ドイツ・レクィエム・ゼミナール レジメ

三澤洋史 

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レクィエムについて
 レクィエムとは、一般的にはカトリック教会の「死者のためのミサ」のことである。その最初の言葉が、Requiem aeternam(永遠の安息を)というところから、一般的にレクィエムと言われている。
 しかしブラームスのドイツ・レクィエムは、こうしたラテン語の典礼文を用いず、作曲者によって任意に選ばれたマルティン・ルター訳ドイツ語聖書(1537年)の言葉をテキストとしている。
 ドイツ・レクィエムEin Deutsches Requiemは 英語でGerman Requiemと呼ばれていることからも分かる通り、「ドイツの」という意味の他に、「ドイツ語の」あるいは「ドイツ語で歌われた」という意味がある。
 ラテン語の典礼分ではなく、ドイツ語訳の聖書を用いたところに、ルターのプロテスタンティズムが生きている。それはシュッツ、バッハなどの中に受け継がれた、ドイツの民衆と共にあろうとする精神である。 同時に、ブラームスは指揮者ラインターラーにあてた手紙の中で、「私は全く喜んで“ドイツの”という言葉を除き、“人類の”(Menschen)という言葉に置き換えたいと公言してもいい。」 とも言っている。ドイツ的でありながら、普遍的でもあるということであろう。

ふたつの誤解
 さて、ドイツ・レクィエムの具体的な話に入る前に、ブラームスに関して一般的に広まっている2つの大きな誤解を解いておきたい。
 第一に、ブラームスは皆さんが考えている以上に遅く生まれているという事実である。作風が古風なので、シューマンやショパンと同年代に思われていたり、批評家ハンスリックなどによって反ワーグナー勢力の旗手として持ち上げられたりしたことからワーグナーやリストとも同年代に思われている。
ちなみに主要作曲家達の活躍した時期を挙げると。
ベートーヴェン 1770-1827
メンデルスゾーン 1809-1847
ショパン 1810-1849
シューマン 1810-1856
リスト 1811-1886
ワーグナー 1813-1883
ヴェルディ 1813-1901

それに対してブラームスは、なんと1833年に生まれている。20歳のブラームスがデュッセルドルフにあるシューマン家を訪れた時、シューマンはすでに43歳。ブラームスの永遠の恋人とも言われているシューマン夫人のクララもすでに34歳だった。
ワーグナーはブラームスより20歳も年上である。調性の崩壊と言われ、無調音楽への扉を開いたと言われる「トリスタンとイゾルデ」を初演した年、ブラームスはまだ32歳。
さらに、ブラームスの晩年ではマーラー(1860-1911)、リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)が活躍し始める。ドビュッシー(1862-1918)は「牧神の午後への前奏曲」を作曲する。
ブラームスはシュトラウスの“ツァラトゥストラはかく語りき”の最後の和音についてとまどいを隠せない。

最後のところを見たかね。ロ調とハ調が同時だ。まあどんな調が混ざってもよいが、それには混ぜる人間の欲求がないとね。でもその人が抵抗を感じなければ反対しないよ。しかしどんなもんかねえ。
 第二の誤解は、ドイツ・レクィエムは、その深い内容と大規模な構想からブラームスの晩年の作と思われがちである。しかし、ブラームスが作品を完成させた時、彼はまだ33歳。彼が最初の交響曲を完成させたのが43歳の時だから10年も前の事である。この曲は、いわゆる「晩年の円熟した巨匠の作品」ではなく、むしろブラームスの出世作であるこの曲の成功で、ブラームスはドイツの他の巨匠達と肩を並べて評価されるようになるのだ。それにしては作風は“おじん臭い”と言える。

ドイツ・レクィエム作曲の動機
 シューマンが「ドイツ・レクィエム」を発案していた。ただしブラームスの後年の言葉によると、それを知っていたかどうかは疑わしい(あるいは忘れていたか?)。

 ハインリヒ・シュッツHeinrich Schutz作曲「ムジカーリッシェ・エクセークヴィエン」Musikalische Exequien(1636年)音楽による葬儀あるいは埋葬と訳される
バッハJ. S. Bach作曲「カンタータ第106番」哀悼行事Actus Tragicus
ヘンデルG. F. Handel作曲「メサイア」Messiah
これらの曲はみな、意図的に配置された聖書の言葉をテキストにしている。

