ふるさとの山はありがたきかな

三澤洋史 

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ふるさとの山はありがたきかな
 暮れの群馬は寒かった。昨晩の熱い「秋山和慶第九」の余韻がまだ胸に残っている中、タンタンを連れて土手に登る。東京とは全く違ったキーンという空気が支配している。一番土手と二番土手の間には小さい温井川が流れている。ここで僕が子供の頃、祖父がよくドジョウや鮒を釣っていたっけ。温井川を渡る橋の手前には虚空蔵様と呼ばれる社がある。お正月の朝にここに行くと甘酒がもらえる。
 橋を渡り、二番土手を登る。目の前に雄大な景色が飛び込んでくる。どこまでもすそ野が広がる赤城山と、外輪山の真ん中にすり鉢状の美しい榛名富士を乗せた榛名山が鮮やかに浮かび上がり、その間に真っ白な谷川岳の連峰が輝いている。

 目を左に移すと浅間山がある。富士山よりもずっとアンバランスなその姿は、それ故に男性的で雄大さを持つ。僕のミュージカル「おにころ」では、浅間山が噴火し、村人達が「不吉なことが起こる!」と言って怯える場面がある。群馬の人達は噴火することを「ハネる」と言う。その浅間山が昨年久しぶりに「ハネた」。でも子供の頃はしょっちゅうだったような気がする。「ドン!」という鈍い音がすると、すかさず母親が
「おや、浅間がハネた。灰が飛んでくるから洗濯物が干せないねえ。」
と言っていた。

 さらにすぐ左は、登山で有名な、というより岩盤が柔らかいので遭難で有名な妙義山のギザギザの峰が気難しそうにそびえている。この山で僕が中学生の時、同級生のお姉さんが遭難した。二つ上で僕の下の姉と同級生。美人で僕はひそかにあこがれていたんだ。
 でも、あれだねえ。姉がいたので、僕は恋に恋する多感な思春期に随分迷惑を被ったのだ。あの頃、年上の女性というのは一種の完成された存在であって欲しかったのに、目の前に姉が二人もいることで、冷水をぶっかけられるように幻滅させられることが多かった。
 実はもうひとり、吹奏楽部でフルート吹いている美人の先輩にもあこがれていたんだけれど、この人ももしかして姉のように、家に帰ると寝っ転がってせんべいをかじりながら鼻くそほじっているのかな、嫌だな、絶対に姉のように歩きながらおならなんかしないで欲しいな、とどれだけ苦しんだことか・・・・・。
 ええと、何の話だっけ?ああ、そうそう妙義山。

 二番土手の向こうには町営グランドが広がっていて、その向こうは烏川の河原だ。グランドのすぐ横には畑があり、僕の母はその一角を借りてネギやほうれん草を作っている。とうとうと流れる烏川の水は不思議なほど青い。烏川は、僕の町のはずれで、埼玉県との県境を形作っている神流川と合流し、さらに利根川に流れ込む。
 この景色は、僕が物心ついた時から少しも変わらない。僕は子供の頃から、嬉しい時も悲しい時も、いつも土手に来た。おなじみの景色は常に僕と共にいた。そうやってもう五十年も経とうとしている。

紅白歌合戦と超常現象について
 大晦日の新町は、朝から風花がちらつき、午後になると本格的な雪になった。それはみるみる積もって、街全体の景色を一気に雪国の風情で包んでしまった。そうなると、気温はあんなに低いのに、なにかあたりにほのぼのとした暖かさを感じさせるから不思議だ。 雪は防音効果を伴って街に静けさを与える。買い物が残っていたので車でちょっと離れた大きなスーパーに行こうと思っていたのに、雪のお陰で怖いからやめて、徒歩で近くのスーパーに行くこととなった。家内と二人で傘をさして雪の中完全防備で出掛ける。こういうのって、なんか車でスーッと行ってしまうよりずっと楽しいな。ワクワクするよ。
 でもスーパーにとっては、ワクワクなんてとても言ってられる状況ではない。雪のおかげで気の毒なほど客が少ないのだ。みんな出るのがおっくうになって、家であるもので済ませようとしているに違いない。お刺身なんか山のように余っている。どうするんだろう、これ?

 僕の両親は、大晦日には「紅白歌合戦」、その後に「行く年来る年」を見て、午前0時きっかりに神棚の水を取り替えて新年を迎えると決めている。でも僕は、紅白歌合戦を横目で見ながら、ノート・パソコンのVAIO君で書類を作っていてみんなに嫌がられたり、途中で「たけしの超常現象」という番組を見に行ってしまったりして落ち着かなかった。
 紅白歌合戦は視聴率40%割れだとか言っているけれど、当然だよ。つまらないもの。時間が長すぎるし、いろんな嗜好を持つ人に合わせて均等に人選を行うなどという、まさにNHK的なというか役所的なやり方が、ますます番組の焦点をぼかしている。面白いのは「マツケン・サンバ」だけだった。僕サンバ大好きだからね。

