遠藤周作の母

 松村禎三作曲「沈黙」の副指揮者として働いている根本君が、稽古場に「沈黙の声」という黒い表紙の本を持ってきた。これはカミユ社から出ていて、本とビデオとがセットになって五千円もするものであって、普通の人にはなかなか買えない。
 その本の最初の文章である「沈黙の声」は、小説「沈黙」を書いた時のメイキング・ストーリーである。これはこれで、それぞれの登場人物のキャラクターがどのようにして生まれたか、すなわち調査した史実の人物からどのようにして小説のキャラクターに羽ばたいていったかなどがつぶさに書かれていて興味深い。だが僕にとっては、直接「沈黙」とは関係ない「母なるもの」という文章の方がはるかに印象深く、胸を打たれるものがあった。

 「母なるもの」で遠藤氏は、江戸時代から地下で継承されていた信仰をいまだに守り続けている隠れキリシタンの里を長崎に訪ねた記事と、自分の母親の思い出とを交互に織り交ぜて小説のようなタッチに仕上げている。
 遠藤氏の母親に対する思い出は、激しく生きる女としてのイメージを伴っている。思い出は5歳の頃、父親の仕事の関係で満州の大連に住んでいた時期にさかのぼる。

六畳ほどの部屋のなかで母はヴァイオリンの練習をやっている。もう何時間も、ただ一つの旋律を繰りかえし弾いている。ヴァイオリンを顎にはさんだ顔は固く、石のようで、眼だけが虚空の一点に注がれ、その虚空の一点のなかに自分の探しもとめる、たった一つの音を掴みだそうとするようだった。
思い出はさらに続く。
小学校時代のイメージ。それは私の心には夫から棄てられた女としての母である。
大連の薄暗い夕暮れの部屋で彼女はソファに腰をおろしたまま石像のように動かない。そうやって懸命に苦しみに耐えているのが子供の私にはたまらなかった。
結局母親は、他に愛人を作ってしまった父親から離れ、遠藤氏を伴って日本へ帰り、母親の姉をたよって神戸に移り住んだ。
中学時代の母、その思い出はさまざまであっても、一つの点にしぼられる。母は、むかしたった一つの音をさがしてヴァイオリンをひきつづけたように、その頃、たった一つの信仰を求めて、きびしい、孤独な生活を追い求めていった。冬の間、まだ凍るような夜あけ、私はしばしば、母の部屋に灯がついているのをみた。彼女がその部屋のなかで何をしているかを私は知っていた。ロザリオを指でくりながら祈ったのである。
 その母に嘘をつくことを遠藤氏は覚えた。母の不器用で真剣な生き方は、一方で遠藤氏にコンプレックスを抱かせ、もう一方で息苦しさを与えていたようである。彼は。毎朝母親と一緒に通っていたミサに行くのを、受験勉強があるからという口実でやめ、しだいに日曜日のミサにも行かなくなる。彼は悪友と付き合い始める。煙草を吸うことを覚え、映画館や盛り場に出入りするようになる。さらに時折母の財布からお金をくすねることも覚える。
 ある日のこと、夕方まで映画を観て何くわぬ顔で家に戻った彼を母が迎えた。
玄関をあけると、思いがけず、母が、そこに、立っていた。物も言わず、私を見つめている。やがてその顔がゆっくりと歪み、歪んだ顔に、ゆっくりと涙がこぼれた。学校からの電話で一切がばれたのを私は知った。
その母が、心臓発作で急死した時、遠藤氏は遊郭の息子の家でいかがわしい写真を見ていたという。

 この文章を読んではっきり分かったことがある。それは、遠藤氏の全ての作家活動の原点は、先日、聖書学者の佐藤研(さとう みがく)氏がマタイ受難曲講演会で述べた「追喪(ついも)」にあるのだということである。ただ、遠藤氏の追喪の対象とは、イエスというよりは勿論母親である。彼の母との絆はそれほど深いのである。
 追喪とは、繰りかえし喪の行為を行うことである。キリストが捉えられた時、弟子達はひとり残らずイエスを棄て、逃げ去ってしまった。キリストは偽りの裁判を受け、死刑の判決を受け、十字架に架けられ、息を引き取る。それはイエスを見捨てて逃げた弟子達にとってみると、耐え難いほどの罪悪感を伴ったのである。
 自分の近い人が亡くなった時、誰しもが思う。
「ああ、こうしてあげればよかった。あんなこと言うんじゃなかった」
もし、それに加えて、その故人に対し、後ろめたい行為をしていたり、ましてや裏切り行為をしていたとしたら、その悔恨の情はいかばかりであろう。
 だから初期のキリスト教徒達は、まず十字架のイエスを述べ伝えることから始まり、その原点に常に立ち帰るのだと佐藤氏は語っておられた。十字架上のイエスを語り伝えることで、彼らは繰りかえし喪の行為を行っていたのである。その過程で、「自分たちの棄てたイエス」というものが、しだいに「人類の罪のためにその命を捧げたイエス」という教義に昇華していくのは、自然の成り行きであったのだろう。

