ターミナル

三澤洋史 

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ターミナル
 やっぱり僕はトム・ハンクスが好きなんだな。彼の主演の映画が宣伝されると、ついふらふらと行ってしまう。最初は映画館で何かの映画の予告編でやっていた「フォレスト・ガンプ」。精神的ハンディを背負った扱いにくいキャラクターをどう演じるのか、単純に好奇心から出掛けたのだが、その演技の見事さと、彼の持つ独特な雰囲気に魅せられた。でも、その時はそれでひとまず終わり。
 それから「シティ・オブ・エンジェル」でメグ・ライアンのファンになった僕は、彼女が新しい映画でトム・ハンクスと共演するというので、「へえー」と思って出掛けた。それが「ユー・ガット・メール」。とっても素敵な映画だったんだ。台本自体はどうってことないんだけど、二人の演技が素晴らしく、若い人には絶対に出せない独特な雰囲気があって、中年の僕はシビレたね。そうしたらこの二人、すでに数年前「めぐり逢えたら」というラブストーリーで共演しているというので、こちらはビデオで鑑賞。
 そして衝撃的な「プライベート・ライアン」を経て、今日は数日前から新聞広告で見て気になっていた「ターミナル」に出掛けた。今日12月18日が全国一斉封切り。十時半からの指定券を前売り予約した。立川のシネマシティは音響が良いから好きだ。2300円の指定券は、ポップコーンとドリンク券付きだが、トイレに行きたくなると困るので使わなかった。12月31日まで有効なので、誰か今年中にシネマシティに行く人は差し上げます。でも立川だものね。ポップコーンとドリンクを自分で買う代金より運賃の方が高くなってしまう人が大部分でしょう。

 「ターミナル」は、祖国がクーデターになってしまったためにパスポートが無効になり、アメリカへの入国が不可能になってしまった男が、なんと空港で数ヶ月も暮らすという、ほとんどあり得ない話。監督は、あのETのスピルバーグだが、スピルバーグらしさを求めて映画館に出掛けた人は多分失望するだろう。でもこの作品、とてもアカデミー賞や他の賞なんて取れる感じではないけれど、最初からそうしたセンセーショナルなものを全くねらっていないつもりなのが、ストーリーが進んでくる内によく分かってくる。
 映画はなんといってもトム・ハンクスひとりの演技にかかっている。とにかく彼から片時も目が離せない。可笑しくて「あははは!」と声を出して笑ってしまう場面が十回以上あったが、主人公のビクター・ナボルスキーの朴訥で馬鹿正直な生き方に共感させられ、涙を流すほどではないけれど、胸の中にはいつも「じ~ん」と暖かいものが流れていた。いいなあ、こういう作品。派手な作品だけが映画の魅力じゃないよね。
 トム・ハンクスはブラッド・ピットのようにイケメンというわけではないけれど、ひたむきで内面的で、そして瞳がなんともロマンチックなんだ。
 それから分かった事がひとつある。僕がミュージカル「ナディーヌ」で主人公ピエール役に田中誠君を使ったのは、雰囲気がなんとなくトム・ハンクスに似ているから。トム・ハンクスが歌さえ上手に歌えたら、ピエールで使ってやってもいいんだけど・・・・なんちゃって!

会場間違えた!
 映画を見終わってゆったりとした気分で東響の大友第九の会場に向かった。しかしこんな時の僕は要注意!よくやるんだ。ボーッとしてヘマをやらかす。実は、今日に限って予定表をちゃんと見ないで、サントリー・ホールに行ってしまった。なんでだろう?信じ切っていたんだ。サントリー・ホールだって。というより、そうとも考えなかった。足が自然に向かっていた。
 中央線東京行きが立川駅を出たのは一時前。オケ合わせは三時からなので楽勝そのもの。一時半過ぎに四谷駅に着いて、まずパン屋のポールがあるのを確認する。
 「ふんふん、ここにあったか。」
それからその近くの和食屋で鰻の櫃まぶしを食べたが、浜松の駅前の「お櫃うなぎ茶漬け」には遠く及ばず、「駄目だなあ」と首を振りながら南北線に乗る。お昼の量が少なかったので、日航ホテル手前のドトールで苺ショートを食べながらコーヒーを飲む。
 「あまり早く行っても仕方ないしな。」
と余裕かまして「ターミナル」のパンフレットなどぼんやり読む。
 さて、オケ合わせの時間が近づいてきたので楽屋口に向かう。でもホールに入っていく人達が僕の知らない人ばっかりなのだ。
「東響コーラスもちょっと来ない間に新人が増えたなあ・・・・まてよ・・・新人と言っても一応みんなの歌はひとりひとり聴いているはず。こんなに知らない人がいるわけないだろう・・・。」
ハッとして予定表をカバンから引っ張り出す。思わず手が震える。
「いっけねえ!池袋芸術劇場だったあ!」
 背中に冷たいものが走った。急いでマネージャーに電話する。
「ご、ごめんなさい!会場間違えました。」

