志保へのメール

三澤洋史 

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志保へのメール
 元気かい?こっちは真夜中。一度ベッドに入ったんだけど、眠れなくてね。時差ぼけだあ!で、下の部屋に降りてきて古いシャンソンを聴いている。
 「パリの空の下」なんか聴いている内に、なんとなく涙が出てきてね、それで志保にメールを書きたくなってきたというわけ。

 モン・サン・ミッシェルもカルナックも良かったけど、本当の事を言うと、一番楽しかったのは最後の二日間、志保と二人でどこまでも歩いたパリの街だった。
 土曜日はまず、ローム通りの楽譜屋を回り、すぐ近くにある志保の音楽大学に行ったね。小さな楽譜屋なのにハインリヒ・シュッツの楽譜が沢山あったのに驚いた。別の店で妹の杏奈の為にクラリネットの楽譜を探した時も、種類が豊富だったね。パリの楽譜屋、なかなかやるじゃん!
 その後、プランタンやラファイエットを冷やかして歩いた。土曜日だったのでめちゃめちゃ人が多かったね。昔はこんな時、迷子にならないように志保がパパの背中にひっついてたけど、今ではパパが志保を見失っては大変と、志保の服の端を持っている。
 すっかりくたびれてカフェに入ったね。カフェ・クレーム(カフェ・オレ)と一緒に頼んだクレーム・ブリュレ(プリンのようなお菓子、表面のカラメルに焦げ目がついている)がおいしかった。
 それから二人はセーヌのほとりに出たんだ。志保は落ち込んだ時によくここに来るんだと言っていたね。親の知らない志保ひとりの人生が展開しているんだね。美しい夕暮れの空。青や緑のすじが夕焼けに混じってなんともいえない雰囲気をかもしだしていた。遠くにもう明かりを灯したエッフェル塔が見える。とうとうと流れるセーヌ川。
 川岸に二人で腰掛けてしばらくボーッとしていた。7時になったら、エッフェル塔の明かりがぐちゃぐちゃっと派手に動いたのには笑ったね。こんな冗談めいた事をするのもフランス人だなあ。
 その後は、おなじみチュイルリー公園からコンコルド広場に出た。オベリスクの立っている広場の中央まで来て、凱旋門に向かってずっと続いているシャンゼリゼ通りの車の光のすじを眺めたね。
「やっぱり、ここに来ないとパリに来た気がしないね。」
と二人で笑って、それからマドレーヌ寺院の横を抜けてポトフの店に向かったんだ。

 志保の家は16区、つまりパリの西側。凱旋門から南西に行ったところのビクトル・ユーゴー広場の近く。凱旋門からも歩いていけるし、なによりも家から少し歩くとエッフェル塔を一番良く眺められるシャイヨー宮に出るんだ。西に歩くとすぐにブローニュの森に出る。
 出発の日の朝、ビクトル・ユーゴー広場に面した教会のミサに行ったね。ベツレヘム修道会のシスター達の清らかな歌声に二人とも度肝を抜かれた。あの人達「なにもの」?って感じだね。石造りの教会の中に全く無伴奏で歌声が立ち登り、天上的な響きであたりを満たし、空間を清めている。パパがこれまでに聴いたどんなプロのコーラスよりも美しかった。あの人達は無心で神様に自分の心を捧げている。別に人を感動させようとか、賞賛を浴びようとか思わずに、自分の信仰を歌に託しているだけなんだ。それが逆に心を打つのだろう。やっぱり、歌は心なんだ。心が美しくないと本当に素晴らしい歌は歌えないんだ、とパパは深く思った。プロが最も心がけなければならない事だ。
 それから二人はブローニュの森に散歩に出たね。森だけでなにもないかと思ったら、池があって結構素敵だった。それにしてもずいぶん歩いた。でも志保と歩くのはとっても楽しかったよ。