 それよりも、結構馬鹿馬鹿しかったけど、「たけしの超常現象」の方が数倍面白かった。アメリカが密かに宇宙人を生け捕りにしており、その宇宙人からUFOの作り方を教わって、試験飛行までしているというのだ。僕は、これはあり得ると思う。
 UFOについては、沢山の見間違い、勘違い、意図的ないしは善意からのねつ造などあるだろうが、だからといって大槻教授のように現代科学で解明出来ないものを「全て」嘘とするのは、逆に科学的な思考法ではないと思う。
 電波だって、発見され実用化される前に、
「遠くにいても話が出来たり、映像が見れるんだ。」
という人がいたら、
「なにを馬鹿な事言ってるんだ。」
と一笑にふされたかも知れないではないか。
 霊や気だってそうだ。僕はいずれは電波のように、それらが「科学的に」解明される日が来ると思う。人類がまだ認識出来ていない事って沢山あるんだ。だから科学者よ、謙虚になりなさい!
 だいたいねえ、現代科学の粋を集めたというパソコンだってね、やっとWindows XPになってからだよ、夢中で書類を作っている最中にフリーズして全てパア、なんていうのがあまり起こらなくなってきたのは。それにね、CPUが発熱するっていうんで、まるで熱々の肉まんをふうふうするように扇風機の風で冷やすなんて原始的な事をやっているんだよ。今から50年、100年経ってみたら、きっと笑い話になるよ。こんな程度なんだよ。まだ現代文明って。

またまたヴィクトル・ユゴーについて
 無事年が明けて東京に戻ってきて、1月4日には、東京富士美術館に「ヴィクトル・ユゴーとロマン派展」を家内と二人で見に行った。作家の展覧会なので美術 館のようにビジュアルに訴える要素は少ないんじゃないかなと、あまり期待しないで行ったけれども、予想に反してかなり良かった。というより感動した。
 ベートーヴェンやワーグナーもそうだけれど、この頃の芸術家は社会に対しても目を向け、理想を描き行動し、自分の作品の中にもそれらを投影させていく。現代の芸術家は、政治や社会に関わっていかないことを旨としているけれど、それで本当にいいのかと思った。
 ユゴーは、1845年上院議員となり、1848年の二月革命後は共和派の議員として活躍したが、ナポレオン三世に反抗して国を追われ、長い亡命生活を送らねばならなかった。しかし1870年の譜仏戦争でナポレオン三世の帝政が崩壊すると帰国し、再び国会議員や上院議員として活躍した。彼がパリの北駅に戻ると、大勢の人々が歓呼して彼を迎えたので、ユゴーは驚きに目を見張ったという。彼が死ぬとフランスは盛大な国葬で彼を葬った。

 まさに偉大な人だったのだ。でも残念ながら日本では「レ・ミゼラブル」の作者としてしか知られていない。それに彼の著書は「レ・ミゼラブル」以外ほとんど訳されていない。
 富士美術館は創価学会系の美術館だ。八王子のこのあたり一帯は創価大学をはじめとして様々な学会系の建物がある。この美術館で、同じく学会系の潮出版社から「ユゴー全集」が出ていたのを見た。こうした業績は評価するが、一冊五千円前後のこの全集はいくらなんでも高すぎる。これを無理矢理学会員に買わせてはいないだろうな、と要らぬお世話ながらちょっと心配になった。でも他に出ていないんじゃ、僕もこれを買うしかないかな。
 とりあえず、下の娘が11日にパリに出掛けて、一ヶ月お姉ちゃんの所に滞在し、語学学校に通うので、「ノートルダム・ド・パリ」の原書を買ってくるように頼んだ。このくらいの長さなら、なんとかフランス語で読めるかな。

僕はただ僕の愛について語りたい
 さて、ワーグナー・フォーラムに乗せる原稿も正月中に下書きを済ませ、なんとか形になってきた。今週からいよいよドイツ・レクィエムのレクチャーの準備にかかる。
 ひとつ演奏会の企画が持ち上がっている。群馬の新町歌劇団より、ナディーヌの佐藤泰子とオリーの柴田啓介を中心とする声楽カルテットの演奏会を催して欲しいという要望があり、出し物を何にしようかなと考え中だったのだが、暮れから正月にかけてシューマンの未亡人でもあり、当時ショパンやリストと並ぶほどの人気女流ピアニストでもあったクララ・シューマンの事を調べていく内に、これを題材に演奏会を組もうと思い立った。
 調べれば調べるほどクララ・シューマンは素晴らしい女性であることが分かってきた。ブラームスは若い時からクララを慕い、それはやがて狂おしいほどの恋慕へと発展するが、晩年になると穏やかな信頼関係へと移り変わっていく。
 演奏会のタイトルは、ブラームスがクララにあてた手紙の中の情熱的な文句「僕はただ僕の愛について語りたい」にした。
 ストーリーを僕が読み、彼等にも短いセリフをしゃべらせ、シューマン、ブラームスの歌曲やブラームスの「愛の歌」などの重唱を織り込みながら物語は進む。絶対に感動的なものになること請け合いである。 
 それを第一部として、第二部はオペラの重唱を中心にしながら、やはりテーマは「愛」にして、様々な愛の形を追っていこうと思っている。
 折しも国立芸術小ホールの館長から別件で電話があった。ちょうどそのことを考えているところだったので話してみた。まだ何も分からないが、なんらかの形で国立ででも上演出来たらいいなと思っている。
 さてそんなわけで、今年も始動開始した。みなさん、またよろしく!




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