ブラームス(1833-1897)ドイツ・レクィエム成立に関する年表

1853年9月
ブラームス、シューマン夫妻を訪ねる(20歳)。
1854年2月27日
シューマン、ライン河に投身。精神病院に収容される。これ以後ブラームスはクララ・シューマンに急速に接近。
1854-1855年
ドイツ・レクィエムの第二楽章の音楽を、最初は「2台のピアノのためのソナタ」のスケルツォ楽章として草案。
それは交響曲に発展する考えもあったが、最終的にピアノ協奏曲第一番ニ短調となる(1858年)。そのスケルツォ楽章は結果的には採用されず。
1856年7月29日
シューマン没。
1857年
デトモルト宮廷に職を得る。
9月~12月)宮廷でピアノを教え、合唱の指揮をする。合唱作品に興味を持ち始め、過去の作品の研究と合唱作品の作曲を精力的に行い始める。クララはこの年9月末にベルリンに転居。
1859年1月
最初の大作「ピアノ協奏曲第一番」の初演が失敗に終わる。婚約者アガーテ・フォン・ジーボルトとの結婚に失敗。ハンブルクに引きこもり、作曲活動のかたわら女性合唱団を指導。
1862年7月
クララ、バーデン・バーデンに避暑。ここに別荘を買う決心をする。
1863年
ウィーン・ジング・アカデミーの指揮者となる。(30歳)
ヴァイオリニスト、ヨゼフ・ヨアヒム、歌手のアマーリエ・シュネーヴァイスと結婚。ヨアヒム夫人はドイツ・レクィエムのブレーメン初演の際、ソプラノ・ソロを歌う。
1864年
ワーグナーと会う(2月6日)。
ブラームスはワーグナーの前で「ヘンデルの主題による変奏曲」を演奏。ワーグナーは感心し、「古い形式でもこれを扱うすべを心得た人間の手にかかると、まだ何かなし得るものだ。」と言った。
ジング・アカデミー指揮者辞任(4月)。
これ以後、夏はクララがバカンスを取っているバーデン・バーデンで過ごすようになる。
1865年2月2日
ブラームスの母親死去。
4月、ブラームスはクララに第4楽章を送る。第1,2楽章もほぼ完成。
「まだ時期が早すぎるので、どうかヨアヒムには合唱曲を見せないで下さい。大体のところ極めて不十分なもので、前にも申し上げたようにドイツ・レクィエムです。」(クララへの手紙)
しかし、この後しばらく作曲から遠ざかる。
1866年1月
カールスルーエに春まで滞在。第3楽章に着手。5月にフーガを完成。
夏、チューリヒで第1楽章を手直し。第6楽章を作る。第7楽章にも着手。
8月、リヒテンタールで第7楽章完成。(33歳)
クララへのクリスマス・プレゼントのためピアノ・スコアを作成する。
さらに、翌年(1867年)春まで、ドイツ・レクィエムは補筆が続けられた。
1867年12月1日
ドイツ・レクィエム、ウィーン初演が失敗に終わる(34歳)。
最初の3楽章のみ。オルガンなし。ヘルベックの指揮により楽友協会演奏会。
第3楽章フーガのティンパニーが強すぎて聴衆の不興を買ったのが失敗の原因といわれる。
1868年4月10日
ブレーメン大聖堂での初演は大成功。
オルガン付き。第5楽章をのぞいて全曲上演。指揮者は作曲家自身。
間にヘンデル「メサイア」からのアリア“我はわが主の生けるを知る”を演奏。
評判が良かったので、4月28日に再び指揮者ラインターラーにより再上演。今度は「魔弾の射手」より“アガーテのアリア”が挿入される。
5月、第5楽章に着手、これによって現在残っている形に完成。
1869年2月18日
ドイツ・レクィエム、第5楽章も含めての全曲上演。
ライプツィヒ、ゲヴァントハウス。ライネッケ指揮。
続く10年間にヨーロッパ各地で100回以上も上演された。
この年からウィーンに定住。夏はクララ達シューマン家と一緒にバーデン・バーデンという生活。
1872年秋
ウィーン楽友協会芸術監督に就任(39歳)。
1876年秋
交響曲第一番をリヒテンタールで完成(43歳)。
1896年5月
クララ・シューマン没。
1897年4月3日
ブラームス没。

