渋谷のうなぎ

三澤洋史 

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渋谷のうなぎ
 ヤマハ渋谷店から、頼んでおいた楽譜が届いたという知らせが入ったので、新国立劇場に入る前に取りに行ってきた。
 僕は、渋谷にお昼時に行く時、密かに楽しみにしていることがある。それは、うなぎ屋である。なあんだ、またうなぎ屋の話か、と皆さんは思われるだろうが、ここのうなぎは、またひと味違うのである。

 井の頭線で渋谷に着くと、JR方面の中央口とは別に、ホーム後方から直接階段を降りて、道玄坂方面に出る西口がある。ここの改札を出て109やヤマハ方面に歩き出してすぐ左側のちょっと奥まったところに“元祖うな鐡”と呼ばれる店がある。最初、何気なく入ってランチうな重を注文した僕は、出てきたものを見て、
「あれっ、随分白いな。白焼きかな?」
と思った。あまりタレがかかっていないのである。
 それから一切れ口に入れてみた。第一印象は、
「味がないぞ!」
だったが、次の瞬間うなぎの肉のうまみが口いっぱいに広がった。へえーっ、うなぎって白身の魚だったんだ、という驚きが僕を包んだ。加えて、これだけの控えめなタレにもかかわらず、全然うなぎの臭みが感じられないことや、このタレが、薄味といえども、うなぎの肉と合わさったときに、なんともいえない味のハーモニーを醸し出すことにまたびっくりした。
 また山椒が変わっている。通常の粉山椒ではなく、“和歌山県のぶどう粒山椒”というのを使っている。ちょうどコショウの入れ物みたいに手でカリカリと回して出すのだが、柔らかい感じの味。でもうなぎ自体に臭みがないから、山椒はむしろいらないくらい。

 とにかくここは、素材の味を100%生かして極上の味。でも、言っておきますが、濃い味でないと物足りない人には合わないです。タレの甘みもほとんど感じられないくらいなので、蒲焼きらしくないとは言えるでしょう。これは好みの問題だからね。
 ランチ・メニューは、うな丼が\950、うな重は\1,500である。味からすれば、文句なく安い。
 おいしいうなぎを食べると、僕は心が豊かになって幸福感が広がるんだ。ちなみに“元祖うな鐡”にはホーム・ページがあるので紹介しておきます。
http://www.unatetsu.com/

ああ、フィッシャー・ディスカウ!
 ルドルフ・ケンペ指揮ベルリン・フィルの「ドイツ・レクィエム」を聴いていた。バリトン・ソロのフィッシャー・ディスカウはうまい。この人には、何も考えずにただ歌ってしまうという瞬間が決してない。それが時としてシューベルトなどの素朴なメロディーを歌うときに障害になったりもするのだが、ここでは世の無常や聖書の啓示を、まるで預言者のように権威を持って歌い語っている。こんな歌手はもう二度と出てこないような気がする。
 僕は、合唱団の練習などでよく例に挙げるのだが、フィッシャー・ディスカウのドイツ語が、あのように鮮明に聞こえるために、彼がどれだけ努力しているか知る人は少ない。 彼の子音の立て方は尋常ではない。近くで聞くと笑ってしまうくらい時間をかけて丁寧に子音をさばいているのである。ドイツ人である彼があそこまでやっているんだから、日本人ごときが普通にやってかなうわけがない。

