彼岸の響き

三澤洋史 

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彼岸の響き
 一体どこから来るのだろう?この響きは?どこから探し当てたのだろう?この音は?マーラーの音楽を聴くといつも思う。耳に聞こえてくるのは物理的な音だ。しかし!それに混じって確実に聞こえてくる。この世でない世界からの音が・・・・。いわゆる彼岸からの音が・・・・。
 高校生の頃、マーラーの交響曲を聴くのは怖かった。特に「大地のうた」などを聴くと、自分の存在が根底から揺さぶられるような気がしたのだ。ここに表現されているのは「諸行無常」。森羅万象この世の全てのものは過ぎ去る。何一つとしてとどまるものはない。それは正視するにはあまりにも恐ろしい世の真実であった。
 僕が神の存在を信じ、キリスト教に向かっていった背景には、正直に白状するけれど、諸行無常を超えた不変の存在を考えずにはいられない恐怖があった。魂の不滅性を信じて初めて、自分はマーラーの音楽に正面から向かえ合えるようになったといえる。マーラーの音楽は、そうした問題を常に聴くものに突きつける。

子供定期
 今日(12月11日)は、10時半からサントリー・ホールで東京交響楽団の子供定期。大友直人氏の指揮で東響コーラスが演奏した曲目は、マーラー作曲交響曲第二番「復活」だ。超大編成のオケと合唱団の他に、舞台裏にはホルンとトランペット隊が控えている。なんと贅沢な子供の為の演奏会!
 でも子供の為であろうがなかろうが、マーラーの音楽が奏でられるのだ。僕は東響コーラスになんとしてでも最高の演奏をしてもらいたかった。なんといったってマーラーなのだから・・・・。
 そうして月曜日のオケ合わせでは聞こえなかったあの音は、本番では再び聞こえたのだ。僕に一瞬めまいを起こさせ、僕を無理矢理異次元に引き入れるようなあの世の音が・・・・。信仰を持たなければとうてい耐えられないような、あの身の毛もよだつほど恐ろしく、それでいてなつかしいマーラーだけが持つ特別な音が・・・・。僕の魂がそこから生まれ出、そしていつかそこに帰って行くであろう世界から響き渡ってくる、かすかな、それでいて決して聞き漏らすことのない音が・・・・。
 東響コーラスはひたむきに歌ってくれた。そのひたむきさのみが、あの響きをこの世にもたらしめ得たのだ。何故、月曜日には聞こえなくて、今日は聞こえたか?何故、月曜日には僕は怒り、今日は感動していたのか?そこには、マーラーだけではなくて、音楽全てに共通する真理が隠されている。芸術の神髄には、技術を積み上げて到達するのではない。それは、人間の努力では成し得ない。ただただ上から与えられる恵みのみがそれを成し得るのだ。我々の取るべき態度はただひとつ。畏敬の念を持つことだ。謙虚になることだ。

ポール
 サントリー・ホールに行くために降りる南北線の六本木一丁目駅には、ポールというパン屋がある。このパン屋に関してはパリ旅行の食事編で触れているが、日本にもあるのに驚いた。何故ならこの店、フランスでも万人向けとは言えない個性的な店だからだ。
 ここのパンははっきりいって食べやすいとは言えない。硬いのだ。特にバケットは、前歯が差し歯の人だったら決してかぶりついてはいけない。しかしよく味わってみると、この店が意固地になって守ろうとしているものが何だか分かるのだ。
 今日はパン・ド・カンパーニュを買ってきた。黒ビールと一緒に何度も噛んでいると、なんともいえない小麦のうまみが口の中で広がってくる。でも、このうまさ、一体何人の日本人に分かってもらえるのだろうか?柔らかいパンが好きな日本人相手では商売が成り立っていかないのではないか?別に自分の問題でもないのだが、ちょっと心配になってしまう。時々来てあげよう。

おさん
 今週は新作オペラ「おさん」の練習に明け暮れた。特に第一場のパーティー場面は大変だ。合唱団員は48人だが、これが6つのグループに分かれ、さらにグループ内で声部が分かれる。最大二十数声部に分かれるのだ。そうなるともう混沌状態。なにがなんだか分からない。
「おさん、ヤッター!おさん!出世したアアアアアアア!」
でもね・・・、それでも練習しているとだんだん出来てくるんだ。なんでもありに見えたものが、間違うと分かるようになる。僕だけじゃない。みんなもだよ。そうなるとこの無調が快感にすらなってくる。
 みんな目は血走ってくるし、頭は極度に疲労する。だから夜の「マクベス」の練習になるともう声も出す気力もないのかっていうと、これが違うんだな。
 声を出し切れない欲求不満が、単純でベルカントな「ヴェルディ」という格好の餌食を見つけて襲いかかる。つまり、みんな素晴らしい声を出すんだ。驚いてしまう。
「無理しなくていいよ。声をセーブしてもいいからね。」
と言ったって誰も聞きやしない。みんなの前に座っている僕が恐怖を覚えるほどに、体の奥から全く本番のテンションで声を出す。出す!出す!
こんな状態が毎日続いた。ふぅー!週末になってホッとしたよ。きっと今頃みんなもね。