 娘っていいね。妻とも違うし、恋人とも違う。ママ以外の可愛い年頃の女の子と素敵なデートをしていても、罪の意識感じなくていいんだもんな。あはははははは!
 志保がベルリンの大学病院で生まれた時、ママはとても難産だった。ラマーズ法だったのでパパはママのそばにいられたんだけど、ママの手を握りしめながら、
「この子が無事生まれたら、自分はこの子と家庭のために全てを捧げます。だからどうか無事生まれて下さい。」
と神様に必死で祈っていた。
 パパのその姿を見ていたベルリンの看護婦さん達はね、志保が生まれた瞬間、感動してみんな一緒に泣いてくれたんだよ。「よかったね、よかったね!」とみんなで手を取り合ったんだ。あの人達職業だから出産なんか珍しくないだろうに、なんて純粋な人達なんだって、パパそれ見て再び感動して泣いちゃった。部屋中が感動の嵐だった。遠い思い出のはずだけど、つい昨日のことのように思い出すよ。
 そんな風にして志保はこの世にやってきたんだ。生まれてきた時はお猿さんみたいだったけどな。それがこんな素敵な娘に育った。

 中学生の夏休み。親に内緒で髪を染めたのがバレて家庭内に緊張感が走った時、パパは志保に言ったね。
「志保がどんな悪い子になっても、パパにとって志保は可愛い可愛い娘だからね。それだけは何があっても絶対に変わらないからね。」
それで志保の気持ちはパパの元に戻ってきてくれた。やっぱり志保は素直な子だったんだ。
 思春期になるとみんな殻をかぶる。でもその下には目覚めつつある柔らかい自我があるんだ。殻の中で自我がたくましく育ってきた時、いらなくなった殻を脱ぐ。それまで自我には殻が必要。だから親は、子供の殻の中の見えない自我を信じてあげることが必要なんだ。
 これはシュタイナーの思想。子安美智子さんが「いばら姫」のたとえでパパに教えてくれた。でもね、パパは志保が可愛いから自然にそう言っただけ。理屈は後からついて来る。大切なのは「愛」だね。おう、照れくさい言葉を発してしまった。
 それよりパパはその頃、もっと先のことを考えていたよ。将来自分の娘と一緒にお酒を飲めたらいいなあ、なんて思っていたんだよ。パパの方がよっぽど不良だな。でもその夢も叶った。それどころか、パパのあこがれるパリに自分の意志で留学し、パパの「ナディーヌ」もパリの香りをただよわせながら弾いてくれたし、もう何も言うことないね。志保は本当にパパの誇りです。来年になるとそこに妹の杏奈も来るからね。二部屋あるアパートも広くなくなるね。

 シャルル・ドゴール空港で別れる時は寂しかったね。ああいうの苦手だから、搭乗口前に並んでいる間見送られるのは辛いので、
「もう行きなさい。」
と言ったら、志保はフランス式に抱きついてきたね。ハグハグしている時、パパ泣きそうになったよ。志保を送り出した後、必死で見ないようにしながら列に並んだ。

 さて、パパは早速日本での仕事を再開しています。もうパリでエネルギーをもらって元気溌剌です。新国立劇場の音楽スタッフ達も、
「三澤さん、めちゃめちゃ元気そう!」
と驚いています。
 「エレクトラ」は、指揮者のシルマーが素晴らしく、順調にいってます。演出もとても良い。
 いよいよ「ドイツ・レクィエム」の練習も始まったよ。東響コーラスの人達はもともとのクォリティがあるし、最近この曲をやったばかりだから音取りの心配する必要なく、即音楽的な練習が出来たよ。これからどこまでいくかとても楽しみ。やさしく、明るく、暖かく、どこにもないパパだけの「ドイツ・レクィエム」を作りたい。今のパパだったら出来る気がするんだ。
 じゃあ、これから寒くなるから風邪引かないで頑張ってね。今じゃないと出来ない勉強と経験を沢山しなさい。パパはいつでも、どんな時でも、志保の見方です。
可愛い可愛い志保へ。

パパより  



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