人とも体が条件反射のように覚えていたのだ。まさに、練習は嘘つかない!

立ち登ってくるドラマを感じて下さい
 さて、本当は、私の「神々の黄昏」観についても語るつもりであったが、紙面が尽きた。というより、今回はあえて書かないでおこう。私は語り部に徹し、黒子に徹すると先に書いた。ドラマは、私のタクトから、そして愛知祝祭管弦楽団から自然に立ち登ってくるであろうし、そうでないといけない。

 「ニーベルングの指環」の物語は、4年間おいでくださった皆様ひとりひとりの中で完結して下さい。私は今日も、布団の中の杏樹の目がキラキラと輝くようなストーリー・テリングを行おうと務めます。
自分自身がとってもエンジョイして!



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