 僕は思う。遠藤周作氏の小説に登場する全てのキチジロー的キャラクターは、母親に対する遠藤氏の想いが作り出したものではないだろうか。母親への深い悔恨を伴った敬愛が遠藤文学の出発点であり、だから遠藤文学は情が深くやさしく暖かく、キリスト教文学という固い殻をかぶっていながら、日本人の心を打つのであろう。
 ひとりの人間の生き方は、他人になんて大きな影響を与えるのだろうか。これを書いている僕自身、遠藤氏の母親の生き方を想うだけで胸に込み上げるものがある。ましてや、その母親に対し、良い息子でいることが出来なかった遠藤氏は、歳を重ねる毎に母の生き方を繰りかえし回想し、自分の罪を繰りかえし悔恨し、それがしだいに罪を犯さないでは生きられない弱き人間への共感へと発展していったであろう。それを思うと、遠藤文学を単に異端として片付けるわけにはいかないなあ。人にはそれぞれ、その見解に至るまでの個別の内的プロセスというものがあるのだ。

泣けるアリア
 松村禎三作曲、歌劇「沈黙」第1幕最後の場面で、主人公の司祭ロドリゴのアリアがある。初演の時、松村さんは僕に向かってこう語っていた。
「いやあ、わたしはあまり気が進まなかったんですが、こういうアリアがあった方がいいと言われて書いたんです。やっぱり恥ずかしいですよね」
 嘘だと思った(笑)。絶対に気に入っているに違いないのである。厳しい無調音楽に支配されている中で、突然現れる調性音楽。しかも、まるで歌謡曲のような甘くせつないメロディー。このキッチュすれすれのアリアを聴く度に、ああ、松村さんて凄い人だったんだなあと僕は逆に思うのだ。現代オペラで“泣けるアリア”を書けるからというのもあるけれど、“泣ける”という手法をあえて取り入れてオペラを構成するその決断力と勇気に、僕は拍手を送りたいのである。

我ら滅びと悪とをむさぼり
果てしない荒野をさまよえり
主よ 昼はあなたに叫び
夜は みまえに嘆く
主よ 何故わたしの魂をしりぞけ
み顔を隠されるのか
主よ 昼はあなたに叫び
夜は み前に嘆く
あなたは わたしの仲間を遠ざけ
わたしは 忘れられた
ああ 主よ!
 お涙頂戴である。でも、いいではないか。ここで松村さんは、この歌謡曲のメロディーを使ってロドリゴの心情に肉薄していく。聴衆もここでは泣いていい。この場面のすぐ前では、モキチ達が水責めにあって死ぬ。その場面でも、最期の時までハライソParadiso(天国)への賛歌を歌って死んでいくモキチと、浜から唱和する合唱に、聴衆は涙するに違いない。そしてさらにこのアリアで追い打ちをかけるのである。松村さんは意図的に”泣ける”場面を第1幕に集中して書いている。
 何故なら、第1幕での涙にはまだ甘さがあっていいのだ。この後、第2幕になって物語が進行していくにつれ、事態はどんどんシビアになり、もはやロドリゴも聴衆も泣くどころではなくなるのである。

 ロドリゴは、様々な拷問にあって信仰心の強さを試されるだけではない。そうだったら、むしろいくらでも果敢になれただろう。ところが厳しいのは、井上筑後守(いのうえちくごのかみ)による狡猾な心理的拷問だ。それによってロドリゴは、自分の信仰心の中に潜むプライドや自己満足、救われているという優越感、自分が転ぶ(棄教する)ことで教会の汚点となることへの恐怖といった“自己の内面の甘さ”を徹底的にあばかれていくのである。ついに彼は、自分で自分が分からなくなってきて、一種の錯乱状態に陥っていく。 そうやって、神も仏もないような状況に追い込まれた末に、あの慰めに満ちたOra pro Nobisの合唱が響き渡るというのが、松村「沈黙」のオペラ構成におけるストラクチャー(構造)なのである。

 だから、第1幕のアリアで聴衆が泣いてくれれば泣いてくれるほど、オペラ後半の聴衆の心情へのインパクトは強くなるというわけである。
みなさん!
「なんだ歌謡曲か」
なんて思わないで、この甘い音楽に身を任せて思いっ切り泣きましょうね。ロドリゴを演じている小餅谷哲男(こもちやてつお)さんも小原啓楼(おはらけいろう)さんも、ここでは絶唱します。僕も毎回泣きます。

 さて、歌劇「沈黙」は、いよいよ今週水曜日2月15日に初日の幕が開きます。日曜日までA組みB組キャスト交互で毎日上演します。

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© HIROFUMI MISAWA