「ダ・ヴィンチ・コード」と聖杯伝説

三澤洋史 

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「ダ・ヴィンチ・コード」と聖杯伝説
 カトリック教会は今日に至るまでいくつかの真実を封印している。むろん悪意からではなく、熱烈な信仰心ゆえだ。
 僕は約十年前まで夢中になってこうしたテーマを追って研究していた。それが「ダ・ヴィンチ・コード」で蘇ってきた。この一週間、僕は久しぶりに限りなくエキサイティングな時間を過ごした。

 ミサ曲に「クレード」がある。これは別名「ニケーア綱領」あるいは「ニケーア信経」と言われる。325年から幾度となく開催されたニケーア公会議で、教会は、アリウス派やグノーシス派をはじめとする沢山の異端的教理を退け、最終的にこの「信経」で歌われている内容を心から信じ、口で宣言した者を正しいカトリック信者とみなそうと決定した。信者はクレードすなわち「我信ず」という言葉の次に来る文句を順番に唱え、この教理に帰依することを告白することで教会共同体の一員とみなされる。
 その中で最も大切なポイントが2点ある。ひとつは唯一の創造主なる神を信じるか否か?もうひとつはキリストの神性を信じるか否かなのである。この二つ目のキリストの神性に関して、教会は思い切った決断を下した。

 三位一体。この教義は画期的であった。教会はキリストを我々のような被造物ではなく、神と同質consubstantialisなものとみなした。父なる神、子たるキリスト、聖霊は、異なった現れ方をした神の三つのペルソナである。分かりやすく言うと、卵は、生卵のままでも、目玉焼きやオムレツというように姿を変えても卵ということでは同質であるということだ。キリストは父なる神から創られたり、生まれたりした人間ではなく、肉体は持ったが、父なる神と同質であり同等なのだ。
 そしてここから教会の論理の飛躍が始まった。たとえば、キリストを産んだ聖母マリアは、神であるキリストをその身に宿し得たのであるから、ただの人間であってはならなかった。よってマリアだけは、アダムとイヴの失楽園以来全ての人間が背負っている「原罪」を帯びないという、いわゆる「無原罪」でなければならなかった。キリスト自身はそんなことは一言も言っていない。聖書のどこにも書いていない。これは明らかに人間の頭によって考えられた理論だ。
 さらに、無原罪マリアは、人間の男と交わって神の子イエスを身ごもることなど決してあってはならなかった。マリアは聖霊によってたったひとりで受胎する。処女懐胎の伝説の誕生である。こうすることでイエスの絶対的神性は血族的に守られた。
 同時に驚くべきトリックを教会は使った。イエスの法律的父親であるところのヨセフは、遠いダビデの家系だったというのだ。イエスは、ヨセフと血はつながっていないにもかかわらず、法律的にはダビデの家系に属し、実際には神と直結している。なんという離れ業か!

 「ダ・ヴィンチ・コード」は、こうしたカトリック教会が作り上げたキリスト像を根底から脅かす。だから世界中でセンセーショナルな話題となっているのだ。多分読んでも一番ピンと来ないのは日本人の読者だろう。まあ、推理小説として読んでも充分面白いので、大部分の人は後悔しないだろうけれど。

 僕が昔から気になっていたのは、聖杯伝説のことだ。聖杯とは、最後の晩餐でキリストがそこからワインを飲み、彼が十字架にかけられ、脇腹を槍で突かれた時には、流れ出る血をそれで受けたとされる杯である。でも、貧しいキリストがそんな素晴らしい杯からワインを飲んだわけないし、その同じ杯で血を受けるというのもどことなく嘘っぽい。どう考えても聖杯伝説は眉唾物だと思っていた。それが今回の小説を読んで、まさに目からうろこが落ちた思いがした。聖杯はあるものの象徴だったのだ。

 そこで僕は、ワーグナーの二つの聖杯伝説の作品、すなわち「ローエングリン」と「パルジファル」を徹底的に調べた。そして「なるほど」と思った。ワーグナーは知っていたのだ。あの、聖杯伝説の本当の意味を・・・・。

パルジファルは聞く。

Wer ist der Gral ? 「聖杯って誰?」

この一見愚かな質問に対し、驚くことにグルネマンツはパルジファルを愚か者とあざ笑うどころか、大真面目で次のように答える。

Das sagt sich nicht.

