ここのところ

三澤洋史 

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ここのところ
 ここのところ毎晩パソコンでスコアを書いている。新国立劇場での毎日の仕事だけでも大変なのに、自作のミュージカルはその合間を縫って作ったり練習したりしなければならない。本番の為のフル・スコアを作成する時間は午前中か夜間しかないのだ。

 深夜、頭も眼もくたくたに疲れてパソコンの電源を落とすと、階段を降りて居間に行く。家族はとっくに寝静まっている。僕は棚から赤ワインを取り出し、冷蔵庫からチーズを出す。実はこのひとときが僕にとって何にも代え難い貴重な時間なのだ。ワインの入ったグラスをゆっくりと回しながら大きく深呼吸をする。 フルーティーな香りがあたりに広がる。そしてゆっくりと口に含んでみる。タンニンの渋みが心地良い。(血糖値が心配!)

 いつもならこんな時はマイルス・デイビスかジョン・コルトレーンを聴く。でも今はその前にギリギリまで音楽に浸かっているので、もう音は沢山!かわりにいろんな事を考える。

 ニコライ・ギャウロフが死んだ。彼は僕の青春だった。NHKのイタリア・オペラ「ファウスト」のゲネプロに僕は潜り込んだ。レナータ・スコット、アルフレード・クラウスなどと共に信じられない歌を聴かせてくれたっけ。ギャウロフの声はビロードのようになめらかというわけではない。むしろその響きの中にはある種のざらざらした要素が混じっている。しかしながら声帯の鳴り方は本当に自然で、まさに理想的と言える。多くの歌手がただ大きな声を張り上げる中で、あんなに知的であんなに繊細な歌を正攻法で歌えた歌手も珍しい。国立音大声楽科の学生だった当時の僕は、むしろドイツ・リート一辺倒で、フィッシャー・ディスカウのことを神様のように思っていた。その僕が例外的に唯一尊敬していたイタリア・オペラの歌手がギャウロフだった。彼を知りたければ、「ドン・カルロ」のフィリポのアリアを聴くがいい。そこに表現されている深い孤独こそ、彼以外の誰もなし得なかったものだ。

 歳をとってくるとフィリポの孤独がよく分かる。というより、そんな孤独をむしろ愛するようになるのかもしれない。若い頃はベートーヴェンが好きで、ブラームスは嫌いだった。自分がうじうじしているだけなのに、他人をも巻き込んで、
 「ねえ、人生ってこんなもんなんだよ。」
と妙に悟りきった言い方をされるのが無性に腹立たしかった。

 それがここ十年くらいの内にずいぶん変わってきた。自分の人生がとっくに折り返し点を過ぎていて、自分に出来ることと出来ないことが分かってくると、自分を見る目も他人を見る目もやさしくなってくる。自分がやさしくなるとブラームスの中にあるやさしさが理解できるようになってきたのだ。

 ブラームスはベートーヴェンのようになろうとしてなれなかった男。ベートーヴェンのように飛ぼうとして飛べなかった男だ。何故かというとブラームスはやさし過ぎたためさ。シューマンが亡くなった後、クララにアタックすれば良かったんだ。でもそれをしないで彼女の家庭を想って生きている者向けにレクィエムを書いたなんて馬鹿な男!

 どうやら少し酔ってきた。酔いついでに言わしてもらうと、より良いブラームスを奏でるためには、僕ももっと深い孤独に身を置く必要があるな。     




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