作品の概要

第1楽章
Ziemlich langsam und mit Ausdruck 4分の4拍子 ヘ長調
ヴァイオリンを全く伴わない管弦楽。ハープの響きが印象的。
第2楽章
Langsam, marschmasig 4分の3拍子-Etwas bewegter-TempoⅠ
-Un poco sostenuto-Allegro non troppo 4分の4拍子-tranquillo 
変ロ短調-変ロ長調
弱音器をつけた高音のヴァイオリンから始まる。全曲中最も早くから着想。
第3楽章
Andante moderato 2分の2拍子-2分の3拍子-2分の2拍子(変則的)
ニ短調-ニ長調
バリトン・ソロ。最後のフーガの部分は長い保持低音を持つ。
第4楽章
Masig bewegt 4分の3拍子 変ホ長調
第5楽章
Langsam 4分の4拍子 ト長調
ブレーメン初演後に作曲。ソプラノ・ソロ。母の死の影響?
第6楽章
Andante 4分の4拍子-Vivace 4分の3拍子-Allegro 2分の2拍子 
ハ短調-嬰ヘ短調-ハ短調-ハ長調
バリトン・ソロ。通常のレクィエムの“怒りの日”に相当する部分を持つ。
第7楽章
Feierlich 4分の4拍子 ヘ長調

曲の構成
シンメトリーな構成(バッハの影響)
第4楽章がシンメトリーの中心として、第1楽章と第7楽章及び、第3楽章と第6楽章が共通点を持つ。

第1楽章と第7楽章はプロローグとエピローグ。
第3,6楽章は、共にバリトン・ソロを伴い、闇から光明へ曲想が移っていく。すなわち、無常観から神の永遠性へ、あるいはこの世的な苦悩、疑いから、神への信仰へと発展していく。

ブレーメン大聖堂での初演を巡っての議論
指揮者カール・マルティン・ラインターラーのブラームス宛の手紙
1867年10月5日ブレーメン
作品にたいへん興味深く目を通しました。とても感動しました。上演には、ここでは美しい大聖堂しか考えられません。そして、もし特別なコンサートがなかったなら来年の受難日4月10日が空いています。
あなたのレクィエムを見てふと考えたのですが、ごめんなさい、この作品が受難日にもっとふさわしくなるように、まだ拡大する可能性があるのではないかと思われます。私なりにこの作品の構想の脈絡から考えますと、そのような拡大があるように思われるのです。
また別の面から考えますと、この作品は、音楽面では、現状ですでに完結しております。

議論のポイント
ドイツ・レクィエムの歌詞に、キリストの十字架、受難、復活に触れている場所がない。救済の意味やキリスト者の希望についても触れられていないため、教会で宗教曲として上演する場合、教義的に問題ありと考えられた。
ブラームスは、ラインターラーに宛てた手紙の中で、「意図的にヨハネによる福音書第3章16節は避けた」と言っている。

ヨハネによる福音書第3章16節
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

結局、ヘンデルのメサイアから第3部冒頭のソプラノ・アリアを、第4楽章の後に歌うことを条件に折り合う。親友のヨゼフ・ヨアヒムがソロ・ヴァイオリンを弾き、ヨアヒム夫人のソプラノで歌われた。

ソプラノ・アリアの歌詞
ヨブ記第19章25-26
わたしは知っている
わたしをあがなう方は生きておられ
ついには塵の上に立たれるであろう。
この皮膚が損なわれようとも
この身をもって
わたしは神を仰ぎ見るであろう。
コリントの信徒への手紙Ⅰ 第15章20
しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。

この演奏会でソプラノのアリアを挿入して演奏した経験から、第5楽章のソプラノ・ソロの着想を得たのではないか?