この文は高木卓氏の訳では、「それは言えないな。」となっているけれど、直訳すると「それはそれ自身の事を語らない。」で謎の文章だ。
そのすぐ後で、有名なセリフが語られる。

Zum Raum wird hier die Zeit.  「ここでは時間が空間に変わっていく。」

 また、「ローエングリン」で主人公は自分の身分を明かす時、こう言う。
「私の父パルジファルは聖杯王。そして私は聖杯の騎士ローエングリンと呼ばれている。」
 では聖杯王パルジファルは結婚してローエングリンという息子をもうけたのか?聖杯の騎士は独身ではないのか?相手は誰?罪の女クンドリ?クンドリは確かにマグダラのマリアをモデルにしている。

 ワーグナーは「パルジファル」スケッチ原稿の中で、聖杯の語源について、サン(グ)・レアル(王の血あるいは血筋)からサン・グレアル(聖杯)の語が派生したのだと述べている。「ダ・ヴィンチ・コード」下巻60章冒頭でも全く同じ事が語られている。とすると、ローエングリンはまさしく王の(すなわちキリストの)血統の者なのではないだろうか?

 パルジファルでアンフォルタスを傷つけ、終幕でその傷を癒す聖槍は、男根の象徴。聖杯はそれを受け入れる器、すなわち女性器の象徴。これはすでにワーグナー研究者達の間では定説になっていることだ。秘密結社薔薇十字の薔薇も女性の象徴だ。十字架のまわりに薔薇がちりばめられたマークも、意味するところは聖槍と聖杯のコンビネーションと同じだ。
 僕が「ダ・ヴィンチ・コード」を読んで初めて知った新しい情報はこうだ。聖槍に象徴されるキリストは、彼の受け皿である聖杯、すなわちマグダラのマリアと結婚していて、子供をもうけていた。その子供と共にマグダラのマリアは、キリストの死後、当時のガリア、すなわち現在のフランスのどこかに渡り、そこで子供を育てキリストの血筋を守った。それが形を変えて聖杯伝説となり現在に至っているということ。

 マグダラのマリアを聖母マリアと混同する人がいるので、はじめに断っておくが、聖書によると、マグダラのマリアは、イエスによって七つの悪霊を追い出してもらった女と表現されている。(ルカによる福音書第8章2節)彼女はかつて罪の女だったが、悔恨によって主に許され弟子となったのである。
 彼女は、イエスの生涯にとって重要な場面に現れている。キリストが十字架にかかった時に、聖母マリア達と共に彼女は十字架の傍らにいた。また復活の日、夜がまだ明け切らぬうちに彼女は誰よりも早くキリストの墓を訪れ、復活したキリストに最初に会っている。これだけ見ても、とてもキリストに近い存在だったということは想像に難くない。
 しかしイエスとそれ以上の関係にあったことや、ましてや結婚していたことなどはどこにも表されていない。現在教会が聖書として認めている書物だけ見る限りは・・・・。
 グノーシス派の福音書のひとつ、ピリポによる福音書の中では、イエスがどの弟子よりもマグダラのマリアを愛していたこと。それに対して弟子達の間に嫉妬の感情が生まれたことなどが表されているという。その他外典にある記述を合わせてみると、少なくとも彼女が、イエスの実の母である聖母マリアをのぞいては、イエスにとって他の女達とは違うある特別な立場にいたことはもはや疑う余地はない。

 僕は世襲というものが個人の才能にもたらす効果というものを信じていない。ワーグナーの孫のヴォルフガング・ワーグナーがどんなに頑張ってみたところでリヒャルト・ワーグナーの才能には及ばない。今ここにモーツァルトの末裔であるという人が出てきてみたところで、僕はその人をモーツァルトと同じように敬う気はない。モーツァルト自身ではないのだから。
 才能は一代限り本人限りのものだ。血統で受け継がれるものではない。だからメロヴィング朝がイエスの血脈を継いだ王族であり、今日まで続いていると言われても、トリビアの泉ではないが「へえ~!」と言う以上の何の気持ちも持てない。それは僕にとっては別にどうでもいいことだ。僕が心から信じ、敬い、そして愛しているのは、ナザレのイエスたった一人なのだから。
 