 実は、僕は一度彼の前でピアノを弾いている。ベルリン留学時代での話である。8月の終わりから9月の初めにかけて彼の講習会があり、その為の受講者選出オーディションが6月の終わりにあった。僕は、ある日本人の声楽科の生徒からオーディションの伴奏を頼まれた。
 ベルリン芸術大学の一室。巨人ファフナーかと思うほど大きいフィッシャー・ディスカウ氏はにこにこ笑って僕に握手を求めてきた。僕は彼を完全に見上げる格好となり、僕の小さい手は彼のグローブのような手のひらの中にすっぽりはまってしまった。ふにゃっとして暖かかった。演奏をした後で彼は僕だけ部屋に残るように言った。二人になると彼は言う。
「君はどこから来たんだい?」
「ここの音大の指揮科の生徒です。」
「君はシューマンの『くるみの木』をとてもきれいに弾いたね。でも残念ながら、君が今伴奏してくれた生徒は多分落ちるだろう。」
「・・・・・。」
「実は、ひとり上手な生徒がいてね、その人をとろうと思うんだが、伴奏者が良くない。君さえよかったら、君が代わりにその人の伴奏をする気はないかい?」
「ああ、そういうことですか。いいですよ。」
僕が部屋を出ると、先ほどの生徒が僕の元に走ってきた。
「ねえ、どうだった?彼、何て?あたし受かる?」
「・・・・・。」

 ところが、その後、学校からはなんの連絡も入らなかった。僕は聴講には行こうと思っていたのだが、それも出来ずに終わってしまった。
 何故なら、その夏、妻は長女を身ごもっていて、9月10日の予定日のはずが、なんと8月26日に生まれてしまったのだ。
 僕は初めての娘の世話に追われていた。おむつを取り替えたり。お風呂に入れたり。買い物に行ったり。料理を作ったり。空いている時間でスコアの勉強をしているうちに日が過ぎていった。無理して聴講に行ってもよかったのだが、全然そんな気がおきなかった。初めての子供で嬉しくてしょうがなかったのだ。娘の顔は、一日見ていても飽きなかったからね。それでも、
「ああ、今頃講習会やっているんだろうな。」
と気にはしていた。今でもフィッシャー・ディスカウというと、あの日の感情が蘇ってくる。

フォレスト・ガンプ
 昨晩、「おさん」の練習が早く終わって家に帰り、新聞を見たら映画「フォレスト・ガンプ」を放映するという。最初だけ見ようかなと思ってテレビをつけたのがいけなかった。結局最後まで見てしまった。
 トム・ハンクスは今より随分若い感じがする。気がついたんだけど、コンセプトは「ターミナル」と全く同じだね。朴訥で正直で不器用な主人公が、現代人が忘れている何かを呼び覚ましてくれる。
 我々社会で求められているのは、フォレストとは逆に、正直でなくていいから有能で、支配的なヒーローなんだ。でもそんなヒーローとして成功するのは、ほんの一握りだけ。あとはそれになり損なった無数の挫折感を持った人達を社会は放出しているんだ。簡単に言ってしまうと、この映画はそんな社会に対するアンチテーゼ。
 フォレストは、なんの野望もなく、目の前に与えられた課題に対し全力をつくす。その結果、数々の成功が舞い込んでくる。しかし彼は何の執着も持たず、必要ないと悟ったらすぐにそれを捨てる。
 作品全体に流れる“禅の精神”のような透明感に今回は気がついた。諸行無常をアメリカ映画で表現したらこうなったという感じだ。僕は、この作品でトム・ハンクスに出逢ったので、原点に再会した感じで嬉しかった。

「おさん」いよいよ初日
 さて、「おさん」がいよいよ今週初日を迎える。粟国淳君の演出はかなり面白いぞ。トーキョー・リングの「神々の黄昏」を彷彿とさせるCG映像や、抽象的な舞台が、作品のドラマをシュール・リアリスティックに描いていく。男性はみんなサングラスをかけているんだよ。怪しいでしょう。
 例の「聞いたかい」アンサンブルの8人の男性は、今週から千秋楽まで毎回出番直前に、僕が直前練習をつけてから出陣することに決めた。なんてったってヒット商品にするんだから、バシッと決めてもらわないとね。
 粟国君はアイデアだけではなくて、稽古の進め方、演出家としてのイニシアティブの取り方、全ての面において確実に名演出家への階段を登っている。小柄な彼だが、ここのところ彼の周りのオーラがぐぐっと広がってきた。こうなると、僕も彼のことを、現代の我が国における若手オペラ演出家ナンバー・ワンであると言い切ってしまってもいいかなと思うようになってきた。若い彼に乞うご期待!みんな、「おさん」を見に、新国立劇場へ集まれえ!



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