啓楼のロドリゴ

 振り返ってみると、もう十数年前のことになる。僕は東京藝術大学で声楽科合唱の授業を受け持っていた。週に2回、月曜日と木曜日の10時半から11時50分までの1時間20分である。
 芸大の声楽科の生徒であるから、ひとりひとりの声は良いわけであるが、この授業を受け持つのは予想以上に大変であった。何故ならみんなソリスト志向なので、合唱ごときものにそんなに労力をはらうつもりはないのだ。当然学生達のモチベーションは低く、授業の間に楽譜を開く者はほとんどいない。

 1学年約60名の声楽科生徒のいる芸大で、1年生から3年生まで合同の芸大合唱180名を取り仕切るのは3年生のインスペクター(インペク)である。授業を受け持ってから3年目に小原啓楼(おはら けいろう)君がインペクになった(以下親しみを込めて啓楼と呼び捨てにする)。
 ここで啓楼(けいろう)はみんなの流れを変えてくれた。彼は芸大に来る前に一度サラリーマンを経験していた、いわゆる脱サラなので、年齢的にも一般学生よりもずっと上だったが、なんといっても彼のリーダーシップが抜きんでていた。
 啓楼はみんなの前に立ち、蕩々と語った。
「合唱をあなどってはいけない。合唱から学べることは無限にあるのだ。いい加減な気持ちで本番に臨んではいけないのだ!」
 彼がインペクになってから、芸大合唱はまるで別の合唱団のようになった。授業中も集中し、みんなも僕の言うことをよく訊いてくれるようになったのだ。集中力が切れると、啓楼がみんなの前に立ち、叱咤激励する。こうしてその年の定期演奏会、ゲルハルト・ボッセ指揮メンデルスゾーン作曲オラトリオ「エリア」は、かなりの名演となったのだ。

 その年度も終わりに近づいたある日、僕は彼と話す機会があった。
「君が合唱の流れを変えてくれた。本当にありがとう。でもなあ、次に3年インペクになる初谷敬史(はつがい たかし)君ね。ちょっと見かけ頼りないので、啓楼のような仕事出来るかなあ」
「いや、先生、あいつそうでもないですよ。俺みたいにハッタリかましたりしないかも知れないけれど、妙に人を惹きつける魅力みたいのものがあって、周りがあいつのために動いてくれています。俺はいつもひとりで仕切っていたかも知れないけど、トータルで見たら、俺より仕事するかも知れないですよ」
 啓楼は、人を見る眼もあった。事実、初谷君の周りには、何人かの素晴らしく頭も切れて行動力のある女の子達がいて、常に彼を助けている。啓楼とは全く正反対のタイプでありながら、初谷君は、合唱授業全体の雰囲気作りから始まって、演奏会に向かって生徒のモチベーションを高めていくことなど、別のアプローチから攻めて大きな力を発揮したのである。

 僕が啓楼と初めて仕事場で一緒になったのは、新国立劇場子供オペラ「スペース・トゥーランドット」の主役キャプテン・レオに出演してくれた時である。もともと天性の美声であった彼であるが、しばらく見ない内にリリック・テノールとして大きく成長したのを見て、とても頼もしい思いをした。
 さて、今回、啓楼はオペラ「沈黙」で主役のロドリゴを歌っている。立ち稽古の初めの方、僕は彼にずけずけと言う。
「啓楼、お前、ちっとも司祭に見えないんだよなあ。もっと内面から出てくるものが欲しいよ」
ところが立ち稽古が進んでいく内に、彼がどんどん豹変してくるのを見て驚いた。ある日、僕は彼に言う。
「啓楼、だんだん司祭に見えてくるようになったよ」
僕は、彼が僕の言葉なんかそんなに気にしないだろうと思っていた。ところが彼は、
「本当ですか?え?マジで言ってますか?三澤先生にそう言われるの、俺ものすごっく嬉しいッスよ。実は、姉がカトリック信者なんです。それで、年中そんなんじゃダメと言われていて・・・・俺、頑張ります!」
と真顔で言うではないか。

 そして本番。啓楼は、見事に苦悩する司祭ロドリゴに成り切っていて、深く胸を打たれた。歌手としても、天性の美声に加えて全ての声区における安定した歌唱や伸びやかなフレージングが、彼が第一級のテノール歌手に成長したことを如実に物語っていた。
 終幕では、合唱は上手袖で裏コーラスを歌っている。一方、啓楼は舞台センターにある踏み絵を踏み、そこで泣く演技をしている。幕が降りると、僕は、合唱のカーテンコールのために、上手袖から舞台上に出て行って、まさに啓楼が座っていたところに板付きで立つ。その時に、啓楼とすれ違う。
 16日の公演が終わった時は、すれ違いざま、彼の肩を叩き、
「Bravo!」
と言った。ところが彼にとって最終日の18日土曜日の幕が降りた時、同じように啓楼に近づこうとしたら、彼は踏み絵の前にうつぶせになって踏み絵を抱きしめたまま離れない。衣装は汗でびっしょりに濡れている。彼は本当に泣いていた。その姿を見て、僕ももらい泣きしてしまった。
 彼は踏み絵に描かれていたイエスを本当にいとおしく想い、離れられなかったのだ。多くの人達に見棄てられ、踏みにじられ、深く傷つきながら、人々を赦しているイエスを・・・・・。
 舞台監督助手の人が急いで彼を立たせ、カーテンコールのために袖に連れて行く。僕は、気軽に彼の肩を叩くことなど出来なかった。僕の前を通り過ぎていく彼の顔は、まさにロドリゴそのものだったのである。彼の中ではまだ「沈黙」は終わっていなかった。凄いと思った。彼は本物になった!

 啓楼は不器用な奴である。音取りも速い方ではない。でも、単なる音楽家を超えて“芸術家”になるのは、むしろこうした不器用くらいの人間である。彼は、本番に至るまで、このドラマを突き詰めて突き詰めて考え、それぞれの場面でロドリゴが何を感じ、何を思うのだろうか悩み続けていたに違いない。その軌跡が全て彼の演技に現れていた。僕は今、啓楼がここまで成長したことを本当に嬉しく思うし、彼がかつて僕の授業の生徒であったことを誇りに思う。

人間、長い間生きていると、いいことがあるものである。


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