自分らしさ
今年も残すところあと数日。月並みな言葉だが、あっという間だったけれど、いろんなことがあった。
筆頭に挙げたいのは、なんといっても自作ミュージカル「ナディーヌ」公演の成功。それから新国立劇場の子供オペラ「ジークフリートの冒険」。この二つは、僕にとって「自分にしか出来ない、まさに自分らしい」公演として忘れられないものである。
12月23日、名古屋の五反城教会でのモーツァルト200合唱団の「クリスマス・コンサート」も、規模は小さいけれど、僕には忘れられない演奏会だった。自分の編曲した三つのクリスマス・メドレーが大成功だったこともあるが、僕が、第一部ではメサイアの歌詞をナレーションし、第二部では各メドレーの前にお話をしたことで、会場中がとても良い雰囲気に包まれたのだ。こんな演奏会に餓えていたのだ。いつも大きいところでクォリティーばかり求められ、暖かさに欠けていた自分自身を取り戻した感じだ。
今年は、自分がひとりの芸術家としてどういう時に最も充実感を覚えるのか、はっきり分かった年でもあった。ベートーヴェンの書く曲は、どんな曲でもまさにベートーヴェン以外の誰にも書けないベートーヴェンの匂いでぷんぷんしているように、あるいはゴッホの絵は誰が見てもゴッホでしかあり得ないように、僕も自分が自分であるアイデンティティーを見つけることが出来た。そのアイデンティティーとは、言葉で言うと恥ずかしいが、「愛」であり「夢」であり「暖かさ」だ。
これからの僕は、公演の規模、ジャンルやレベルを越えて、ただ僕自身の内面に向かって、自分の納得のいくものを追求していく使命を負っているように思う。どこにいても、どのような状態の中でも自分らしくありたいし、あらねばならぬと感じているのである。
そうした自分らしさの表現のひとつとして、MDR-Projectの立ち上げは、少なからず自分を支えている。毎週更新する「今日この頃」は、自分の魂の歴史そのものだ。僕は音楽だけが自分の表現手段とは思っていない。ミュージカルの演出をしている時、ラジオの解説をしている時、講演をしている時、同じように表現者としての自分がいる。その中でも文章による表現は特別だ。毎週自分の身辺をエッセイにする機会はかけがえのないものだ。
日本語、実は苦手
僕は作家気取りでいるわけではない。自分の文章がプロのように素晴らしいわけではない事は自分でよく分かっている。というより、実は僕は日本語が苦手なのだ。
僕は文章を考える時、まずドイツ語的に考えてしまう。頭の中で必ず主語と述語を作る。「いつ」「どこで」「誰が」「何を」「どのように」「どうした」をきちんと並べないと気が済まない。だから僕の文章は曖昧でなくきちんとしていると人から言われるが、同時に翻訳文調で硬い。それに好きなのは外国文学で、交響曲のように論理的な、あるいは神や宗教や罪や精神性を表現した文学が好きだから、どうしても思考も硬い。
エッセイでは、そうした自分の殻を打ち破るべく、なるべく柔らかくて親しみやすい文章を書こうと、人知れず試行錯誤している。「天使の梯子」など日本文学を時々読むのもそのためだ。日本の作家達の文章はやはりうまい。日本語というのは主語も述語もはっきりしない実に曖昧な言語だが、そこには曖昧なりに秩序がある。そこがまだよく分からないのだ。一度頭の中で組み立てた主語述語を「天使の梯子」などの手本に従ってボカしていく。
だって、僕は気を付けないとドイツ語のように「一台の車の両側のライト達は」などのように定冠詞、不定冠詞や複数形も規定したくなるんだから始末が悪い。それを「車の両側にあるライトは」にするだけでも努力が要る。ちなみに「努力が要る」という文章は未だによく分からない。「努力が」は、「が」を使っているけど主語じゃない。正確には「僕は努力が要る」であるべきで、主語は僕。「が」は曲者だ。「君が好き」の「が」だ。目的格を支えるのだ。でも、何故「君を好きだ。」と言わないのだ?けしからん!僕が最初に考えるのは、「僕は努力を必要とする」なのだ。それを、主語を省いて「努力が要る」に落ち着かせてまんまと日本人になりすます。
変だね。自分でも変だと思う。一方、日本語の乱れを嘆く人の意見をよく聞いたり読んだりするが、僕自身は日本語に自信がないので、その点に関してはどーでもいいという意見を持っている。むしろ「ら抜き」言葉とか好んで使っている。