外国語の表記
 ヴィクトル・ユーゴーは、最近の表記ではユゴーなんだね。僕が学生の頃はユーゴーだったのに・・・。確かにフランス語的発音ではユーゴーと書いてしまうと長すぎるかも知れない。でもユゴーでは今度は短すぎる気がするんだ。それにヴィクトルは本当ならヴィクトールだよ。難しいなあ。まあ、とりあえずこれからはユゴーと書きます。
 カンブローヌも、検索ではむしろカンブロヌが多い。しかしカンブロンヌがないのが不思議だ。パリジェンヌと言うだろう。あれだってカンブローヌ式だったらパリズィエーヌ、あるいはパリズィエヌと言うべきなんだよ。

 NHKで放送する時は、変なところをいろいろ直される。ヴォータンと言ってはいけない。ウォータンと言わなければならない。だけど僕はどうしても抵抗があるので、
「はい、分かりました。」
とは言うものの、やっているうちにどんどん唇を噛んでいってしまう。すると、
「三澤さん、だんだんヴォータンになってきましたね。」
とチェックが入る。僕は舌を出して、
「はい、はい。」
と言いながら、まただんだん唇を噛んでいくのだ。
「ワーグナーのパルシファルは・・・」と言わせられても、どうしても「ヴァーグナーのパルズィファルは・・・」と言いたくなるね。でもそれではきっと日本人の聴衆にはバター臭く聞こえるのかな。国民的受信料徴収放送局としては日本国民にふさわしい言い方を定着させなければという使命があるのだろう。
 でもこの日本語表記は、誰がどうやって決めるのでしょう?シュヴァイツァー博士は、後でシュワイツエル博士になったけれど、その後どうなってますか?誰か知っていたら教えて?

レ・ミゼラブルとフランス
 さて「レ・ミゼラブル」は不思議な小説だ。この小説のストーリーの部分だけをつなぎ合わせたらかなり短くて読みやすい。各場面は息詰まるような展開を見せ、読者を興奮の渦に巻き込む。しかしそうやって惹きつけておいて、一番いいところでパタッとやめて、別のエピソードを延々始める。そのギャップに最初は悩まされた。でもそこに挿入されているエピソードや説明が、むしろユゴーの言いたいことのようだ。
 題名を見ても、本当の主人公はジャン・バルジャンではなくて、この中に出てくる、貧しいけれど清らかに生きている人々や、貧しい故に精神まで病んでしまった悲惨な人々、追いつめられ、蔑まれ、希望を失った人々、ごろつきや、浮浪児や、強盗など、ありとあらゆるミゼラブルな人々らしいな。
 それにしてもフランスという国をかなり見直した。フランスは大革命後、国がいわゆる「落ち着いた」状態になるまで一体どれほどの時間と犠牲を必要としたのだろうか。特にナポレオン時代が終焉を迎えると、国は何度も共和制と帝政とをいったりきたりした。その度に前時代の価値観は全くくつがえされ、前の時代で認められていた者は次の時代では迫害の憂き目に遭った。ナポレオン軍にいた父親を持ったユゴー自身もその運命にあった。「レ・ミゼラブル」で現されている人達は、まさに第九の歌詞のWas die Mode streng geteilt(時代の価値観が激しく引き裂いたもの)で犠牲になっている最も弱く無力な人達の姿である。
 それでもフランス人は、自分達の国のあり方をずっとずっと自分達で考えて、それに向かっての変革を厭わなかった。民衆がみんなの力を合わせてそれを成し得たのだ。それが今日我々が獲得している民主主義という平和状態の礎となっているのである。
 フランス人のみならずヨーロッパ人が、フランス革命を自分達の存在のルーツであると認識しようとするのも分かるような気がする。
 ひるがえって我が国を眺める時、黒船やマッカーサーなど、変革のキッカケは常に外から与えられてきた。我々は常に受け身であった。それでも国が崩壊しなかったのは、まさに奇跡という他はない。そうした幸運にあぐらをかいている日本人は、自分達で議論をつくし判断し、それに伴う犠牲も覚悟した上でひとつの結論を出すという発想を持つべくもない。
 「レ・ミゼラブル」はそんな沢山の事を僕に気づかせてくれる。今、全五巻中、第四巻の後半。のんびりする読書は、精神にとって極上の娯楽。魂は知性という養分を与えられ、思索という光を与えられ、すくすくと空に向かって伸びてゆく。こうした歓びの他に人生において一体何の道楽が必要だというのか?

注: 一部不適切とご指摘を受けかねない表現については、小説本文中でも頻繁に使用されているのと、そもそも差別されている人たちを描く小説なので、本稿でもそのまま使用しています。(事務局)



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