 この際名誉を守るために言っておくけど、僕の今日義務づけられた勤務としては、五時五十分の本番直前最終指導なので、三時のオケ合わせに間に合わないからと言ってペナルティの対象になるものではない。マネージャーは涼しい声で、
「では最終指導にいらして下さい。」
と言ってくれたが、僕はやはり少しでも聴いておかないと最終指導にも響くと思ったので、とにかく急いで行く旨を告げた。
 六本木一丁目に戻り、南北線で飯田橋まで行く。電車の中を走ったら早く着かないかな、なんて馬鹿な事を思うものなんだよね。こんな時って・・・。有楽町線に乗り換えて池袋まで三十分あまりかかった。
「うわあ!大遅刻だよ。みんな歌い終わって出てくるところ鉢合わせしたら恥ずかしいなあ。」
と恐る恐る楽屋に入る。でも不思議や不思議。みんな舞台袖で並んでいる。ソプラノ・パートリーダーのNさんと目が合ったので、
「もしかしてこれから?」
とこっそり聞いたら、そうだと言った。どうやら前の曲の練習が遅れていたらしい。まさに不幸中の幸い!素知らぬ顔でなんとか滑り込んで間に合った・・・・というわけでもないね。コート着てカバン持ったまんま「ハアハア!」言ってたもんね。バレバレだね。

 最終指導の時にマネージャーがみんなに向かって、
「練習が遅れてしまって申し訳ありませんでした。」
とあやまっていたけれど、いえいえどういたしまして。遅れてしまってありがとうございました。もし間に合わなかったら、今頃「ターミナル」に行ったことなんか申し訳なくて書けませんでしたからね。

「歓喜の歌」と「レ・ミゼラブル」
 第九の四楽章、歓喜の歌のメロディーを聴きながら、「レ・ミゼラブル」の世界と同じ時代の香りを感じた。この歌はベートーヴェンにとって「サイラ」や「ラ・マルセイエーズ」なのだ。つまり民衆の歌なのだ。だからこんなにシンプルなメロディーなのだ。

「市民諸君、諸君は未来を想像しているか?都市の街路は光りにあふれ、緑の枝は戸口に垂れ茂り、諸国民は姉妹となり、人びとは正しくなり、老人は子供をいつくしみ、過去は現在を愛し、思想家は完全な自由を持ち、信者は完全な平等を持ち、天をあがめ、神は直接に司祭となり、人間の良心が祭壇となり、もはや憎しみは消え、仕事場と学校は友愛で結ばれ、刑罰と褒賞は公明に行われ、万人に仕事がゆきわたり、万人に権利が与えられ、万人に平和が訪れ、もはや流血も、戦争もなくなり、母親は幸福になる!」

 これは帝政に反抗する革命軍を率いるアンジョルラスのセリフだ。この頃、まだ彼の説く理想的世界は達成されていなかった。シラーやベートーヴェンが歓喜の歌に託した思いも、このアンジョルラスの言葉と同じものだ。
 では現代は?現代は達成出来たと言えるのだろうか?ここまでくるのにどれほどの血が流れたことだろう。人類は何度も何度も愚行を繰り返し、それでも明日への希望を捨てずに歩んできた。少しずつではあるが進歩してきたようには思う。少なくともこの日本においては、人々が明日に怯えることは少なくなり、基本的人権はかなり守られるようにはなってきたと言えるかも知れない。
 だが9.11の後で「イマジン」を歌うことに人々がためらいを覚えたように、世界は今、第九の語るメッセージに耳が痛いのではないか。しかしながら私は思う。むしろこんな時だからこそ「イマジン」は高らかに歌われるべきだし、シラーの歌詞は未だその役目を終えてはいないのだと。
 アンジョルラスやマリユス達若い革命戦士達は、一途でどこまでも純粋無垢で痛ましく、そして輝いていて美しかった。我々は彼等のように輝いているだろうか?明日を夢見ているだろうか?もし無気力とあきらめのみが支配しているならば、我々は彼等の時代に負けているのだ。

内面の変化
 「レ・ミゼラブル」を読み終わって、僕が一番思ったことは、ジャン・ヴァルジャンを更生させたあの徳高きミリエル司教のように生きたいということだった。それは心の奥底から湧き出でてきた静かな、しかし熱い欲求だった。怒りや憎しみが人から人へと伝染していくように、愛や善行も人知れず人から人へと渡ってゆく。僕も、もう充分自分自身の為に生きた。これからは人のために生き、しだいに愛と祈りの生活に入っていきたい。
 なんて偉そうな事を言っているけれど、なかなか小説のようなわけにはいかない。でも最近、僕の内面ではなにか変化が起こっている。自分が再び精神的になってくるのを感じている。この変化がどう発展していくのか分からないけれど、少し見守ってみたいと思う。

 来週はいよいよ名古屋の五反城教会で、僕のクリスマス・メドレー世界初演です。先日名古屋に行ったら前回とは見違えるようになっていました。今から楽しみ楽しみ。



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