そうした言葉の摩滅は外国語では当たり前だ。stという子音の組み合わせが言いにくいフランス人は、これを全てetに変えてしまう。
男声合唱
男声合唱に僕は弱い。それは僕の原点だからだ。僕の出身は高崎高校合唱部。男子校なので合唱部は当然男声合唱だ。実は僕は合唱部に入るつもりなんかこれっぽっちもなかった。中学の時に吹奏楽でトランペットを吹いていたんだけれど、ちょっと体を壊したり、ヘタで向いていないのが分かって、高校に入学した時は打楽器でもやろうと思って吹奏楽部に入部した。先輩に命令されるままに、ゴムの練習台でドラムのスティックを持ってテケテケと練習を開始した瞬間、隣の部屋からなにやらゴーッという和音が聞こえてきた。
「あれは何ですか?」
「ああ、あれは隣で合唱部が発声練習をしているんだよ。」
「・・・・・・。」
それから十分くらいテケテケをやめて合唱の響きに聴き入っていた僕は、再び先輩のところに行く。
「あのう・・・・・・。」
「ん?」
「済みませんが、俺やめます。」
「ええ?お前、さっき入ったばかりじゃねえかよ。」
「隣の合唱部に行きます。それじゃあ、短い間ですけどありがとうございました。」
先輩は、悠々と立ち去る僕の後ろ姿を、言葉もなく呆然と見つめていた。あの時、まさに天啓が下ったのだ。合唱の響き!あのゴーッ!という人間の声の魅力。今から考えると、それは単なる雄叫びのようなものだったかも知れない。でもそれを聴いた瞬間に、僕の合唱人生は始まったのだ。僕は、全く何の迷いもなく、現在までに至るこの進路に舵を向けたのである。
だから六本木合唱団倶楽部で「いざ立て戦人よ」を指揮する時だって、僕は今でもバス・パートを完璧に覚えていて、歌いながら指揮をする。高崎高校合唱部の学生指揮者として振っていた時と全く同じなのである。
25日(土)にあった京大とジョイントの東大アカデミカ・コールの演奏会でも、混声ではない胸のうずきを感じる。打ち上げでみんなが「ウ・ボイ」を暗譜で歌っている時なんかは、昔のあこがれが蘇ってくる。
「大学のグリーは凄いぜ。俺たちが日本語で歌ってるウ・ボイなんか原語で歌うんだ。」
「すげえ!」
今、あらためて聴いてみると、アカデミカの連中の歌っているクロアチア語の発音もかなり怪しいものがあるが、そうした客観的な批評を寄せ付けないほど、かつての高校生の視点から羨望のまなざしで見ている自分がいる。
かなり酔っぱらった後、いきなり、
「三澤先生、是非振って下さい!」
と声がかかって宴会場にしつらえた舞台に呼び出され、多田武彦の「雨」を暗譜で振った。
浜松バッハ研究会とお櫃うなぎ茶漬け
浜松駅前「八百徳」のお櫃うなぎ茶漬けは絶品です。昨日は浜松バッハ研究会の練習前に食べて、
「やっぱりここで食べたら、他で食えんわ。」
という思いを強くしました。
刻んだうなぎが刻み海苔と一緒にお櫃に入っているのは、どこも同じようだが、うなぎが豊富、タレがうまい、という点でまず他の店の「ひつまぶし」を引き離す。
極めつけはお茶!ただのお茶じゃない。昆布茶なのだ。これがうなぎの臭みを見事に消す。ただし常にお茶漬けにしなくても良い。そのままご飯茶碗に取って食べるかと思うと、次はワサビ、ネギをたっぷり乗せてお茶漬けにしようかな?なんて悩むのもまた楽し。
クリスマスに「マタイ受難曲」をやるのもなんとも言えない。でも、いろいろあった今年。平和について考え、災害の中で明日の命も危うい我々人間の生のはかなさについて考え、来年9月25日の浜松バッハ研究会「マタイ」のコンセプトが決まった。
それは「怒り」。
初めのコラールで「心より愛するイエスよ、あなたは一体何をしたっていうのですか?」
と問う時から、僕は、胸の中に不条理に対する怒りを持って演奏するだろう。その怒りがどう曲の進行と共に変わっていくか、まだ決めていない。それを、これから9ヶ月かけて浜松の人達と一緒に作っていこうと思っている。
年末年始の原稿は一週間だけ休ませて下さい。群馬に帰っていろいろまとめてやることがあるのです。その代わり、掲示板にはカキコします。こちらは活発にどうぞ。
来年はいよいよ「ドイツ・レクィエム」演奏会があります。3月3日誕生日の僕は、その頃いよいよ五十歳になります。この歳でなければ出来ない活動をしていきたいと思っています。
みなさんにとって来年が素晴らしい年になりますように、心からお祈りいたします。