ドイツ・レクィエム受容史
ブラームスからピアノ・スコアを送られたクララの返事
お話しする事はあまり多くありません。でも全くもってあなたのレクィエムのことで頭が一杯だということは、お伝えしなければなりません。
これは強烈な作品です。たぐいまれなる感動を人々に与えます。深い厳粛さは詩(ポエジー)の魔力と結びついて、素晴らしく心を動かし、慰めてくれます。
あなたもご存じの通り、私は言葉では上手く表現出来ません。でもこの作品の中にある大切な宝物を全部、奥底まで味わっています。それぞれの曲がもたらす感動は、私を大きく揺さぶり、言葉に出さずにはいられません。
あなたがこの作品を実現してくださるよう祈ります。
本当に難しいのは、オルゲルプンクトつきのフーガだけです。

初演の様子 ウィーン楽友協会100年誌
第1楽章と第2楽章は観客に好印象を与えた。しかし第3楽章の終わりのフーガでは、ニ音の持続低音(オルゲルプンクト)が鳴っている箇所に、ティンパニー 奏者が乱暴に叩きまくった恐ろしい音で響き渡り、聴衆の大多数が紛れもなく拒否反応を示した。しかし音楽に通じた主要新聞の記者たちが、この作品の意義を 認める事までは妨げなかった。

ハンスリックのウィーン初演の批評
この作品は大変意義深く、偉大な作品である。我々には、ベートーヴェンの晩年の宗教音楽の様式から生まれた最も豊かな果実のうちの一つだと思われる。古典 主義者たちの死者ミサや葬送カンタータ以来、死の戦慄、厳然たる無常さが、このような迫力で表現されたことはほとんどなかった。
(第3楽章フーガについて)
作曲家は、このスコア上驚嘆させられる箇所の演奏上の効果をほとんど読めなかった。一度、とどろき渡るような持続低音が、もはや聞き分け出来ないような合 唱の各声部の絡み合いによって生まれた織物を結び合わせるかと思えば、その次には、ティンパニーの途絶えることのない同音上でのトレモロが、聴衆を神経質 に興奮させる。それは美的感受をすべて台無しにしてしまう。
誰もがこの持続低音の効果を、鉄道列車が長い長いトンネルを通り抜ける時の、あの不安な気持ちと比べてしまうだろう。この持続低音については、この箇所の ギョッとさせるような効果さえ消えてくれればと思う。これが第3楽章の成功に水をさしたのだから。
最初の二つの楽章が、暗く悲観的な厳粛さにもかかわらず、会場全体を湧かせた喝采を得た一方で、この第3楽章の運命は疑わしい。

ブレーメン初演後のクララの日記
4月9日、私たちはやっと総稽古(ゲネプロ)に間に合った。レクィエムは私を圧倒した。ヨハネスは素晴らしい指揮者ぶりを示した。
金曜日(4月10日)には、レクィエムの演奏に加えて、ヨアヒム夫人がメサイアからのアリアを、ご主人のヴァイオリンの伴奏で立派に歌った。このレクィエ ムには今までの教会音楽では一度も経験したことない感動を覚えた。
私は、ヨハネスが指揮棒を手にし、指揮している姿を見ながら、かつて私のロベルトが言った「一度彼に魔法の杖を握らせ、オーケストラと合唱の指揮をさせた ら」という言葉を思い出さずにはいられなかった。今日、その予言が成就したのだ。指揮棒は本当に魔法の杖になり、あらゆる人々を支配した。
演奏会後、市庁舎地下レストランで夕食会があり、みんなでお祝いをした。まるで音楽祭のようににぎやかで楽しかった。

指揮者ライターラーの祝辞
我々の巨匠ロベルト・シューマンが永遠の憩いに旅立って以来、われわれは悲哀と不安に満ちた時期を過ごしてきました。しかし今日、彼ヨハネスのレクィエム の演奏の後に、我々は巨匠シューマンの後ろに続く者が、彼の開いた道を必ず完成出来る事を確信出来るのです。
この挨拶を聞いたクララは耐えられず、涙にむせぶ。

出典



Cafe MDR HOME


© HIROFUMI MISAWA