 「ダ・ヴィンチ・コード」が世界中で売れれば売れるほど、それはカトリック教会にとっては二千年以来の脅威となっていくかもしれない。この中で表現されている聖杯伝説はバチカンにとっては許し難いことに違いない。教会はこれを黙殺するか、あるいは全力をつくして抗議するか二つに一つの道しか残されてはいない。まさか今更魔女狩りや宗教弾圧を行おうとしても誰も従ってはくれないだろう。

 ニケーア公会議以来、神であるキリストは決して女となど交わってはならないのだ。ましてや結婚して子供をもうけているなんてデマを今頃でっち上げるなんて言語道断だ。
「すべて色情をいだきて女を見るものは、すでに心のうち姦淫したるなり。」
これを言ったのはキリスト自身だ。これまで一体どれほどの男性がこの言葉に心を悩ませたことか。
 もしそれがくつがえされるとしよう。これまで独身キリストにならって異性への気持ちを断ち、独身のまま生涯を過ごした数え切れないほどの修道士、修道女、司祭達の運命はどうなるのか?

 僕がこれまで一番疑問に思っていたことがある。それは、キリストは普通の人が普通に生きる生き方をどうして示してくれなかったのだろうか?ということである。みんながキリストのように非凡な人生を送れるわけではない。世の中の大部分の人は凡人である。平凡に結婚して家庭を持って幸せに生きるというのではどうしていけないのだ?

 教会は聖母マリアを絶対的な存在としたいようだが、聖母マリアが処女でなかったからって、彼女の純潔さに一点のしみも僕は感じない。男を知っていたって別にいいではないか。男を知ったらただちに汚れると考える人達こそいやらしい。精神が美しければ何をしたって汚れはしないのだよ。セックスだって神が作ったものだ。
 またキリストがひとりの女性を愛していたらいけないのか?神だから、イエスは肉体を持っていながらおしっこもしなければ、おならのひとつもしなかったというのか?だったらどうして食事をした?パンを裂き弟子達に分け与え、ワインを回し飲みさせ、自分も食べて飲んだのだ?
 まぎれもなくイエスは人間だったと僕は思う。肉体がそれ自体を維持していこうと発する「欲望」という信号は悪ではない。犬が食べ物をあさる姿を見て「悪い犬」と思う人はいない。ただ人間には、「ここにある食べ物を食べたいが、これは自分の物ではないから食べてはいけない。」という分別が要求されるだけだ。

 パルジファルがクンドリとの接吻によって、人間の欲望と苦悩とは何かを知る事が必要だったように、キリストはまさに自分自身に欲望を感じること、そしてそれとの葛藤を知るためにこの世に肉体を持ったと言えるだろう。だったらなおのこと、キリストは徹底的に人間であることが必要なのだ。そして同時に神とつながっていることも必要なのだ。そうでなければ、どうして悩める人類に生きる道を示すことが出来ただろうか?

 冒頭に、僕は約十年前まで教会が封印してきた真実の研究をしていたと書いたが、では今はどうなのか?みなさんは不思議に思うだろう。今は、僕は安らかなのだ。聖杯伝説の事を聞いても、何を聞いても驚かないのだ。自分の中に確信があるから。
 実は、当時僕は自分の中に大問題を抱えていた。「クレード」の中のいくつかの言葉に関して疑問を持ち、これを唱えることに抵抗があったのだ。しかしそれを自分の中で解決しないことには、ミサ曲も演奏出来ないし、場合によってはカトリック教会を去らなければならないとすら考えた。そう、あの頃僕は毎日考えていた。考えに考えた末ひとつの結論に達したのだ。それは・・・・。

 「ミスター・ラングドン、わたしが訊いたのは、人々が神について語っていることを信じるかどうかじゃないの。あなたが神を信じるかどうかよ。そのふたつ は全然違う。聖典というのは、人々がそれぞれに意味づけをしようと苦労してきた伝説や史記なのよ。つまり物語ね。わたしはあなたに文学を論評しろと言ってるんじゃない。自分が神を信じるかと訊いているの。星空のもとで横たわったとき、聖なるものを感じるかどうか。神の手が創りたもうたものを見上げていると体感するかどうか。」
「きみは神を信じるのかい?」
「神はまちがいなく存在する、と科学は語っている。自分が神を理解することは永遠にない、とわたしの頭は語っている。理解できなくていい、と心は語っている。」

(天使と悪魔 上巻31章より)



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